カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』

〔略〕近代の国家システムにあっては、支配権の及ぶ範囲が恒久的に、しかもあからさまに重なっているという事態は、概念そのものからして絶対に許容されない〔略〕。つまり、主権の概念は、アリストテレスのいわゆる排中律に基づいていたのである。(58p)

アリストテレス排中律は日本の伝統には存在しない観念なので、国境にこだわる人は日本の伝統から乖離している、と言える(揶揄)。

近代国家は、完全に自律的な政治体などでは決してなかった。つまり、国家というものは、ひとつのインターステイト・システムの不可欠な一部として発展し、形づくられたものである。インターステイト・システムとは、諸国家がそれに沿って動かざるをえない一連のルールであり、諸国家が生きのびてゆくのに不可欠な合法化の論拠を与えるものである。(69p)

訳者の川北稔氏は優れた文筆家だと思うけど、『史的システムとしての資本主義』という訳語と「インターステイト・システム」という言葉は実際に政治実践の場面で使うには抵抗を私は感じる。「インターステイト・システム」はたとえば「国際体制」と訳したらダメなのかなあ?
「近代国家が完全に自立した政治体」だとするのは19世紀に作られたフィクションで、実在する近代国家とは関係ないんだね。ここでウォーラーステインが述べているのは社会システム論なんかに出てくる…たしかハート(人名)だったかな…「一次ルール」「二次ルール」、明言化される以前に潜在するルールと呼応しているように思える。

インターステイト・システムが強制する諸規則は〔略〕より強力な諸国が弱小国に課す制約としてはじまり、ついで諸国が相互に制約しあう規則となったもので〔略〕ある。(70p)
〔略〕インターステイト・システムを世界帝国に変えてしまおうという動きは、史的システムとしての資本主義のもとではついに成功しなかったのだが、それは、〔略〕主だった資本蓄積者たちが、「資本主義的世界経済」の「世界帝国」への転換は根本的にかれら自身の利害に反する、とはっきり意識していたからであった。(70-71p)

田中宇氏の説く「一極派と多極派の闘争」という図式は、このウォーラーステインの見解を踏まえるとまた別な立体性がある。

〔略〕勢力均衡とは、インターステイト・システムに組み込まれている第一級の列強、およびそれに続く比較的強力な諸国が、同盟関係を維持―ないし、必要とあれば修正―して、単一の強国が他の諸国を征服し尽くすことがないようにしようとする傾向のことである。
しかし、勢力均衡が保たれた理由は、たんに政治的イデオロギーだけではなかった。そのことは、強国のなかの一国が一時的に他のすべての国に対して相対的優位に立ってしまった―この状態を、ここでは「ヘゲモニー〔覇権〕」とよぶことにする―三つの例をみればよくわかる。三つの例とは、一七世紀中頃におけるオランダ(ネーデルランド)のヘゲモニー、一九世紀中葉におけるイギリスのそれ、および二〇世紀中頃におけるアメリカ合衆国のそれである。
いずれの場合も、ヘゲモニーが成立したのは、軍事力による征服の試み―ハプスブルク朝によるもの、フランスによるもの、そしてドイツによるもの―が、失敗したのちのことであった。それぞれのヘゲモニーはいずれも、陸上の戦闘を中心とした、きわめて破壊的な「世界戦争」とでもよぶべきものの刻印を刻み込まれてもいる。〔略〕一六一八年から四八年にかけての三十年戦争、一七九二年から一八一五年までのナポレオン戦争、一九一四年から一九四五年に至るまでの二〇世紀の諸戦争―これも、長期にわたる単一の「世界戦争」とみるべきである―がそれである。これらの戦争で勝利を得たのは、いずれも戦争前には本質的に海洋強国であった国だということは、銘記しておかなければならない。しかし、歴史的に大陸国家として展開してきた別の強国が戦争の相手であり、しかもその大陸国家が「世界経済」を「世界帝国」に転換させようとしているように思われる以上、ほんらい海洋国家であった国も、戦争に勝つためには自ら大陸国家に変容せざるをえなかったのである。
しかし、勝利を決定づけたのは、軍事力ではなかった。もっとも重要な要因は、経済力であった。つまり、特定の国家内に位置する資本蓄積者たちが、経済活動の主要な三つの局面すべてにおいて他国の人びとを圧倒する力をもつことが、その条件であった。ここでいう三つの局面とは、農業および工業生産の局面、商業の局面、さらに金融の局面のことである。〔略〕もっとも、こういうヘゲモニー状態は、いずれも長くは続かなかった。〔略〕ヘゲモニー国家が広大な地域と水域の防衛「責任」なるものを負うにつれて、経済的負担はむやみに膨張し、「世界戦争」前の低い軍事支出の水準を守れなくなってしまったのである。(71-74p)

