カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『アクメツ』終結のこととか

アクメツ』が終了しました。作者がどう終わらせるのかハラハラしていたが、納得のいく結末。現在は政治の大激動時で、その最中にこういうマンガが描かれたことは凄いことだ。着想しても描き切れるものではない。スーパーヒーロー物として描こうという姿勢が成功している。
無理して全ての謎を解こうとしなかった点も大いに学びたい。現実の事件を題材にしている場合、自分なら作中の謎解きに自分が熱中しすぎてバランスを欠いてしまったり、作品を結末に持っていけなかったりしてしまいそうだ。というかそういうところで煮詰まって作品を完成できなくてお蔵入りさせてしまったことが何回もある。謎は解ききらなくていいし伏線は処理しきらなくていいということは、いい意味で学ぶことにする。
作中のストーリーテリングで、唯一引っかかる所は、生たちが素体となるために殺害されることを望み、実際殺害される箇所。生たちはそれぞれ別の人生を歩んできた人間で、それぞれの死はそれぞれ一度限りの死だという側面があるはず。その点を意識するならこうは描かないはず。したがってここだけは瑕疵ではないかと思っていた。が、結末からふり返ると伏線だと言えるので、読者としてよしとする。
塾の小学生から「先生、今、一番面白いマンガは何ですか?」と訊かれたとき、「少年チャンピオンの『アクメツ』だ。悪い政治家や悪い悪人をバッタバッタとぶち殺す痛快ヒーローマンガだ」と薦めたのは3週ほど前のこと。

アクメツ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

アクメツ 1 (少年チャンピオン・コミックス)

塾、また一人お気に入りの生徒が引越しで退塾してしまった。広島へ。
もちろん鎌倉権五郎のお守りはあげた。

「進歩と改革」の原稿でけた。http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1143133871/
2ヶ月休んでしまった。
今回、ネームのプリントアウトが自前でできなかったので、友人の手を煩わせてしまった。

ぽちっとな 

ホルスト・ガイヤー@「読書猿」

以下も心に引っ掛かりを感じさせる、記憶に残る書評だったので、「読書猿」http://come.to/monkeyから転載。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/SARU/saru0.html#BOOK1
■■ホルスト・ガイヤー『馬鹿について』(創元社)■■==========■
 これはもう、紹介するだけで勘弁して欲しい。
まず裏表紙には、こんなことが書いてある。

人間は愚鈍という実り豊かなひざに抱かれて、永遠に変わらぬ夢を見続けているのであり、そのおかげで初めて生きて行こうという気になれるのである-----愚鈍が、ただ愚鈍だけがこの人生の守り神であって、これによって初めて錯覚のヴェールが織られ、仕合わせな誤謬が知能のヤリ玉に上がらずに済み、人生が辛抱できるようになるのである。

つぎに初版の序には、こう書いてある。

 馬鹿のことを書くよりも、天才のことを書く方が、よほど割りのいい仕事にちがいない。
 伝記作家というものはありがたいもので、天才を描いてみせる学者は、そこに描かれていた天才の栄光のおすそ分けにあずかるものだが、本書の著者にはこういう余得はありそうにもない。
 しかし馬鹿と天才の数を比べてみただけでも、心の貧しいもの(これは聖職の言い方ではなく、俗人流に、つまりニイチェ的に言って)の問題の方が、ずっと切実深刻だ、とすぐ判ろう。天国はいざ知らず、この地上の最大多数は馬鹿が占めているのだから。だが一口に人間は馬鹿だと言っても本当はどうなのだろう?
 そこで、あてもなしに無駄口をたたくのはやめにして、ではこの問題について確かなことだけを書いていくことにしよう----「人はその能力以上のことを為す義務を持たず」(人事尽くして天命を待つ、あるいはこれを本書のテーマに当てはめて「馬鹿は分不相応のことをやる」と言い直してもよい)という格言を忘れないようにしよう。

いちいち正しい。この名著は何度も版を重ねた。第三版の序。

 ザルツフレンのK.マイヤー・ロテルムント氏のご懇篤なご教示によると、修正耐えざる愛情を持って、馬鹿の問題と取り組んでいた一人のフランス文豪があった。それは利口で軽はずみなボヴァリー夫人と、忠実で愚鈍なその猟人医師シャルルを組み合わせた小説家であるグスタフ・フローベル(1821-1880)である。エミール・ゾラがフローベルについて語ったところによると、「彼には馬鹿は一種の刺激ともなった。彼は酷い馬鹿の実例を発見すると、心から夢中になって何週間もそのことを話し続けていた。……彼がその作品の中で適切に表現した人間の痛ましい無意味さよりも、彼の心を動かしたもの、それは誰しもが免れ得ない凡愚、凡俗であった」
 引き続き、このような馬鹿の実例をお知らせいただければ誠に幸いである。
                      オルテンブルグ 1955.3.1
                         ホルスト・ガイヤー

第六版の序は、偉大なるスペインの思想家に捧げられている。

 ホセ・オルテガ・イ・ガセットは1955年1月5日、本書の第一版刊行に際し、私に書簡を寄せ、優美なドイツ語で「熟読吟味させていただこう」と言ってくれた。 その年の10月18日、スペインの生んだこの偉人は永眠した。生前に変わらぬ畏敬の念を個人の霊前に捧愚べく、巻頭に彼の座右の銘を原文のままあげさせていただく。
                      オルテンブルグ 1956.6.1
                         ホルスト・ガイヤー

そしてこれが、その巻頭語である。

  私はよく考えあぐねたものである。誰もが馬鹿とかかり合い、馬鹿を相手にして、深刻極まる迷惑をこうむっているというのに、(私だけが知らぬのかもしれぬが)なぜ馬鹿の研究とか、「馬鹿についてのエッセイ」という本がないのか、と。
                     ホセ・オルテガ・イ・ガセット

この書評が心に引っかかった理由の一つは「馬鹿」という言葉のインパクトにあったりします。私は高慢だから、「馬鹿」という言葉を避けるよう強く意識していたのですが、そういう時期にこの書評に接したので、心に残っていました。ホルスト・ガイヤーをはまだ読んでいませんが、友人と電話で話しているときにこの話題が出たので、メモとしてここに載せておきます。

馬鹿について―人間-この愚かなるもの

馬鹿について―人間-この愚かなるもの

ちなみにオルテガは名著『大衆の反逆』の作者で、『大衆の反逆』には以下の内容が書いてあります。
この世には二種類の人間がいる。
A;自分が馬鹿寸前であることを自覚して、馬鹿の一歩手前でギリギリ踏ん張っている人間
B;自分が馬鹿であることすら気づかない馬鹿

この二種類である。中間はない。

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

ところで私は6〜7年くらい前、かなり深刻に自分の教養・知識のなさに悩んだことがあって、欠けている教養を埋めるべく指針を求めて、その時期「読書猿」も延々読んでいたりしました。その後、大学にモグリで勉強しに行って、ある程度知的訓練をし直しして、教養の欠落への引け目を感じないで済むようになりました。

ぽちっとな