カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

黎明期の電通

 黎明期の電通をつくったのは、吉田秀雄(東京帝国大学経済学部卒)である。
 以下は、田原聡一朗がマトモだった若かりし頃の作品『電通』(朝日文庫、1984年 54−90p)から引用。小見出しはカマヤンがつけた。
〔以下、引用〕

黎明期の電通

 昭和十年(1935)2・26事件が起きる前年、吉田〔秀雄〕は上海に渡り、排日運動が熾烈をきわめる中で、邦字新聞、日系漢字新聞など、中国市場の媒体のほとんどを電通扱いにしている。〔略〕この吉田の快挙の背後には、当時の中国市場、ことに情報機関を完全に掌握していた《軍》との、なんらかの《連携》があったのにちがいないが、そのあたりのことは現在の電通幹部は〔略〕全く知らないようだ。ただ一つ、はっきりしているのは、このとき、上海で吉田は塚本誠なる人物と懇意になっている、ということだ。この人物は戦後、吉田に迎えられて電通に入社し、取締役になっている(75年8月死亡)。〔略〕
 塚本誠。元憲兵大佐。戦前は上海で有名な影佐禎昭大佐の《梅工作》機関など、いわゆる特務機関と連携し、あるいは、特務機関の束ね役として、反日運動などの弾圧の指揮をとり、汪精衛の南京政府づくりの舞台裏でも活躍したようだ。実は、吉田秀雄が上海で塚本と懇意になったのは、こうした時代、つまり塚本が中国市場の情報関係の人間たちに絶大な力を持っていた時代なのだ。
 なお塚本は、東条英機が政権をとると憲兵特高課長に迎えられているが、一方では近衛文麿と、彼をとりまく学者、ジャーナリストたちとも親しく、憲兵特高課長という顔のほかに、ジャーナリズムとの根回し役もつとめていたようだ。この時代に「読売」の正力松太郎、「同盟」の松本重治、「毎日」の吉岡文六、田中香苗、そして「朝日」の団野信夫、宮崎世龍などと懇意になっている。〔略〕
 昭和十一年(1936)。2・26事件が起き、日独伊防共協定が締結されるなど、日本が、破滅への途を選んだ運命の年だが、電通にとっても、大きな選択を、それも無理やりに強要された年だった。
 報道管制…。日本政府、そして《軍》は、報道調整という言葉を使った。《調整》と、表現は穏やかだが、その内容は、報道を、お上が掌握するには、情報チャンネルの一元化が必要で、そこでまず、新聞に内外の情報を提供する通信社を統合して、単一の国策通信社をつくることを考えたのである。国家にとって都合の悪い情報は遮断する。情報整理、そして情報操作…。
 〔略〕政府は、地方新聞など反対派を強引に封じ込んで国策通信社である社団法人・同盟通信社を発足(昭和十一年一月)させた。そしてこのときから、電通は〔通信社部門を失い〕広告代理行専業の会社になったわけだ。〔略〕

終戦直後の電通

 昭和二十二年(1947)五月、〔略〕〔前社長の公職追放により〕吉田が社長となった。〔略〕この経営危機の時期に、吉田は、なぜか旧軍人、軍属、あるいは満鉄関係者をどんどん採用しているのである。
 市川敏(満州国弘報処長)、小沼治夫(陸軍少将)、島崎千里(産業経済新聞)、高橋渡(満州日報業務局長)、高橋威夫(満鉄文書課長)、塚本誠(憲兵大佐)、松本豊三(満州日報理事長)、古賀叶(満鉄錦州鉄道局長)、高田元三郎(毎日新聞社)、森山喬(大陸新報理事)、森崎実(満州日報編集局長)、芝田研三(南満州鉄道)、金沢覚太郎(満州電信電話)、古瀬甲子郎(満州日報営業局次長)、峯間信太郎(天津米穀統制会理事長)、白川威海(毎日新聞社)、山名文夫資生堂意匠部)、蜂谷輝雄(台湾総督府外事部長)、東郷青児(画家)、中西寅雄(東大教授・陸軍嘱託)、宮崎博史(三越宣伝部長)、小滝彬(外務省情報部長)、新田宇一郎(朝日新聞社取締役)、新保民八(花王石鹸取締役)。〔略〕
 広告業界の連中は、だれもが電通ビル(旧電通ビル、中央区銀座七−四)を「第二満鉄ビル」と呼んだ。あまりに満鉄関係者が多かったからである。それにしても、吉田は、経営が危機に瀕していた時期に、なぜ、広告のことを皆目知らない、いわば使いものにならない連中をこれほど集めたのか、吉田は、旧軍人、満鉄関係者たちを社員として採用しただけではなく、公職追放となった政治家や財界人、新聞人などのために「旧友会」という、いわばサロンをつくって、彼らが、月一回集まって食事をしながら、心おきなく談笑できるようにしつらえ、そればかりではなく、彼らのために「ユニバーサル広告社」という会社までつくっているのである。
 〔略〕戦後、電通が大きく躍進できた原因の一つが民間ラジオ放送で、もう一つが民間テレビ放送だといわれている。〔略〕

