カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

電通@『日本/権力構造の謎』

以下、やや情報が古いですが、 K・V・ウォルフレン『日本/権力構造の謎 上巻』(早川文庫、1994年、362-369p ) から記事を引用します。
〔以下、引用〕
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 電通ほど一手に、直接、あるいは多数の下請けを使って大衆文化を作り出している企業体は世界中どこを探しても、ほかにない。万国博やローマ法王訪日時の準備など、主要イベントもこの会社が総合企画・演出の陣頭指揮に立つ。〔略〕
 電通は、日本の全テレビ・コマーシャルの三分の一の直接責任者であり、ゴールデンタイムのスポンサーの割り振りに関して実質的に独占的決定権をもつ。〔略〕約120の映像プロダクション、400以上のグラフィック・アート・スタジオがその傘下にある。午後7時〜11時の時間帯の番組にコマーシャルを出したい広告主は、電通を通すしかない。スポンサーの選定と放送番組の内容の大部分を電通が握っているからだ。
 〔略〕日本では、扱い高が即、政治力になるので、電通はこうした役割〔事実上の編成局〕を演じられるのである。〔略〕
 その結果、電通の影響力は日本のテレビ文化の内容まで左右し、世界中どこにも類例がみられないほど、強力なマスメディアを通しての社会統制になる。そして、このことには重大な政治的意味がある。テレビという麻薬が日本ほど見事に利用されているところは他にない〔略〕。皮肉なことに、NHKが、官界ともっとも直接的につながる局でありながら、リポーターが社会的な問題についての掛け値なしの疑問を投げかける、まじめな番組を放映することがある〔略〕。
 〔略〕欧米諸国のたいていのテレビ番組が平均精神年齢11、2歳の視聴者に合わせているとすれば、日本のテレビ番組は平均精神年齢8、9歳に合わせている。日本で日々の娯楽の質を決定する上で主要な役割を果たしているのは電通であり、電通はほとんどすべてのものを最低レベルまで下げるのに成功している。頭の働きを鈍化させる芸能娯楽を作り出す機関は他の国にも存在するが、今ここでわれわれが検討しているのは、ほぼ完全に他者を締め出して、大衆文化の質の向上を抑制したり拘束できるだけの力を持つ組織のことである。
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 電通の広告扱い高は、日本の総広告費の約四分の一に当たる。大手新聞の広告の五分の一強、主要雑誌の広告のおよそ三分の一が電通扱いである。残りの四分の三を約3,000社の中小広告代理店が分け合っている。〔略〕
 電通が、これほど無敵の存在になれたのはその人脈のおかげである。同社の社員採用方針でつねに目指してきたのは、テレビ界や出版界のトップ・クラスの管理者や幹部役員、および特別な広告主、プロの黒幕などの息子たちや近親者からなる人材プールを維持拡充することであった。〔略〕彼らを指して、大きなスポンサーと良好な関係を保つための「人質」だとは、電通のある役員がたとえ話に言ったことばである。
 〔略〕電通出身者の落ち着き先〔天下り先〕の一つは、テレビ番組の人気度を評価する視聴率調査会社、ビデオ・リサーチ社である。〔略〕管理者たちに不評なテレビ番組を解除するのにも活用される。論争の的になる時事問題(たとえば、部落問題、文部省による教科書検定、税制など)を扱った『判決』という番組は、低視聴率という口実をもって、放送が打ち切られた〔原注〕。
 電通は、消費者の追及から大企業を庇ったりもする。電通のある幹部は、アメリカの消費者運動活動家ラルフ・ネーダーを日本に招いた読売新聞が、電通の警告に応じて、同紙の予定していたネーダーについての二面抜きの特集記事を小さな記事に分割し、しかも調子を落としたと、スピーチで誇らしげに語った。また同じ頃、毎日新聞がこれも電通の指示のもとに、消費者運動についての記事を《穏当》なものに変えた〔原注2〕。電通は報道媒体に強大な圧力をかけ、電通のクライアントの名声に傷がつくような出来事は、報道させないか、報道に手心を加えさせることもできる。1955年、森永乳業の砒素入りミルクについてのニュースを電通が統制したケースは有名である。また、1964〜5年には、大正製薬が製造した風邪薬を飲んでショック死した人々についてのニュースを、電通が検閲し内容を変えさせた。〔略〕
