カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

ソエジーこと副島隆彦による安倍政権評

コメント欄で、ソエジーこと副島隆彦による安倍政権評を教えてもらったので、以下貼っておく。

http://www.snsi-j.jp/boards/bbs.cgi?room=sample1

[386]北朝鮮の地下核実験を受けて、急いで仮りにここに「今日のぼやき798」番用として書いておきます。 投稿者:副島隆彦投稿日:2006/10/10(Tue)

〔略〕しかし、その前に、安倍晋三の日本政府を、何とかしなければいけない、ということで、「暴走しそうな安倍たち」の the cult of Yasukuni 「ザ・カルト・オブ・ヤスクニ」の靖国カルト集団 とすでにアメリカの各界から認定されて、厳しく非難されている安倍政権は、次に、アメリカに呼びつけられて厳しく叱られるだろう。
安倍自身は、「政府(内閣の決定)の継続性」を言って、逃げ切れるだろう。すでに、中国(8日)、韓国(9日)に、表面の共同声明の穏やかさ、とは異なって、裏では、中国、韓国の首脳に、ペコペコずっと、謝(あやま)り続けたようである。「先の大戦では、多大なご迷惑をおかけしました」と謝罪文を、乱発したようだ。
「1995年の村山談話」の線まで、下がって坊主ざんげに、謝ったようである。そうしないと、今度は、アメリカにお灸(きゅう)をすえられることになる。
日本国内の右翼言論の中心である、産経新聞の幹部記者たちは、現在、大変、厳しい状況に追い込まれている。特に、安倍晋三を首相にするべく、ワシントンDCで根回しをしてネオコン高官に紹介してまわった古森義久(こもりよしひさ)氏は、厳しい批判を受けつつある。 フランスでも、産経の記者が、高級言論誌の「アトランテッィク・マンスリー・レヴュー」誌の日本分析からはじまって、「日本の危険な右翼集団」という視点から、激しく批判されている。産経の黒田勝弘(くろだかつひろ)ソウル支局長も韓国内で激しく批判されている。
これで、日本国内の、靖国参拝堅持派=東京裁判史観批判派 の右翼言論人たちは、厳しい状況に追いやられる。すでに、日本の保守本流(エスタブリッシュ)は、アメリカの意思に従って、「先の戦争中のアジア諸国での日本軍の残虐な行動」を肯定して、謝罪派に転じた。 今年の五月から、経団連経済同友会が合同で、「首相は靖国参拝をするな。中国と仲良くやってくれ」と声明を出していた。
7月20日に、突如、日経新聞の一面トップに、スクープとか称して、「富田朝彦(とみたあさひこ)元宮内庁長官」のいわゆる「富田メモ」が載って、昭和天皇が、A級戦犯靖国合祀に反対であり、松平永芳(まつらいだながよし)宮司を非難したことを、公開したのも、アメリカからの、「日本の右翼勢力と軍事再武装派」の動きを監視して、その暴走を阻止せよ、という意思の表れであった。昭和天皇の「大御心(おおみこころ)」に反対して、「考えは人それぞれ(天皇を含む)」と言い放って、靖国参拝を強行した小泉純一郎は、力を失った。
この態度を踏襲してきた安倍晋三は、すでに腰砕けになっている。彼は、二度と靖国参拝をしない、どころか、もう靖国神社自身が、ただの古ぼけた神社として存続する以外になくなる。 そして、やがて出来る「国立の戦没者慰霊碑」が、千鳥が淵に建設されることで、この問題が解決に向かう。靖国カルト集団は、自滅するだろう。そして産経新聞もゆくゆくは倒産するのではないか。フジテレビは、これ以上の産経新聞への資金援助をやめることができて喜ぶだろう。そして、 一昨日、8日から 靖国神社戦没者・軍人記念館である遊就館(ゆうしゅうかん)の展示物や、掲示文章の書き換えや撤去が始まったようだ。「アジア諸国を、欧米列強の植民地支配から解放するするために、先の大戦があり、日本の英霊たちの尊い犠牲があったのである」というような文章が、今、まさに、アメリカからの言論弾圧にあって、遊就館(ゆうしゅうかん)から消されつつある。靖国神社の敷地内にあり、社殿の脇にある、あの記念館の入り口の正面の庭に展示してある、戦艦大和の砲弾や、野戦砲や、特攻用の潜水艇の回天(かいてん?)などの展示物までが撤去されるのだろか。私も、もう一度、確認しに見に言って来ようと思う。
アメリカのこの強い意思に、 「岸信介(きしのぶすけ)とその亡霊たち」はどこまで抵抗できるだろうか。 東アジアで一番、汚(きたな)くて危ない勢力が動き出している。そして、日本の親米保守ポチ保守)たち内部の大きな分裂と抗争が起きている。来月号の「正論」誌と「諸君」誌に、その大混乱が見えるだろう。
靖国カルト集団=東京裁判極東軍事裁判、トーキョー・トリビュナル)史観批判派、アジアの解放肯定派=靖国参拝堅持派 は、一気に少数勢力に転落しつつある。
日本の密かな自力での核保有核武装)の動きを私、副島隆彦は、それとなく書いてきた。そういう勢力の動きもそれなりに知っている。この危ない動きを、今回の北朝鮮の地下核実験と共通のことと考えるのがアメリカであるから、この勢力の具現として、安倍晋三政権にそれが現れることを、アメリカは強く警戒している。
〔略〕このようにして、極東(東アジア)の情勢も、世界政治の大きな動きの中で決まってゆく。それから、今朝、10日、次の国連事務総長(UNセクレタリー・ジェネラル)に韓国人の潘基文(はん・きぶん パン・ギムン) 氏が決まった。これで、日本の安保理常任委員会入りは、不可能になったろう。韓国から事務総長が出るという案に、五大国だけでなく中東諸国も賛成したようだ。