テレビと「反共」

 ところが、何とも不思議なことがある。民放ラジオの開局には驚くべき執念を燃やした吉田が、テレビに対しては、きわめて消極的なのである。テレビに執念を燃やして突っ走ったのは正力松太郎読売新聞社主)で〔略〕ついに日本テレビ開局にこぎつける〔略〕。
 NHK編の『放送五十年史』は、正力のテレビ計画を、「講和、独立を控えた特殊な情勢の下で、アメリカの極東戦略に深く関連しながら全国のテレビ網を一挙に手中に収めようとした」と、きわめて含みの多い表現で説明している。〔略〕
 正力のテレビ計画の周辺を取材すると、旧軍人たち、それもGHQとのかかわりの深い情報プロたちの影が、何人も浮かび上がってくる。そして、旧情報将校たちがアメリカに足繁く通うなかで、折から、公職追放中だった正力が、なぜか突如追放解除となり、それをきっかけに、テレビ開局計画が急ピッチで具現化するのだが、そのキーマンとして動いたのがカール・ムントという人物なのである。
 カール・ムントとは〔略〕米上院議員。ここに、ムントが米上院で、1951年4月に行ったという演説のコピーがある。
共産主義は飢餓と恐怖と無知という三大武器を持っている。こうした共産主義に対する闘いにおいて、アメリカが持っている最大の武器はテレビである。われわれは『アメリカのビジョン』なるテレビ・ネットワークを海外に普及させる必要がある。それを最初に試験的にやるべき地域は、ドイツと日本で、たとえば日本のすみからすみまで行きわたらせるためのテレビ網建設費は四百六十万ドル。これはB29爆撃機を二機つくるのと同じ金額である」
 テレビは、共産主義勢力に対する武器としては軍事力などよりはるかに強力で、しかも安いというわけだが、このムント構想が打ち出されるや、ただちに正力の密使がアメリカに飛び、ムント議員と接触している。その密使が柴田秀利(後に日本テレビ専務取締役)である。〔略〕柴田は、GHQの新聞課長インボデン少佐にも、関係者たちの話では、「かなりどろどろした手段を使って」深く食い込み、正力を、共産主義殲滅の代理人にさせる、との約束を取りつけたようだ。「アメリカが、直接行なうと、情報支配のかたちがあまりに露骨で、日本人の神経を逆なでする。日本人の手でやらせた方がはるかに効果的だ」との柴田の説得が功を奏したものらしい。〔略〕

安保と電通

 電通が、戦後、はじめて商売として《政治》とかかわりを持ったのは、52年10月、日本が独立した最初の総選挙のときだった。〔略〕吉田自由党としては〔略〕国民に対して大PR作戦を展開することにし、その大きな柱の一つとして、戦後初めて全国の主要新聞に大々的な広告を打つことになったのだが、そのプロデューサー役を演じたのが電通だった。
 〔略〕かかわりが深まるにつれて、《政治》はしだいに、吉田〔電通〕にとって商売の対象だけではなくなってきたようだ。それが、一つの頂点に達したのが60年安保騒動のときだった。〔略〕革新陣営に「これで新聞は死んだ」と嘆かせた、いわゆる七社共同宣言のフィクサーも、実は吉田だったといわれている。七社共同宣言とは、東大生だった樺美智子が殺された直後、6月17日に、全国紙五紙(朝日、毎日、読売、日経、産経)と東京新聞、東京タイムズの七紙が、「暴力を排し議会主義を守れ」との声明文を掲載したもので、この共同宣言は、反安保の盛り上がりに水を浴びせる役割を果たした。
〔以上、引用〕