 電通が報道関係を巧みに検閲できるのは、財政的な力に起因するだけではない。1936年から45年まで独占的な政府の宣伝機関だった同盟通信社と一体だったこと、また、どちらも戦時中の同盟通信社の末裔である共同通信社時事通信社という、日本の二大通信社とひじょうに緊密な関係にあることにも起因する。このつながりは株式の相互持ち合いによって強化されている。共同が扱うニュースについては、つねに電通に情報が入る。〔略〕
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 電通のもう一つの機能は、官僚および自民党のPR活動をしたり、《世論調査》を通して国民の《伝統的な価値》を支えることである。電通は、総理府及び自民党が必要な情報を収集し、偏った意見調査を通して《世論》を作り上げる手伝いをする。自民党の選挙キャンペーンというもっとも手のこんだ部門は、電通が引き受けている原子力発電所の安全性の宣伝や、さまざまな省庁の企画に関する宣伝なども扱っている。1970年代後半に、一連の野党系市長や知事を退陣させる政治的策動をとりまとめ、政治的に重大な地方消費者運動や反公害運動に対抗する反キャンペーンを展開したのも、電通である
 このような官庁および自民党のための仕事は、主に電通の《第九連絡局》でおこなわれ、ここには、建設省運輸省農水省、郵政省、文部省、大蔵省、総理府の各省を担当する別々の課がある。公式には民営化されたが実際には以前とほとんど変わっていないNTTやJRなどの公共企業も、この局が扱っている。この第九連絡局は、総理府の広報予算の三分の一以上、他の省庁の同四〇パーセントを吸収する〔原注3〕。また、自民党の広報宣伝予算についても、電通が独占に近い形で自由に使っている。
 自民党電通とがこのような親密な関係を保てる理由の一つは、電通は寡占によって実業界の顧客からひじょうに高い手数料をとれる、したがって、いつも《政治資金》の足りない自民党は、安くしてもらったり、支払いを急がなくてもよいからである。電通の第九連絡局は、1972年、田中角栄内閣発足直後に作られた。その一年後に、電通は注目すべき『自民党の広報についての一考察』という報告書を刊行し、その中で、自民党はすでに記者クラブ制度を通じて大手新聞、テレビ、ラジオの記者とはかなり有利な関係を保っていたが、新聞社発行以外の主要週刊誌との関係は、まだ十分に《決められたルール》にもとづくものではなかったと、よく引用される主張をしている。
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 電通のおよそ四〇パーセントに当たる売上高をもつ、日本で二番目に大きい広告代理店博報堂もまた、管理者、とくに財政金融界の管理者たちの間に安住している。この会社の社長が二代続いて、またほかにも数名の取締役が大蔵省からの天下りであるから、当然ともいえる。
 だが、もう少し小規模で、官僚のために宣伝活動を展開して、最も興味をひくのは、ひじょうに積極的な東急エージェンシーである。電通は、通常、官僚を通じて仕事の注文を受けるのだが、中曾根康弘が首相在任中は、彼自身が直接東急エージェンシーに電話をかけて指示した。このような緊密なつながりがあるのは、東急グループの総帥で、1987年まで日本商工会議所の会頭だった五島昇(1989年死去)が、東大の同期生・中曾根を、彼の人脈の頂点においていたからである。
 東急エージェンシーが担当した最大の仕事は、中曾根が戦後のタブーを排除する計画の一部として遂行し論争の的となった、建国記念の日に関連する祝賀イベントである。対象範囲がさらに広いもPのとしては、中曾根の行政改革案に関連し全国で展開された宣伝キャンペーンがある。このキャンペーンでは、主婦組織などから参加者を募って圧力団体を作り、市中行進や国会前デモを組織した。1983年3月には15000人の《デモ隊》動員に成功している。このような大きな仕事を担当して金銭的には損失があったが、人脈のつながりがいっそう強固なものになったおかげで東急エージェンシーは急成長する広告代理店になった。
 〔略〕自民党政府が次々と出す《政策要綱》は、たいてい広告コピーのように聞こえるのだが、それは具体的な政治理念のかわりに出てくるスローガンが前記の代理業者のどれかで作られたものだからである。

