カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

殖田俊吉

〔殖田俊吉については右スレ参照 http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1065549489/ 〕
昭和デモクラシーの挫折〔『自由』1960年10月号、81p-94p〕
殖田俊吉 元法務総裁
第1部
 私は昭和八年九月に役人をやめました。しかし私自身の軍に対する不信はもうよほど前からありました。昭和二、三、四年頃ですが私は田中義一内閣のときに總理大臣秘書官をしておりました。それで軍人に接する機会が多かったのです。そのころは白河義則という人が陸軍大臣で、阿部信行が軍務局長、梅津美治郎が軍務課長でした。昭和三年に張作霖の爆死事件があったのですが、張作霖の爆死事件というのは、初めは陸軍から、南方の蒋介石の方の回し者がやったんだというふうに報告を受け、たぶんそんなことだろうと思って負ったんです。ところがしばらくして、参謀総長の鈴木荘六がやってきて、じつは関東軍がやったんだという報告をしてきたわけです。それから田中さんもびっくりされ、だんだん調べてみますと、間違いないということがわかってきた。ところがそれは田中さんの当時とっておった政策とまるで逆なんです。蒋介石が昭和二年九月に日本に亡命してきました。そのおり、蒋介石の歓迎会なんかやりましたが、(今その歓迎会に出た人で残っているのはたぶん私一人だろうと思います。この間まで鳩山さんがおられましたけどもなくなりました……。)ちょうど日本の県会議員選挙のときなので、閣僚などは、ほとんど地方に遊説に行っており、蒋介石に、ちょうど選挙なものだから忙しくて全部出られないとたしかわびたと思いますが、蒋介石が、「お国は羨ましい。私どもも政争をこういうふうに選挙のかたちでやるようにしたいと思う。今政争のために亡命してきているんですからね」というような話をしておった。その翌昭和三年の初めに、まだ寒かったですが、蒋介石のそのときの秘書官だったんでしょう。張群が参りまして――蒋介石は昭和二年の秋には帰り、帰るとすぐにまた大総統になったんです。――私は帝国ホテルに迎えに行きまして、田中さんの腰越の別邸に連れて参りました。張群という人はりゅうちょうではありませんけれども日本語ができるものですから、田中さんと二人でだれも交えないで、昼から夜八時ごろまでいろいろ打合せをしました。――つまり蒋介石が北京へ行く、北伐をする、北京に張作霖がいるわけです。それでその張作霖をどうしてもう一ぺん奉天の方へ帰すかというような話をしました。つまり田中さんの了解を求めにきたわけです。それで了解をして、そのかわりに奉天へ行けば張作霖を追い打ちはしない。そうすれば満州は大体日本が委任統治のような形で、日本の事実上の政権を認めるというよな話をした。そのかわり張作霖を北京から追い出すと気が非常にむずかしいわけです。日本もいろいろ手を使い、張作霖に思い切って北京を引き上げて奉天へ帰る決心をさせたわけです。そして帰ろうとするところを――満州へ来て、満鉄の、北京から奉天へくる鉄道が満鉄の線路と交差するところで列車を爆破してしまった。
 あれは陸軍の連中が計画したもので、大へん大規模な計画ですが、どうも白河さんは知らなかったようです。白河という□□□□ちかというと正直者で、唐変木のような人でしたほんとうの□□官ですから……いわゆる参謀タイプの人ではない。
 つまり満州事変というのがあとでありましたが、あの満州事変の予行演習ではなく、あれで満州事変をやるつもりだったのです。ところが田中さんに押さえられてできなかった。それでもう一ぺん満州事変をやったのです。
 なぜ陸軍が張作霖を殺してしまったかというと、張が日本の権益をいろいろ妨害したのです。もともと張作霖というのは馬賊で、日露戦争のときに日本軍につかまったのですが、田中さんが參謀で、つかまって死刑にされるところだったのを、おもしろそうなやつだ、助けておこうというわけで助けたのです。だから、張作霖というのは全然日本で養成した人なんです。それであいつは忘恩のやつだ、日本の権益をいろいろ妨害するというのが一般の陸軍の人たちの頭だったのでしょうけれども、田中さんに言わせれば、奉天におる張作霖ならば日本のいうことを聞くだろうけれども、あれが大総統となってとにかく北京に乗り込んでおれば支那国民の御機嫌をとり、日本の権益を妨害し日本に抵抗しないと、どうも北京における地位が保てないのではないだろうか、だから張作霖にも同情すべきものがある、これを奉天へ連れて帰れば、張作霖も目先がきくやつだからそんなばかなこともしないだろう、こういう考えが田中さんの頭の中にあったのでしょう。だいたい張作霖が北京へ行って大総統というのは無理だ。こうしたところから当時、日本側から吉田茂さんが支那総領事で北京にいたのですから説得工作に動いたと思います。
 それから、当時外務政務次官だった森恪は田中内閣のもとで――河本大作や松岡洋右(当時の満鉄の副社長)と一緒になって、田中さんをつまり裏切ったわけなんですが――東邦会議というのをやりましたが、東邦会議というのは、対支政策、大陸政策を論じたんです。それは森恪の発案です。
森恪には支那浪人特有の対支政策があるわけなんです。三井物産の人で、支那におって仕事をしている人は、一種の大陸政策はみんな持っているわけなんです。それで何でもかんでも日本が力でもって支那を支配していく。こういうことなんですね。もう日本はやれる、だから日本に反抗するやつはみんなけしからぬというわけなんです。それで森恪がそういう大陸政策、対支政策をきめようというわけで、外務省に大勢集めて会議を開いたわけなんです。ところが大した結論が出るわけもないものですから、結局かけ声だけは大きかったけれども、大した実質ある成果は上げられなかった、それが森には非常に不満だったのでしょう。また彼は大連へ行き、自身で小さい東邦会議を開いています。これには吉田茂さんも参加しています。
 森恪という人は非常にシャープな人で、三井物産で育てられた人で、学校は神田橋のところにあった商工中学の出身です。それで物産の練習生みたいにして向こうへ入って、今でいえば愚連隊の親分みたいな男でした。非常に若くて、三井物産では大へんに出世が早かったわけです。帝国主義者であるし、それからすぐ全体主義者になりますし、共産主義なんかほんとに理解はしていなかったんですが、共産主義でも全体主義の方をベトーネンすれば、みんな賛成しちゃうんですからね。日本人はみんなそうですよ。□□□東洋赤化の任をおびて支那にきたボロージンと会っても、□□□□はなかったろうと思います。
 それから森恪の伝記がありますが、あれは非常に誇張してあります。森恪というのはそんなに偉い人じゃなかったのです。あれは山浦貫一君が書いたもので、山浦君は森恪の子がいの人ですから、それはそのとおり受け取れません。そんな力もなかったのです。それで先にのべたように、張作霖爆死の真相はあとでわかったのですが、森恪、それから松岡洋右もみんなこれを承認しておった。それでいいことだと思っておったらしいです。それが田中さんの意図にも合するんだというふうにいったらしいのです。田中さんは非常に郡を抜いて見識のある人でしたから……
 田中さんという方はお若いときや、軍務局長なんかの時分にずいぶん支那でいろいろなことをなさっていますが、そのときと政友会総裁になられて、首相になられた時分ではその政策というものはずっと変わっております。
私が袁世凱を殺した話をしたら、あんなばかなことをしたから、こんなことになったのじゃないか。あのときはばかだった、若いからな、といわれたのを憶えています。
〔続く〕