世界覇権を決定するのは経済力であり、覇権を自壊させるのは軍事支出である。

〔史的システムとしての資本主義の内部で〕誰と誰が闘争をしているのか。〔略〕もっとも基本的で、ある意味ではもっとも明らかな対立は、このシステムの受益者である少数派グループとその犠牲者である巨大グループとのあいだに存在した。この対抗関係にはいろいろな名前がつけられ、いろいろな装いをもって立ち現われてきた。たとえば、ひとつの国のなかで資本蓄積者とかれらのために働く労働者とのあいだに明瞭な一線が引かれている場合には、この対抗関係を資本対労働の階級闘争とよぶのがふつうだった。(75P)
民族集団(エスニック・グループ)の形成過程は全体として、特定の国の労働力形成の過程と結びついており、経済構造のどの辺に位置するかを示す、大まかな指標の役目を果たしてきた。(77P)
〔略〕「市場」とは、次の四つの主要な制度が複雑にからみあって生じる一連の法則ないし制約のことだ、といえる。すなわち、ここでいう四つの制度とは、システムによって相互に結合させられた多数の国家、そしてこの国家と不安定で不確実な関係にある複数の「民族」〔略〕、さらに職業集団という外見をとり、意識の水準も多様な諸階級、そしてこの階級と微妙な関係にある世帯、つまり、多様な形態の労働に従事し、多様な収入源から収入を得る人びとを結びつける所得プールの単位、がそれである。(81P)