  〔原注〕三神博「言論の自由を否定する電通」(猪野健治編『電通公害論』日新報道、1971年 107−8頁)
  〔原注2〕マスコミ関係産業労働組合共闘会議編『マスコミ 一九七一』(労働旬報社、1971年 292頁、猪野健治「曲がり角にきた電通帝国主義」(猪野健治編『電通公害論』日新報道、1971年 50頁以下)
  〔原注3〕大下英治「総合《情報》商社 電通のタブー」(『創』1977年12月 137頁)、田原総一郎電通』(朝日新聞社、1984年 40−4頁)

〔以上、引用〕
http://www.bk1.co.jp/product/690461
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/flex-sign-in-done/250-0054119-9945854?bookmark-url=tg/detail/glance/-/books/4150501777

マスコミが民主党・小沢一郎代表論を煽っているわけだが…

小沢一郎代表」の力は自由党で証明済み、つまりさらに政党を小さくすることしか彼にはできないっつうの。こういう煽りは誰が作ってるんだろうね。民主党支持者がどっと離れること間違いないと思うのだが…。
後ろで絵を描いているのは日本に軍事負担をさせたがっているアメリカと、軍需産業で起死回生を狙っている財界かなあ。

黎明期の電通

 黎明期の電通をつくったのは、吉田秀雄(東京帝国大学経済学部卒)である。
 以下は、田原聡一朗がマトモだった若かりし頃の作品『電通』(朝日文庫、1984年 54−90p)から引用。小見出しはカマヤンがつけた。
〔以下、引用〕

黎明期の電通

 昭和十年(1935)2・26事件が起きる前年、吉田〔秀雄〕は上海に渡り、排日運動が熾烈をきわめる中で、邦字新聞、日系漢字新聞など、中国市場の媒体のほとんどを電通扱いにしている。〔略〕この吉田の快挙の背後には、当時の中国市場、ことに情報機関を完全に掌握していた《軍》との、なんらかの《連携》があったのにちがいないが、そのあたりのことは現在の電通幹部は〔略〕全く知らないようだ。ただ一つ、はっきりしているのは、このとき、上海で吉田は塚本誠なる人物と懇意になっている、ということだ。この人物は戦後、吉田に迎えられて電通に入社し、取締役になっている(75年8月死亡)。〔略〕
 塚本誠。元憲兵大佐。戦前は上海で有名な影佐禎昭大佐の《梅工作》機関など、いわゆる特務機関と連携し、あるいは、特務機関の束ね役として、反日運動などの弾圧の指揮をとり、汪精衛の南京政府づくりの舞台裏でも活躍したようだ。実は、吉田秀雄が上海で塚本と懇意になったのは、こうした時代、つまり塚本が中国市場の情報関係の人間たちに絶大な力を持っていた時代なのだ。
 なお塚本は、東条英機が政権をとると憲兵特高課長に迎えられているが、一方では近衛文麿と、彼をとりまく学者、ジャーナリストたちとも親しく、憲兵特高課長という顔のほかに、ジャーナリズムとの根回し役もつとめていたようだ。この時代に「読売」の正力松太郎、「同盟」の松本重治、「毎日」の吉岡文六、田中香苗、そして「朝日」の団野信夫、宮崎世龍などと懇意になっている。〔略〕
 昭和十一年(1936)。2・26事件が起き、日独伊防共協定が締結されるなど、日本が、破滅への途を選んだ運命の年だが、電通にとっても、大きな選択を、それも無理やりに強要された年だった。
 報道管制…。日本政府、そして《軍》は、報道調整という言葉を使った。《調整》と、表現は穏やかだが、その内容は、報道を、お上が掌握するには、情報チャンネルの一元化が必要で、そこでまず、新聞に内外の情報を提供する通信社を統合して、単一の国策通信社をつくることを考えたのである。国家にとって都合の悪い情報は遮断する。情報整理、そして情報操作…。
 〔略〕政府は、地方新聞など反対派を強引に封じ込んで国策通信社である社団法人・同盟通信社を発足(昭和十一年一月)させた。そしてこのときから、電通は〔通信社部門を失い〕広告代理行専業の会社になったわけだ。〔略〕

終戦直後の電通

 昭和二十二年(1947)五月、〔略〕〔前社長の公職追放により〕吉田が社長となった。〔略〕この経営危機の時期に、吉田は、なぜか旧軍人、軍属、あるいは満鉄関係者をどんどん採用しているのである。
 市川敏(満州国弘報処長)、小沼治夫(陸軍少将)、島崎千里(産業経済新聞)、高橋渡(満州日報業務局長)、高橋威夫(満鉄文書課長)、塚本誠(憲兵大佐)、松本豊三(満州日報理事長)、古賀叶(満鉄錦州鉄道局長)、高田元三郎(毎日新聞社)、森山喬(大陸新報理事)、森崎実(満州日報編集局長)、芝田研三(南満州鉄道)、金沢覚太郎(満州電信電話)、古瀬甲子郎(満州日報営業局次長)、峯間信太郎(天津米穀統制会理事長)、白川威海(毎日新聞社)、山名文夫資生堂意匠部)、蜂谷輝雄(台湾総督府外事部長)、東郷青児(画家)、中西寅雄(東大教授・陸軍嘱託)、宮崎博史(三越宣伝部長)、小滝彬(外務省情報部長)、新田宇一郎(朝日新聞社取締役)、新保民八(花王石鹸取締役)。〔略〕
 広告業界の連中は、だれもが電通ビル(旧電通ビル、中央区銀座七−四)を「第二満鉄ビル」と呼んだ。あまりに満鉄関係者が多かったからである。それにしても、吉田は、経営が危機に瀕していた時期に、なぜ、広告のことを皆目知らない、いわば使いものにならない連中をこれほど集めたのか、吉田は、旧軍人、満鉄関係者たちを社員として採用しただけではなく、公職追放となった政治家や財界人、新聞人などのために「旧友会」という、いわばサロンをつくって、彼らが、月一回集まって食事をしながら、心おきなく談笑できるようにしつらえ、そればかりではなく、彼らのために「ユニバーサル広告社」という会社までつくっているのである。
 〔略〕戦後、電通が大きく躍進できた原因の一つが民間ラジオ放送で、もう一つが民間テレビ放送だといわれている。〔略〕

