カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

平和神軍

平和神軍」で検索してみた。

平和神軍

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B3%E5%92%8C%E7%A5%9E%E8%BB%8D
日本平和神軍(にほんへいわしんぐん)は、中杉弘(本名:黒須英治)が主宰する新興宗教団体である。宗教法人としての認可は受けていない。
中杉「総督」以下信者の全てに軍隊式の階級を付け、また軍服を着て神社参拝するなど、かなり右翼色が濃い。 中杉は、以前は創価学会の信者として活動していたと称しているが、創価学会はそのような信者はいなかった、としている。また、中杉は宗教団体を売り物にする「宗教ブローカー」として何度かメディアに登場したこともある。
日本平和神軍の信者は、パソコン通信が一般的になった頃からニフティサーブ等のネットに出没し、非信者に対して数々の暴力的な誹謗中傷を行うことにより忌み嫌われてきた。現在でも2ちゃんねる等の掲示板に、在日韓国・朝鮮人に対する差別発言や、他の宗教団体に対する誹謗中傷等の書き込みを行っている。
関連団体
◆ 「イオンド大学」は、いろいろな分野でそれなりの成功を収めた人物に対して「名誉博士号」なる学位を贈与し、その見返りとしてかなりの寄付金を受け取ることで有名である。しかしながら、同大学は米国の非認定大学であり、文部科学省の認可等は一切受けておらず、従って同大学より授与される一切の学位には通常の学位のような権威はない (参考)。同大学の教育スタッフには、日本平和神軍の信者がずらりと名を連ねている。
フランチャイズ・チェーン「ニンニクげんこつラーメン花月」を展開する「グロービートジャパン株式会社」の社長である北条晋一(本名:黒須伸一)は、中杉の実の息子である。また、同社の取締役にも日本平和神軍の信者が名を連ねている。

ニフティでは有名だったのか。…そういえば「あめぞう思想板」とか「2ch政治思想板」でもチラチラそれっぽい名前見たような気がするなあ。いやまて、あれは古代帝国軍だったかな。

イオンド大学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6
イオンド大学 (いおんど だいがく) は、アメリカ合衆国のハワイに本部がある非認定の大学。(フィリピン・ミンダナオ州立大学との姉妹関係がある、と同大学では強調している)
ハワイ州の株式会社が設立者となっており、授業への出席が殆ど必要も無いに博士号などの称号を販売するいわゆるディプロマ・ミルの一つ。その販売勧誘のためのスパムメールの発信で一時悪名を馳せた。
日本平和神軍との関係が深く、UFO・超能力・心霊現象・超考古学・超常現象・超科学関連の学科・講座を設置している。その傍ら同大学海洋研究所が深海鮫の肝油等の健康食品の総販売元となり、これらの商品を販売したり、販売代理店を募集している。〔略〕
主な教員
矢追純一(ユーフォロジー)
田中正明(日本近現代史)
◆ 名越二荒之助(日本近代史)〔略〕

田中正明と名越二荒之助がここに出てくるか…

名越二荒之助

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%B6%8A%E4%BA%8C%E8%8D%92%E4%B9%8B%E5%8A%A9
名越 二荒之助(なごし ふたらのすけ、1923年 - )は、高千穂商科大学元教授(1997年退職)である。
岡山県出身。山口高等商業学校(現・山口大学経済学部)卒業後、入隊。新京陸軍経理学校を経てソ連に抑留。北朝鮮、モスクワ、ハバロフスク等で5年を過す。復員後は、岡山県で県立高校の社会科担当教諭・教頭を歴任。1968年、家永教科書裁判の国側証人となる。1981年、参議院予算委員会参考人として教科書問題について問題提起。台湾・東方工商専科大学の元客員教授でもある。最近は「スライド講演」の依頼が多く、全国を奔走する傍らイオンド大学でゼミナールを主宰している。2004年8月からは、日本文化チャンネル桜スカイパーフェクTV!767ch)にレギュラー出演し、解説及び講師を務める。バングラディシュやパラオなどの日本と関係する国旗を並べるパフォーマンスが有名。

名越二荒之助関連 「サンティン」伝説http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1114274786/

田中正明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E8%AB%96%E4%BA%89
1982年から1995年まで
三番目に〔南京大虐殺論争が〕大きく取り上げられるようになったのは、1982年の教科書問題の時である。それは、家永三郎が起こした教科書検定をめぐる訴訟であり、この訴訟では南京大虐殺の記述を削除したことについて争われた。それを受ける格好で、洞・本多両氏を始めジャーナリストや歴史研究者が集まって南京事件調査研究会を発足。研究会は日中双方の資料や証言を突き合わせて虐殺事件の全容の解明に乗り出した。
一方、この時、否定論の中心となったのは元雑誌記者である田中正明である。しかし、この時は、否定説が破綻することで決着がついた。というのは板倉由明が陣中日誌の原本と比較した結果、田中が松井石根大将の陣中日誌を編纂する際に600箇所以上の変更ないし改竄を行い、自ら加筆した部分をもって南京事件がなかったことの根拠とする注釈を付記していたことを発見したからである。板倉は大虐殺にはどちらかといえば否定的な立場であったが「改竄は明らかに意図的なものであり弁解の余地はない」として田中を強く非難した。〔略〕

