カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「ネット右翼」考察/ゴルディアスの結び目

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050403/1112485208の続き。
ネット右翼」を考察したいという意思はずっと継続しているのだが、「ゴルディアスの結び目」のごとき存在であり、容易に解けるものではない。アレクサンダー大王を見習って絶ち切ってしまいたくなるが、それでも解いていこうと思う。
ネット右翼」への呼称として「ゾンビ」という呼称を考えてみた。あるいは「ネット・ゾンビ」と呼称するほうが、対象がよりクリアになってよいかもしれない。…と思った。「右翼」と「ネット右翼(ネット・ゾンビ)」を区別することには、一定の妥当性・有効性があるだろう。
いわゆる「ネット右翼」、ここで言う「ネット・ゾンビ」については、以前、「ネット・ウヨサヨ論スレ」で考察してみた。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1024022967/
当時は、「宗教右翼」「日本会議」という要因を考慮していなかったので、今とは私の立点が違うが、「虐められっ子が、webで強者ぶる振舞い」が、いわゆる「ネット右翼(ネット・ゾンビ)」の本質であり、その言説は「粗暴な愚者」の思考である、という考え方は、現在でも継続している。
ネット右翼(ネット・ゾンビ)」の定義は、「サヨク」という言葉を「他者を誹謗する言葉」として濫用している人々のことだ。思考というものをしていない。ホラー映画に登場するモンスター・ゾンビの脳味噌が腐っているのと同様、ハイチ島ブーズー教のゾンビたちが既に死体でありながら動いて害をなすのと同様、既に学問的には死んでいる政治言説を連呼して、人に害をなす。この特徴から「ネット・ゾンビ」と呼称することには一定の妥当性があるだろう。
が。しかしながら。
では「ネット・ゾンビ」とは区別された「右翼」という言葉を考えると、これまた憂鬱になる。
まず本質的に、日本では、「右翼」という概念は、アイロニカルであり、自己矛盾を抱えている。「右翼」「左翼」概念は、近代市民革命の際、それを支持し推進させたいと考えた側を「左翼」、それへの抵抗勢力を「右翼」と称したことに由来する。さて、日本の「国粋主義」の抱える自己矛盾一つ目は、「右翼」という概念自体が、欧米由来だということだ。輸入品でもって自己規定を行う矛盾。これはナショナリズムに共通する矛盾だ。
と、まずは最も高尚な次元での話を書いたが、もっと形而下のことを書こう。
戦前・戦中の歴史に登場する「右翼」とは、「思想」を指すのではなく、「職業」を指す。
「右翼」とは、まずもって「職業」なのだシノギの形態なのだ。
「右翼」とは、「情報屋」である。「情報」を金に替える仕事を、「右翼」と言う。
俗に、「右翼」と「左翼」という語は対称性を持ち、相互入れ替え可能であり、そう思っていないのは「右翼」「左翼」にアイデンティファイしている「特殊な考え方の人々」だけだ、理性的で冷静な人間ならそう考えるはずだ、と、考える人々がいる。ある程度まではこの理解は正しい。だが、この理解では捉えそこなう重要な側面が、「職業としての《右翼》」だ。
たとえば北一輝はある時期から、企業から金をもらい、職業として「右翼活動」をしていた。北一輝は政治情報を企業に売り、右翼情報を企業に売り、その対価として少なくない金額を企業から受け取っていた。「《街宣右翼》は本物の右翼ではない」という書き込みが、いわゆる「ネット右翼」によってしつっこく2chなどに書き込まれるが、とんでもない。「街宣右翼」こそ「職業としての《右翼》」の本体だ。「街宣右翼」を戦後はじめたのは、赤尾敏だ。
かくのごとく、「右翼」という概念は、それ自体がかなり醜悪な、恥の塊であり、とくに日本においてはどこまでも恥と嘘の塊である。その意味においては、「ネット・ゾンビ」と「右翼」の区別は不要かもしれない。
さて、この項、同時にいくつものことを書いた。同時にいくつものことを考えると思考にエラーが発生しやすくなる。また同時に複数の情報を発信すると、受信側は受信困難になり、情報発信としては無力になる。ので、やはり、さらに後日、いくつもに腑分けして、一つずつ整理しつつ考え、書いていくこととする。ゴルディアスの結び目を解くのは、やはりしんどい作業である。
ところで私が「右翼」のことばかり書いていて、「左翼」のことをほとんど書かないのは、私が興味を持って調べているのが「右翼の脳内にある《左翼陰謀論》」と、「右翼の歴史的実像」だからだ。左翼の歴史的実像を私はあまり調べていない。とりあえず、「右翼」の歴史的実像を調べるだけでこれだけ嫌な気分になるのなら、自分がアイデンティファイしている左翼の歴史的実像を調べたらきっともっと嫌な気分になるだろう。(「ネット右翼」どもへのドツキとしての自称ほどは、正直言って左翼にアイデンティファイしているわけでもないけど)
「ネット・ゾンビ(ネット右翼)」の重要な特徴は、「真実」に関心がない、「真実」に価値を置かない、という点にある。たとえばイラク人質事件のとき、「ネット・ゾンビ(ネット右翼)」たちの少なくない数の人々が、「自作自演説」を連呼しながら、「自作自演ではない」ことに気づいていた。事実ではなく、真実ではないから、連呼するのだ。この性格は、教条主義左翼(かつてのソ連支持者など)の性格に呼応する。ジョージ・オーウェルが『1984年』で描く、(官僚による)歴史の書き変え作業そのものだ。この意味においては、右翼と左翼という区分は無意味であり、「党派主義」「ご都合主義」と呼称するのがむしろ妥当だろう。オーウェルは評論で「ナショナリズム」と、この性格を呼称した。教条主義がしばしば「ご都合主義」であることを考えると、言葉をさらに捉え直しする必要を覚え、泥沼に嵌まり出すが、それもまた後日、一個ずつ解析することとする。「ご都合主義」であり「教条主義」な「党派主義」は、思考を放棄した態度であり、「ゾンビ的思考」「ゾンビ的振舞い」と一括できるかもしれない。あるいはすべきなのかもしれない。
…「職業としての《右翼》」を前提すると、「右翼」にアイデンティファイする思考が、なんつうか、なんつうか、なんちゅうかねえ。
…「右翼」と「左翼」が完全入れ替え可能ではない証左の一つとして、「街宣左翼」というものは、存在しない。