テレビと「反共」

 ところが、何とも不思議なことがある。民放ラジオの開局には驚くべき執念を燃やした吉田が、テレビに対しては、きわめて消極的なのである。テレビに執念を燃やして突っ走ったのは正力松太郎読売新聞社主)で〔略〕ついに日本テレビ開局にこぎつける〔略〕。
 NHK編の『放送五十年史』は、正力のテレビ計画を、「講和、独立を控えた特殊な情勢の下で、アメリカの極東戦略に深く関連しながら全国のテレビ網を一挙に手中に収めようとした」と、きわめて含みの多い表現で説明している。〔略〕
 正力のテレビ計画の周辺を取材すると、旧軍人たち、それもGHQとのかかわりの深い情報プロたちの影が、何人も浮かび上がってくる。そして、旧情報将校たちがアメリカに足繁く通うなかで、折から、公職追放中だった正力が、なぜか突如追放解除となり、それをきっかけに、テレビ開局計画が急ピッチで具現化するのだが、そのキーマンとして動いたのがカール・ムントという人物なのである。
 カール・ムントとは〔略〕米上院議員。ここに、ムントが米上院で、1951年4月に行ったという演説のコピーがある。
共産主義は飢餓と恐怖と無知という三大武器を持っている。こうした共産主義に対する闘いにおいて、アメリカが持っている最大の武器はテレビである。われわれは『アメリカのビジョン』なるテレビ・ネットワークを海外に普及させる必要がある。それを最初に試験的にやるべき地域は、ドイツと日本で、たとえば日本のすみからすみまで行きわたらせるためのテレビ網建設費は四百六十万ドル。これはB29爆撃機を二機つくるのと同じ金額である」
 テレビは、共産主義勢力に対する武器としては軍事力などよりはるかに強力で、しかも安いというわけだが、このムント構想が打ち出されるや、ただちに正力の密使がアメリカに飛び、ムント議員と接触している。その密使が柴田秀利(後に日本テレビ専務取締役)である。〔略〕柴田は、GHQの新聞課長インボデン少佐にも、関係者たちの話では、「かなりどろどろした手段を使って」深く食い込み、正力を、共産主義殲滅の代理人にさせる、との約束を取りつけたようだ。「アメリカが、直接行なうと、情報支配のかたちがあまりに露骨で、日本人の神経を逆なでする。日本人の手でやらせた方がはるかに効果的だ」との柴田の説得が功を奏したものらしい。〔略〕

安保と電通

 電通が、戦後、はじめて商売として《政治》とかかわりを持ったのは、52年10月、日本が独立した最初の総選挙のときだった。〔略〕吉田自由党としては〔略〕国民に対して大PR作戦を展開することにし、その大きな柱の一つとして、戦後初めて全国の主要新聞に大々的な広告を打つことになったのだが、そのプロデューサー役を演じたのが電通だった。
 〔略〕かかわりが深まるにつれて、《政治》はしだいに、吉田〔電通〕にとって商売の対象だけではなくなってきたようだ。それが、一つの頂点に達したのが60年安保騒動のときだった。〔略〕革新陣営に「これで新聞は死んだ」と嘆かせた、いわゆる七社共同宣言のフィクサーも、実は吉田だったといわれている。七社共同宣言とは、東大生だった樺美智子が殺された直後、6月17日に、全国紙五紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)と東京新聞、東京タイムズの七紙が、「暴力を排し議会主義を守れ」との声明文を掲載したもので、この共同宣言は、反安保の盛り上がりに水を浴びせる役割を果たした。
〔以上、引用〕