田中正明の松井日記改ざん事件

 一九八五年十一月二十四日付の朝日新聞は、翌日付けで発行される雑誌『歴史と人物』(一九八五年冬号)に板倉由明が執筆した「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」の要点を報道した。
 陣中日記の原本は、南京攻略戦の最高指揮官松井大将が記したもので、自衛隊板妻駐屯地資料館に保管されていたのを田中正明が借り出し、走り書きの日記を判読して出版したばかりのところだった。
 雑誌の編集部は、専門の読解者に手助けしてもらい、同じ原本と対照したうえ、解読を板倉に依頼したものだが、南京虐殺を否定する方向で九百か所以上の削除、加筆、誤記、文章の移動などが行われているのが明らかにされた。
 板倉は同じ紙面で「誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのではどうしようもない」と評し、田中は「言い逃れになるかも知れないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺は虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除をしたのではない。申し訳ない」と釈明した。
 〔略〕さすがの田中〔正明〕も再起不能におちこんだか、と噂されたが、支援者たちに励まされてか再起の日は意外に早かった
 一年半後に、田中〔正明〕は『南京事件の総括』(謙光社)を刊行、虐殺派、中間派のライターたちを威勢よくなで切りしたあと「あとがき」で改ざん事件に言及した。〔略〕「字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果たし得た」と自賛した。その心臓ぶりには脱帽のほかないが、シロウトばかりでなく学者のなかにも彼を全面支援する人がいるから不思議だ。
 〔略〕渡部昇一上智大教授も〔田中正明を支持する〕別のひとりだが、この人は出世作の『ドイツ参謀本部』(中公新書、一九七四)で、写真ぐるみワルター・ゲルリッツのHistory of German General Staff(1953)を大幅借用したぐらいだから、盗用や改ざんには理解があるのかもしれない。〔略〕

偕行社戦史をめぐる騒動

 〔略〕偕行社へ、南京戦史の企画が持ちこまれたのは一九八三年秋で、田中正明が畝本正己を説いて、編集部に協力委員会を作り、畝本の名による「証言による南京戦史」シリーズが翌年四月号からスタートした。
 偕行社内には、南京事件のような政治的テーマをとりあげることに異論もあったようだが、結局は社の事業として取り組むことになり、『偕行』の八三年十月号に小林理事長の名前で「南京問題について緊急お願い」を誇示し、会員に協力を呼びかけた。
 とくに南京戦に参加経験のある会員に期待して「『12月○日○時頃、○○部隊に所属して○○付近にいたが、そのようなことは何も見なかった、聞いたこともない』ということなどを寄せて欲しい」と要望したが、傍点の部分はわざわざゴチック活字を使って強調している〔カマヤン注;傍点部分は、ここでは太字に表記した〕。シロの証言が欲しい、という期待感が丸見えといわれても、しかたあるまい。
 ところが、畝本連載が十一回つづく過程で、シロばかりでなく灰色ないしクロのデータも集まってきた。またこの連載に刺激されてか、マスコミが次々にクロの資料や証言を掘りおこす事態が出現した。なかでも八四年末、『歴史と人物』が掲載した「南京攻略戦・中島第十六師団長日記」は大きな衝撃を与える。
 中島はかねがねサディズム的性癖のある将軍、南京虐殺の中心人物と噂されていたが、初公開のこの日記には「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とか「此七八千人(原注、投降捕虜)之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中\/見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ニ誘キテ処理スル予定ナリ」とか「時恰モ捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム」など、噂を裏づけるような記述が散在していた。
 一方、『偕行』編集部は、松井司令官の専属副官だった角良晴少佐(のち大佐)が六回にわたりマックロを主張する投書を送ってきたことなどで、方針転換をはかり、連載最終回の八五年三月号に編集部を代表して加登川幸太郎が執筆した総括的考察を掲載した。
 角は九十歳近い老人でもあり(まもなく死去)、不正確な記憶が混入しているとはいえ、松井大将が捕虜の釈放を望んだのに、部下の長勇参謀が「ヤッチマエ」と勝手に命令したこと、松井大将と同乗した車が江岸の道に累々と横たわる死体の上を約二キロ走ったことなどを記していた。
 全体のトーンから南京虐殺を確認した加登川は「この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と書いた。
 『歴史評論』(八六年四月号)で、この経過を紹介した君島和彦らは「極めて高度な政治的判断」と皮肉ったが、宮崎繁樹明治大学教授(偕行社会員)は朝日新聞の「論壇」(八五年三月二十日付)で、旧軍人が日本軍の虐殺を認めて詫びたのは、真実追求の良識があるもの、として評価した。
 このように外部では加登川論文は好評だったが、会の内部から強烈な反発が起きた。とくに松井日記の改ざん事件を契機に遠ざけられていた田中〔正明〕が、老将軍や地方偕行会幹部に「皇軍の名誉を傷つける本を偕行社が出してよいのか」という主旨の手紙をばらまき訴えた作戦がきいて、連載を単行本化する作業は頓挫した。やっと八八年十一月の総会で了解がとれ、八九年中には刊行できる見通しがつき、二年越しのゴタゴタは収拾に向かっているようである。
 (原注)偕行社編『南京戦史』は一九八九年十一月に刊行され、資料集として評価されている。
     出典;秦郁彦「論争史から見た南京虐殺事件」『昭和史の謎を追う 上』(文春文庫、2004年)187p-192p。

田中正明関連
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050409#1112998112
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1112998471/
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050409#1112994313
田中正明と名越二荒之助は歴史学の知識を欠いた極右系カルト(複数)に養われているっぽいな。

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