(反システム運動を担う)二大歴史的形成物である労働・社会主義運動とナショナリズムとが、継続的な官僚組織とでもいうべきものをもつようになったのは、ようやく一九世紀のことであった。どちらの運動も、世界中に通用する共通の言葉、とくにフランス革命のそれをもっていた。いわく自由、いわく平等、いわく友愛、というわけだ。〔略〕
この二つの運動は、それぞれが対象とする問題も違っていたし、したがってはじめのうちは、それが展開された場所も異なっていた。すなわち、労働・社会主義運動は、〔略〕基本的な主張は、労働の報酬の分配が本質的に不平等で、抑圧的で、公正でないというものである。こうした運動がまず最初に、「世界経済」のなかでも工業労働力が重要な意味をもっていた地域、ことに西ヨーロッパで出現したのは、けだし当然であった。
一方、ナショナリズムの運動は、〔略〕本質的に「諸権利」の分配が不平等で、抑圧的で、不公正だと主張するものである。それゆえ、こうした運動がまず最初に、「世界経済」の周辺地帯、たとえばハンガリー帝国のようなところに生じたのも無理はない。というのは、ハンガリー帝国は、労働力配置のハイラーキーにおける民族集団間の不公平がもっとも明白な国のひとつだったからである。
全体に、ごく最近に至るまでは、この二種類の運動は相互にまったく性質の違うものと意識されており、ときには対立し合うことさえあった。〔略〕しかし、この二つの運動には構造上いくつかのかなり似通った特徴があるという印象が強かったことも事実である。〔略〕第一に〔略〕結局は国家権力の奪取〔略〕が最大の政治課題だという共通の結論に到達した。第二に〔略〕これらの運動にとっては反システム的なイデオロギー〔略〕に基づいて、民衆の力を動員することが不可欠となった。さらに言えば、それぞれの運動が批判の対象とした資本と労働、および中核と辺境とのあいだの構造的不平等こそが、既存の世界システム―史的システムとしての資本主義―の存立の基礎となっていたために、二つの運動はいずれもこのシステム自体に敵対するものとなったのである。
もちろん、不平等なシステムのもとで下位に位置づけられた集団がその低い地位から脱出を図る方法としては、いつでも二つの方向が考えられる。ひとつは、このシステムを組みかえて、全員が同じランクに並ぶようにしてしまおうとする方法である。しかし、それができないとすれば、不平等なシステムはそのままにしておいて、そのなかでの自己自身の地位の向上を図ることも可能である。(84-87p)
ひとつの運動が強力になりうるか否かは、つねに他の運動が存在するかどうかにかかっていたともいえるのである。
「他の運動」の存在によって得られる支援には、三つの種類があった。もっともわかりやすいのは、物質的な支援である。〔略〕第二の支援は、それが体制派の注意を分散させる役割を果たす点にある。〔略〕その強国が近くの反システム運動に悩まされていればいるほど、遠隔地における反システム運動の抑圧には力を入れにくいことになったわけだ。第三の支援はもっとも基本的なもので、集団心性の側面におけるものである。各運動体は、お互いの失敗から学び合い、お互いの成功した戦術に学ぶことによって勇気づけられたのである。〔略〕
こうした運動は参加者が増え、歴史を積み重ね、戦術上の成功をなし遂げるにつれて、ひとつの集団現象としてはますます強まってゆくようにみえた。そうなると、そのようにみえたという事実そのものが、運動を本当に強くしてしまったのである。〔略〕
〔略〕二種類の反システム運動がひろがるにつれて―労働・社会主義運動は中核にある少数の強国から他のあらゆる国々にひろがってゆき、逆に、ナショナリズムの運動は少数の辺境地域から他の至るところにひろがっていったのだが―、この両運動の境界がしだいにぼけてきたのである。(90-91p)

ナショナリズム運動すなわち右翼運動と、労働・社会主義運動すなわち左翼運動は現在においてはある意味、区別の必要がないのだろうな。毟り合いにエネルギーを消耗するのは「体制」「権力」にとって好都合なのだろうな。

新版 史的システムとしての資本主義

新版 史的システムとしての資本主義

ぽちっとな 

成分解析onWEB

http://d.hatena.ne.jp/andy22/20060407 ここ見て、成分解析onWEB http://seibun.nosv.org/ をしてみた。
 ◆カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記 の成分…75%は電力、11%は鍛錬、6%はお菓子、5%は言葉、3%は心の壁
 ◆カマヤン の成分…83%は度胸、7%は情報、5%は言葉、5%はお菓子
 ◆連絡網AMI の成分分析…49%は欲望、43%は白い何か、6%はミスリル、2%は言葉
 ◆バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会 の成分…56%は毒電波、35%は気の迷い、7%はマイナスイオン、2%は言葉 で出来ています
[22:31]
 ◆土屋たかゆき の成分… 47%は嘘、35%は雪の結晶、9%は気の迷い、5%はミスリル、4%は言葉 で出来ています
この成分解析、センス良すぎる。

ぽちっとな 

警察による情報統制利権への対抗運動に参戦する諸兄へ贈る、心構え

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060406#1144323627 の続き。警察による情報統制利権への対抗運動での心構えを以下に確認しておく。

http://jbbs.livedoor.jp/news/535/
 1;人は、弱いものだ。
 弱いから、「運動」に負けた後の負のイメージを、ついつい想像してしまう。
 だからこそ、勝った後のイメージを、つねに胸に抱こうとし続けることが、必要だと思う。敗北した後の話に酔っ払うのは、政治の場では、悪徳だと思う。敗北した後の感覚を語りたいのなら、それはマンガなどの中で発散するべきだと思う。