私自身はソエジーこと副島隆彦を全然評価してないけど、この安倍政権評は納得行く線かな。ところでこの文て、ソエジー本人による投稿なのかな? なぜ小学生でも読める言葉にルビが振ってあるんだろう。
これを教えてくれた方によるコメントも以下に転載しておく。

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/comment?date=20061009#c
# あすく 『東京裁判史観で洗脳したのはアメリカである。ヤスクニは本来反米の拠点である。したがって従来の安倍の路線はアメリカに受け入れられない。だから彼は日和る。アメリカの下働きをするのに役に立つ範囲内でウヨクごっこを続けさせて貰うだけ。こんな明々白々の運命に気がつかないふりをしているネトウヨは馬鹿でつか?

それはそれとして、なぜか数日前から私のブログでは、自動では「はてなキーワード安倍晋三」にリンクせず、わざわざ手動でリンク作業をしないとリンクできなくなっているけど、どういうことだろう。

国賊安倍晋三は地獄の業火に焼かれるべきであると感じる同志は   をクリックされたし。

『1984年』的世界に突入したらしい長野県/村井仁

以下引用する。

http://d.hatena.ne.jp/komachan/20061007/p1#seemore
長野県の公式サイトから、過去の情報がどんどん削除されていると伝えられています。〔略〕県庁まで行かないと見られないということは、南信の県民からすると、情報が遮断されたに等しい。
〔略〕県政は連続しているので、過去の情報は流れを確認するために必要です。これ無しには、今現在行われている施策が、過去の流れに沿っているのかどうか判断できません。知事が変わって施策も変わるのなら、前とどこがどう違うのか、県民が判断できるだけの情報の対比が求められます。
ところが、今の県の姿勢は、〔略〕数ヶ月前の記録さえも消し去ってしまっています。
〔略〕前県政は、原則として県庁内の情報は公開するとしていましたが、現県政は、原則として県庁内の情報は公開しないと反転してしまいました。原文で公開していた前県政と、要約だけにとどめる現県政の違いも際立っています。〔略〕
「広報ながのけん」のバックナンバーまで消し去る徹底振りには、過去との比較を嫌う村井知事の臆病な側面が現われています。〔略〕
次には、情報を都合よく操作して、県民受けのよい形に変えて「大本営発表」とするつもりでしょう。何しろ、8月31日までは「日本会議 長野議長」だった方ですからね。今現在でも「日本会議 長野名誉顧問」ですから、お上として県民の上に君臨し、下々の県民の扱いには、ぞんざいになって当然かもしれません。

