カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『ハーヴェイ・ミルク』

http://www.mmjp.or.jp/BOX/database/harvey.html
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00006S25Q/qid%3D1051031689/249-5557652-3102733
マイノリティ問題について、映画『ハーヴェイ・ミルク』を題材に、O先生の講義を受けたことがある。以下、その講義のメモ。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1022973658/r56-58

ハーヴェイ・ミルク』は、70年代サンフランシスコを舞台としたドキュメンタリ映画だ。73−77年頃の「ゲイ・ムーブメント」を理解するための佳品だ。作成は84年。マイノリティ(少数派)がいかに政治主張していくか、という過程を知る良い材料だと言える。

1;背景に「人間」がいることを忘れるな。

映画というものは劇的に描かれてしまうものだ。この映画も悲劇として作られている。マイノリティは「特別視」されやすい。が、実物はごくふつうのオッサンだ。マイノリティをあまり「特別視」しないことが、マイノリティ問題を捉える上では、重要だ。他者を、英雄としてしか見ないのは、残酷なことだ。マイノリティ問題にしろ、その他の問題にしろ、当事者は、毎日深刻になっているわけにいかない。だから、当事者自身は明るいものだ。当事者自身は淡々と日常を送っている。だが、当事者は、ある立場性を背負っている。

2;ある程度「物語化」しないと、話が成立しない。

ものを語るときは、「物語化」がつきまとう。ものを語るときは、「物語」にしないと、語れない。「物語」にすると、悲劇化・英雄視化が、どうしても起きてしまう。演出が発生する。その理想化の反動として、暴露的なカウンターインフォメーションも発生しやすい。が、暴露的カウンターインフォメーションにいちいちビックリしてはいけない。(マイノリティを)「聖人君子でなければ、認めることができない」という発想自体が、悲劇だ。単純な英雄視や、その反動の単純な失望に惑わされるな。
マイノリティ問題は、「マジョリティ(多数派)のコード(掟、慣例)」に沿うかたちで語らなくてはならない、という逆説に制約されている。ドキュメンタリ映画『ハーヴェイ・ミルク』は、アメリカのマジョリティのコードに沿って作られている。「これはゲイの問題ではない。『正義(マジョリティのコード)』の問題だ」という作られ方がしてある。ゲイの問題を、人種差別(アメリカのマジョリティに認められているコード)のアナロジーで語っている。
マイノリティが権利主張するときには、このように、マジョリティのコードに沿ってプレゼンテーションしなくてはならない。マイノリティは、常に「正しい人たち」としてプレゼンテーションされる。その結果、「正しくあらねばならない」という新たな抑圧を、マイノリティへ与えることになる。
自分自身を他者へどのようにプレゼンテーションするか、は、「政治」の一つだ。「アイデンティティポリティクス」アイデンティティをめぐる政治だ。
マイノリティ問題を描くとき、同時に人間の複雑さを描くには、そのぶん、映画でなら尺を、本でなら分量を必要とする。複雑さを描き込むことで、テーマであるマイノリティ問題が不鮮明になってしまっては意味がない。スッキリ描くためには、「物語化」が起きる。「どう描くか」は、一つの「政治」だ。何かの「問題」を「描く」だけで、一つの「政治」となる。ものを鑑賞するとき、「素直に感動している」だけでは、新たな抑圧(他者を英雄視することによる抑圧)を作ることになる。「素直な感動」は、一歩目にすぎない。

3;「問題」を、マクロに見る視点も持ったほうがいい。

たとえば『ハーヴェイ・ミルク』は、70年代のサンフランシスコが舞台だ。
サンフランシスコは、アメリカの中でも最もゲイの主張ができたところだ。他の土地ではそうはいかなかった。70年代半ばから後半は、ゲイコミュニティの主張が最も強かった時期だ。リベラリストであるジミー・カーター大統領の時代だ。
80年代になると、AIDSにより、ゲイコミュニティの空気が変わっていく。レーガン大統領の時代には、バックラッシュ(反動)が起きる。

以上を整理する。

1;背景に「人間」がいることを、忘れるな。
2;ある程度「物語化」しないと、話が成立しない。語る際の作法として、社会学ポストコロニアル論を踏まえておく必要がある。
3;「問題」を、マクロに見る視点も持ったほうがいい。
これらを通じ、できるだけマッサラにものを見る目を養っていく必要がある。人間は、ひねくれることによって、まっすぐにものを見ることができるようになる。人間は素直なほうがいいが、素直な人は、素直に偏見を持っているものだ。
アイデンティティ」は「物語」だ。「アイデンティティクライシス」は、「私にとってクライシス」なのではなく、「私の物語にとってクライシス」にすぎない。