カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

さて、俵義文講演イベントの感想だが…

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050212/1108234066

 記憶があまり薄れすぎないうちに書かなきゃ、とは思うのだが、どうにもかったるくて、書き難い。
 えと、説明しておく。
 俵義文講演とセットで、「君が代」斉唱に反対して辞職した元教員のトークがあった。
 この元教員トークが…筆を重くさせる…えーと、「君が代」斉唱に本当に反対して辞職したのかどうか、トーク内容からは判りませんでした。ていうかイベント趣旨をこの元教員が判ってなかったのかな。
 えとですね、以下、まず、二つに分けて書きます。
 「元教員」のトークへの感想と、俵義文講演への感想。

「元教員」トークへの感想

 元教員氏の人相は良かった。私は若干人相見の心得があるのだけど、頬がふっくらとしていて、いい人相していた。たぶん教員としては生徒からわりと人気があったんじゃないかな。小学校教諭だった。停年の近い、が、わりと若若しく見えるおばさまでした。
 うう、筆が重い。
 おばさまの話には内容はほとんどありませんでした。日教組の組合員だったのかな、なんか説明があったように思ったけど、よく覚えてねえです。
 気になったのは、「習熟度クラス分け」反対、「30人学級」待望論、「学校の塾化反対(=「学校は『心』を育てる」)論」が、既定値としておばさまの口から出たこと。
 …習熟度別にクラス分けするほうが合理的じゃん、と、カマヤンは強く思う。反対する理由が全く理解不能だ。
 「下位クラスに回された子への扱いが疎かになる」「下位クラスの生徒が下位だということから虐めを受ける」から「習熟度クラス分け」反対らしい。が、塾講師している経験から言うと、実際には下位クラスへのほうが講師は熱心に指導する。だから、このおばさまの「偏見」は実態から乖離した空論だ。下位クラスだという理由で虐めなんか少なくとも私の塾では発生していない。
 たしかに塾へ来る生徒は、公立小学校生徒よりは親の収入が豊かな生徒に限定されている。だから扱いが楽な生徒に限定されるだろう。深刻に扱いの困難な生徒は塾には来ない、小学校教諭がしんどいのは深刻に扱いが困難な家庭の生徒が来る点だろう。しかしそれは「習熟度クラス分け」とは別問題だ。「深刻に扱いが困難な生徒と、その家庭」の問題だ。本質的に「学校」で処理しきれる問題ではない。だから別問題だ。
 カマヤンは強く思うのだが、習熟度クラスなんてヌルイこといってないで、むしろ「飛び級」制度を導入するべきだ。「クラス」という、一緒にいる理由の希薄な集団に押し込められそこへの非合理な順応が求められることは、非常に宜しくない。年齢で横に人間を区切ることの納得いく理由が、私には見つからない。もし飛び級があったら、私はあんな腐れた劣悪な教育環境に11年間も押し込まれていないで済んだ。ペドファイルにもならないで済んだかもしれない。
 「30人学級」論も、色んな左派教育論では既定値として語られるが、私には全く納得がいかない。私の小中学校のクラスは30人だった。それで崩壊していた。教員はいい人で熱心で、クラスは30人だったが、崩壊していた。生徒は少数を除いて、クソガキばかりだった。10人以上のクソガキを一人で対応するのはムリだ。塾講師の経験から言うと、一人の講師が充分対応できる生徒数の限界は、だいたい10人までだ。
 むしろ、一つの教室に二人教員を配置するほうが合理的だ。たしかどこぞの研究で、一つの教室に複数教員を配置するほうが、一人の教員が小人数の生徒を対応するより崩壊しないという結果がでているはずだ。教室に教員が一人、という体制がそもそも非合理的で極めて非民主的・抑圧的なのだ。教室を支配する教員に服従する以外の選択肢が生徒にないという体制は不健康だ。二人教員がいれば、片方の教員が「変な人」だったとしても生徒はもう一人の教員に救いを求めることができる。幼少期に教員の独裁を容認させる教育をするのは「民主制」教育から考えても不健康だ。独裁は必ず腐敗するが、教室は教員独裁に服従せよ、という設計になっている。教員複数配置にしない限り、教室という密室では必ずハラスメントが発生する。同じ教室にもう一人教員がいれば、教員は仮に「変な人」だったとしても、あまり変なことはしないものだ。ひとつの教室に複数の教員を配置すれば密室でのスクールハラスメントは防止できる。逆に言うと、スクールハラスメントを防止する方法はそれ以外にない。
 という自論が、どーっ、と私の脳内を駈け巡り、このおばさまを怒鳴りつけたい衝動に駈られたが、極めて退屈な話を私は黙って聞いていました。
 感想は続くけど、また後日。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050220/1108845716
 …この気の重さは、「児童性的虐待」問題を調べていたときに、「児童性的虐待反対」論者がたいがい議論抜きでエロマンガを「児童性的虐待の結果としての児童ポルノ」とイコールで結んでいたのを見たときの気の重さに似ている。それぞれ全く別なものが、なぜセットになって既定値になっているんだろう。