オーウェルの『1984年』の主人公のお仕事が、歴史を延々書き変える仕事だったのを連想しました。
村井仁長野県知事に関する情報↓
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050806#1123352633■[資料][統一協会]「勝共」機関紙『思想新聞』に名刺広告を出した政治家たち

勝共」機関紙『思想新聞』に名刺広告を出した政治家たち
自民・衆院議員  村井仁(長野四) 

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051011#1129020189■[資料]NTTと瀬島龍三/「日本戦略研究フォーラム」

http://www.jfss.gr.jp/intro/tsld008.htm
〔日本戦略研究フォーラム〕 評議員  村井仁衆議院議員

統一協会・瀬島龍三ラインの、売国人脈の人ですね。(´Д`)y-~

統一協会・「日本会議」系列の売国奴どもは、地獄の業火に焼かれるべきである。と感じる同志は   をクリックされたし。

「物心」のついていない人たち

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885■[思惟]「抽象」と「具体」/「枝野幸男」と「煽り」 の続き。
以下は現時点では単なる思い付きの域を出ないものである。当方の全くの見当違いである可能性もけっこうある。ので「思惟」カテゴリに含めるのには躊躇があるのだが、とりあえずメモとして以下記す。
塾生で、どうもこの生徒は困った生徒だなあ、と感じることが以前多かったのだが、いや、今でも多いんだが、「困った生徒」というのは「物心」がついていないのだ、と気づいてから、ずいぶん気持ちの整理がついた。
「物心がつく」時期には物凄く個人差があり、中学生くらいだとまだ「物心」がついていない生徒がけっこういる。私自身はわりと早く「物心」がついたほうなので長く気づかなかったのだが、友人で「自分は成人直前まで『物心』がつかなった」という人がいて、ああ、そういうものか、と考えるようになった。その友人自身は、相当に深く物事を考え、視点鋭く、理知的な人物なのだが、それは置いておく。
「物心」がついていない状態というのは、「自分とは何だろう」という自意識がまだ育っていない状態だと言える。「自意識系」という論説文のジャンルが中学受験国語にはあって、社会論を「自分とは何なんだろう」という問いかけから切り取るのが典型だ。
「物心」がついていない状態とは、自分自身を見つめる「超自我」の存在しない状態だ。動物のごとき行動しかできない。別な言い方をすると、抽象思考をしない状態だ。抽象思考をしなくても生活はできる。
「抽象と具体」というのも中学受験国語ではよく出てくるジャンルだ。「物心のついていない」生徒には、これを教えるのは難儀だ。小中学生の中には見るからに「幼い」生徒がいて、行動も思考も幼いことがある。こういう生徒は「物心がまだついていないんだな」というのは以前からなんとなく感じていた。私は塾講師を始めた当初は「子供を子供扱いしない」主義で(何せロリコンなので。閑話休題)「子供」という言葉すら使わなかったのだが、国語での読解力を生徒につけさせるには「大人」「子供」という二項対立を使わざるを得ないと知り、以来、その二項対立を意識するようになった。(これって私にとっての人間的成長なのかなあ。よくわからんけど)
「物心がついていない」類型について拡大して考えるに至ったきっかけとなる生徒は何人かいるが、「生徒A」の場合、「歴史の因果関係」が理解できなかった。因果関係という抽象思考自体を理解しない。ので、得点させるためには具体の連続を教え込むことになる。生徒Aの場合、授業態度自体は真面目で、そこそこ得点力はあるのだが、因果関係の理解力が欠落しているので、質問がいちいち頓珍漢で授業の邪魔になる。当人は真面目に質問しているのだが、質問内容が目茶目茶なのだ。生徒Aの場合、外見は「幼い」という感じではなかった。ちなみに中2である。が、他の、外見も幼いし行動も幼い生徒の類型を考えているうちに、この生徒Aも「物心がまだついていないのでは?」と思うようになった。そう整理すると、生徒Aの発言内容に合点がいった。
