カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「言論の自由」の本義

バカな荒らし厨房がしばしば荒らしを「言論の自由」だとか強弁することがあるが、これは言葉の使い方が誤っている。
立憲民主主義で言う「言論の自由」とは、「《国家権力》に対して、嘘をつかずにものを言う正義」「行政を言論に干渉させない正義」を指す。
したがって、私人間の事柄について「言論の自由」という語を持ち出すのは、たいがいの場合、誤っている。(小林よしのりの《悪影響》で、「公」の対義語を「個」だと思っている、国語破壊国賊が相当数いるが、「公」の対義語は「私」である。賢明なるわがブログ読者諸氏はお間違えにならぬよう。また、憲法的には「個人」の対義語は「身分」である。閑話休題
さて、このような法学的基礎情報を書くと、「なぜサヨクは国家権力を悪の塊であるかのように考えるんだ!?」という声が聞こえてくるのだが、それへの反論つーか論点は二つある。
1つめ。「近代国家」では「《国家権力》(統治機構)は必ず暴走するから、『国民は不断の努力で』権力を監視せよ」と要請している。もっと平たく言うと、「《国家権力》は必ず暴走する」というのは、歴史的・経験的事実であり、それを理解しない人間は、近代人として幼稚にすぎる、ということ。
このように書くと、引き続き、「左翼は何でも反対だな、お前ら何もできなかったじゃないか」というステレオタイプな声が聞こえてくるが、60年代70年代の、現在50歳代になっている「当時のちゃねらー」にもそりゃ「荒らし厨房」がたくさんいただろう。
右翼左翼だとかオタクだとかロリコンだとかそんな分類は原則自己申告であり、たいがい自己申告できる人間なら一定の人格成熟がなされているが、客観的にはそれでしかないのに自分をそれだと認識するのを拒絶する人間は、人格成熟がなされていないと言える。以上、1つめの論点。
2つめの論点。以前からつくづく思うのだが、日本では…他の先進国もひょっとしたらそうなのかも知れないが…どうやら政策的に、故意に、かつての旧制高校レベルの教養、現在の大学の教養過程レベルの教養が、社会から隔離され、浸透しないように、社会で共有されないように、制度設計され機構運用されているように思う。つまり国民を愚民化するよう制度設計し運用しているように感じる。
理由を考えるに、頭の弱い世襲官僚・世襲議員(典型は安倍晋三)でも簡単に大衆を操作できるようにするには、極力大衆の教養程度が低い方が、彼ら世襲官僚・世襲議員たちには望ましいのだろうなあ、と、思う。反証材料は今のところ見つからない。