政治は不定形なものであり、常に流動するものである。
クラウゼヴィッツの提唱した戦力の数式は、戦力=武力×士気 である。我々の場合、情報戦・言論戦が原則であるから、武力とは根拠・典拠に基づいた事実の提示である。士気は牛のごとき粘り強さを必要とする。この「戦い」は原則的に持久戦であるから、牛のごとく粘り強くある側が勝利する。
「強くあれ」と他者に要求するのは悪徳だ。人は弱いのだ。弱さを自覚し、弱さに溺れることなく、牛のごとくあれ

 2;人は、視野が狭いものだ。
 視野が狭いので、ごくごく狭い範囲が全世界だと、ついつい錯覚しがちだ。だからこそ、意識的に広いマッピングを心に抱こうとすることが、政治の場では必要だと思う。
 たとえば、人権という視点に立ったとき世界視野からは日本の児童ポルノ法議論はどういう位置付けになるのか、といった広範囲なマッピングをつねに想起することが必要だと思う。
 敵味方の単純な二分法に耽るのは、悪徳だ。隣にいる人との喧嘩に熱中するのは、悪徳だ。すぐ隣にいる人への憎悪をもし発散したいのなら、あくまで政治問題などとは切り離して、自分一人の責任で処理するか、あるいはマンガなどの中へ押し込めるべきだと思う。

統治者は常に分断工作を試みる。我々の武器は誠実さにある。敵は存外狭い範囲の構成人員で自作自演を繰り返している。我々は数と聡明さにおいて、敵に引けをとっていない。我々の情報収集力も、少なくとも現時点において敵にそうそう引けを取っていない。少数である敵は常に分断工作を仕掛ける。それを回避するには、我々は常に広いマッピングを心がけ、すぐ隣にいる人との喧嘩に熱中しまくる愚を犯さぬ賢明さが要求される。
我々の視野は狭い。だが広くあろうとすることはできる。

 3;人は、情緒的だ。
 情緒的だから、政治問題(あるいは、正当性の問題、正誤の問題)を、個人の情緒というバイアスをかけて、ついつい人は判断しがちだ。これは、ネチケットとはどういうものであるか、とか、人として望ましいふるまいはどういうものか、とか、倫理とは何か道徳とは何か、とかが絡んできて、かなり根が深い問題だ。
 だが、少なくとも政治や学問に関連する、正当性や正誤にかかわる事柄では、情緒に帰結させる言論は、NGだと思う。2×2=4は、好き嫌いとは関係なく、2×2=4だ。
 正誤の判定は必要だ。正当性があるかどうかを判断することは必要だ。だが、正誤判定や、正当性があるかどうかの判断の際、情緒のバイアスに敗北して「『2×2=4』ではない!」と言ってしまってはならない。これは、情緒バイアスから心が自由な人が根性いれて頑張るべきで、情緒バイアスに敗北してしまう、心の不自由な人に、要求はできないことだと思う。
 政治議論では、情緒に負けて正誤判定を誤る者が、先に敗北する。

敵の論拠は「情緒」だけである。統治の中枢に近いという地勢効果ではたしかに敵は有利にあるが、「情緒」以外の説得力を敵は持っていない。つまり情報戦・言論戦において敵は戦略レベルで不利である。敵の側に立つ者は情緒によって正誤判定をすでに誤っているか、利得に情緒の衣を被せているかのいずれかである。
たしかに、日本においては嘘に情緒の衣を着せて、それが存外長持ちするという馬鹿げたことがしばしば起きてはいる。そして我々は私的情緒に帰結させる思考法にしばしば慣らされてもいる。だが情緒に帰結させる思考法は、詐欺師を利し、敵を利するだけであり、我々に何一つ利するところはない。政治の場においては、我々は事実であるか否かを粘り強く問い続けることが肝要である。
問いは我々の武器である。事実は我々の味方である。情緒は私的領域もしくはフィクションであって実在する現実の公共的問題とは一切関係ない。学問的真実は我々の味方である。事実を広報する活動は我々の主戦場である。捏造は我々の最大の敵である。
[2006 04/26 02:58]
関連 ■異なるメディアへの「翻訳」http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060212#1139751878

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