「物心がついていない」生徒は、国語の得点力が低い傾向にある。国語という科目は「大人の言葉」と「大人の思考法」を問う科目である。「大人の思考法」とは抽象思考を指す。別な言い方をすると、石原千秋から引くと、国語は「おマセさん」ほど得点できる科目だ。つまり「大人の考え方」がトレスできる生徒は得点でき、「大人の考え方」がトレスできない生徒は得点できない、という科目だ。…この断言に異論があるだろうことは予想できるけど、面倒臭いので説明は省く。…蛇足すると、「物心がついていない」生徒が算数・数学はできる場合もあるが、それは一定の刺激(設問)に対して一定の反応(解答)をしている、という言い方ができる。ああ、もちろん、科目ごとに分断されている学校教育とか受験勉強で人格統合なんてそもそも必要とされていないし、教育がそんな人格的陶冶を目的にしているとは思えないだろうし、個別に例外は常にあるよ。抽象思考の最たるものである数学ができて、抽象思考を理解できないというのは一種の語義矛盾なんだが、抽象思考を自分はしているのだという「自意識」を欠き、それを数式とは別の「言葉」という「言語」に置き換えられると理解不能になる、発達段階がアンバランスな状態だ、と言えるかな。蛇足でした。
生徒Aを観察する以前にも「中3くらいだとまだ物心がついていないから」と冗談で言うことはあったが、どうもこれは冗談ではなく、そうなんだな、と現在は思っている。で、さらにこれを敷衍して考える。
抑圧や困難に直面することで、「自分とは何だろう」という思春期的自意識が生まれる、そしてその「自意識」の対立概念として「客観」という概念が当人の中に生まれる。これが普通の「成長」だ。この過程を経ずに成人することもけっこうな数ありえるんだろうな、と感じる。「物心がつかない」まま年齢が成人を迎える、ということがけっこうな数ありえる。で、事実そうなんだろう。
で、抽象思考を理解できず、歴史の因果関係を理解できず、客観という概念を理解できない人というのを、まあリアルで見ることは幸いにしてあんまりないんだが、webではわりとよく見かける。「ネット右翼」とか「ネットゾンビ」とか呼んでいるあの人たちのうち、カルトやヤクザの工作員ではない素の人びとは、この「物心」がつかないまま歳を経てしまった人たちなんだろうな、と思われる。ならば、その意味、彼らを「ネット『右翼』」と呼ぶのは「褒めすぎ」だ。私は反省しなくてはならない。
オルテガは以下のような意味のことを言った。「世の中には2種類の人間しかいない。バカのギリギリ一歩手前で踏みとどまっている人間と、自分がバカであることにすら気づかないバカである」。後者は「物心がついていない」人びとだと呼ぶことができる。とはいえ、後者が歴史を牛耳ることはしばしばあるから、「物心がついていないから無害」だとは言えない。以下は蛇足というか言い過ぎとなるが、オルテガは後者の人びとについて、20世紀前半の時点で二つの例を挙げた。一つはファシストであり、一つはボルシェビキである。日本現代史でも、1930年代は「より知性の低い人びと」(言い換えると「物心ついていない人びと」)が軍国日本を牽引した。…ならば、「物心つかない人びと」に対抗する力すらない「物心」とか「知性」とはいったいなんであるのか、という問題が次に浮上するのだが、以上は現時点では単なる思い付きのメモであり、ここでぶん投げて筆を置く。
 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20070809#1186593914 へ続く。

ぽちっとな