カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「好き嫌い」なんてどうでもいいのだ。


私のブログへ在日コリアンの方のブログから飛んでくる方がいるから、たぶん在日コリアンの方もそれなりにご覧下さっているのだと思う。
嫌韓厨」は「好き嫌い」だけで政治を語る低能だからどうでもいいとして、案外在日コリアン(だと少なくとも称する)の方のブログも「(日本を)好き嫌い」のことばかり延々書いてあって、なんじゃこれは、と、私は思う。
およそ、公的領域のほとんどの事柄に関して、「好き嫌い」なんてどうだっていいのだ。公的領域を「好き嫌い」なんていう私的領域の範疇で捉えようとする行為のほとんどは不毛だ。なぜそんな不毛な思考法をしたがるのか不思議だ。
話は違うんだが、マイノリティバッシングという地平では同じなのだが、「オタク叩き」言説も、公的領域の事柄を「好悪感情」という私的領域での二者択一を迫る、という設問をすることによって力を得ようとする。故意に不毛で無意味な選択を迫り、回答者に共犯関係を結ばせるのだ。
公的領域においては個々人の「好き嫌い」なんてどうだっていいし、そんな私的領域を越えたところが「公的領域」なのだ。これは一部の人の問題なのではなく、「公私」の別が日本においては極めて脆弱である、という問題が背景にある。「公私」の別は、「政教分離」原則の根幹なのだが、日本の場合、国家神道・「国体」という公私混同教義によって近代化がなされたという負の遺産を今も抱えている。いかに日本の政治空間が「公私」を故意に混同させる言説に満ちているか、ということが背景にある。

公的領域において他者に自分と「好き嫌い」の一致を求めるなんてことは、極めて幼稚なことだ。「好き嫌い」で帰結させてかまわないのは「私的領域」であり、たとえば芸術領域だ。一部の社会性を欠いた頭の弱いオタクが「政治」に直面するとパニックを起こし発狂するのは、公的領域である「政治」を貧弱な「私的領域」処理法で処理しようとしてパンクするからだ(最近はそういう社会性が欠落したオタクは少なくなったが)。
「公私」の別は「政教分離」を下支えする、つまり異なる信仰を持つもの同士が殺し合いをしないで共存するために、「信仰」を「私的領域」として互いに不干渉とし、「社会」「国家」を「公的領域」として共存を求める、というのが、「政教分離」であり、「公私の別」だ。
だから、日本や韓国といった「国家」に関し「好き嫌い」で語る人は、そもそも国家や社会という「公的領域」について語る資格・能力を欠いている、と言える。あるいは、社会や国家を語るには「大人げがなさ過ぎる」と言える。
ついでに書くと、「宗教右翼」たちは、カルトの浅薄な教義という「私的領域」で世界(公的領域)を覆い尽くそうとするから、熱意ばかりが暑苦しく、他者というものをとことん理解せず、多くの人にとって極めて迷惑なばかりか、その自覚せぬ加害性において多くの他者にとって有害な存在なのだ。

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