カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

杉浦重剛

H・ビックス『昭和天皇』(講談社、2002年)「第二章 天皇に育てる(59〜77頁)」*1の精読をしているとき、以下のメモを書いた。

2003/05/12 (月)
ネット右翼たち、「宗教右翼」たちが依拠する〕「神話」を作った野郎は、杉浦重剛
インテリは丸山真男を批判するヒマがあったら杉浦重剛が果たした役割を分析し、完膚なきまでの批判を積み重ね、アナウンスするべきだ。丸山真男というビッグパパに対する反抗期の終わらない全学連世代のインテリが、確信犯と宗教右翼を助け、丸山真男の接続されるべき普遍的言説は、後世の大衆に接続しなくなった。
逆に、杉浦重剛のドキュソ言説は、学者が無視しマスコミがビビることで、確信犯が布教し無自覚なアホが洗脳され、「大衆」の中で、継続し続けている。

杉浦重剛とは少年期の裕仁に「ご進講」(つまり学校の先生役)をした人物だ。杉浦重剛の「思想」を調べると、これが「宗教右翼」思想の典拠らしいことが判る。杉浦重剛の書は、「科学は倫理的ではない、だから道徳的な虚構を信じよ」というイデオロギーを、昭和天皇を介在して日本人に植えつけたと思われる。
裕仁に「ご進講」をした、杉浦重剛白鳥庫吉・清水澄・穂積八束らの「思想」は、この時代の教養層の中では必ずしも主流とは言えない、傍流の「思想」だ。だが、「ご進講」をしたことをもって、裕仁をこれら傍流思想の保護者だと見立てることで、後の「知の階層対立」が準備されたと考えられる。杉浦重剛の書は、「インテリではないが向学心のある庶民層」へスタンダードな教養書として普及したと想像できる。何しろ裕仁が学んだ教材だ。「庶民」が学ぶ時、これ以上の「教材」は想像できないだろう。この杉浦重剛らの言説は、戦前・戦中は「顕教(国体公式イデオロギー)」として、戦後は「密教(傍流思想)」として庶民に流布したと思われる。戦後、この「密教(傍流思想)」は、教養層や政治の場では「猥談」として扱われ、正面からのしっかりとした反論がほとんどなされなかった。あるいは反論言説と反論の歴史が現在までに接続されていない。そして現在、「宗教右翼」によってこの「密教(傍流思想)」は、猥談以上の亡霊・呪詛へと復活している。
杉浦重剛の「思想」は以下のような代物だ。以下、2003/05/14(水) 2003/05/15(木) に書いたものhttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1052923324/l100から再構成する。

杉浦重剛

杉浦重剛は政府留学生としてイギリスに渡り、化学を学んで帰国した。明治の最初期の留学生だ。発展途上国や植民地からの留学生が、先進国/宗主国に留学することでナショナリズムに目覚める例は多いが、杉浦重剛もその例だ。
先進国で得た「化学」の知識を元に、「理学宗」というものを杉浦重剛は提唱する。

杉浦重剛の 「理学宗」

「理学宗」とは、どういうものか?

一 勢力保存の説
 私は物理學の定則にあるやうなことを土臺として議論を立てることにする。(45-46p)
 例へば石を屋根の上に投上げるには、それに相當しただけの力がいる。しかし一度屋根の上に上げてしまつた以上は、これを支へる物から引離しさへすれば、何時でも容易に地上に落すことが出來る。而もこの落ちる力は、前に屋根の上にあげるのに要した力と同じである。
 これを人事に應用して見ても、やはり同一の結果を見ることが出来る。
 例へば、非常に徳の高い僧が、世の人々に厚く信用せられるのは、即ち平常肉食を禁じ、妻帯をせず、普通一般の人々が重要視する金銀財宝をも塵や芥のやうに顧みずひたすら自分の修養に努めて力を蓄積した。その常人以上の手段によつて蓄積せられた潜在力があつたからこそ、世間の人々の信用を一身に集め得たのである。
 この勢力保存から人間の間の出來事を説明するとつまりこんな事がいへる。勢力を餘計に蓄へた人程何時までも人々から尊ばれる。何時までも光りを残す。一番餘計に勢力を保存してゐるものが一番長く何時までも残るといふことになる。
 二 神
 我が皇祖皇宗は、我が國で一番古くから勢力を蓄へられたお方であつて、それが神として崇め尊ばれて、その後引續いて御代々今日まで萬世一系連綿としてゐるのである。だから勢力保存の道理から考へて見ると、どうしても日本では一番強い勢力を最も多く保存せられてゐるのである。また廣く世界から考へて見ても、日本の皇室ほど長く續いて勢力の保存をして居られるものは、外にはないといふことであつて見れば我が日本といふものは、どうしても世界萬國の第一位でなければならぬといふ議論は単なる空論ではない。
  出典:杉浦重剛「國軆と理学宗」杉浦重剛白鳥庫吉、松宮春一郎『國軆眞義』(世界文庫刊行會、昭和3年)46-71頁から抜粋。

以上が、杉浦重剛自身による「國軆と理学宗」という文だ。「勢力保存の説」とは、エネルギー不変の法則のことのようだ。
「物理學の定則」に従うと、「一番餘計に勢力を保存してゐるものが一番長く何時までも残る」。「我が皇祖皇宗は、我が國で一番古くから勢力を蓄へられたお方」だから、エネルギーを日本でもっともたくさん蓄えている。「日本の皇室ほど長く續いて勢力の保存をして居られるものは、外にはない」から、世界一エネルギーをたくさん蓄えている。
杉浦重剛はそのように説明している。だが、これはほとんど同語反復だ。古代にエネルギーを蓄えているから長く続いている、位置エネルギーを運動エネルギーに変換させているのなら、世界で最も長く続いているのなら、これを書いた時点でもうじき運動エネルギーが尽きるのではないか? 〔そして第二次世界大戦でボロ負けに負けた天皇家にはもはやエネルギーが残っていない理屈になる〕
杉浦重剛は、運動エネルギー自体が位置エネルギーにそのまま変換して「永久運動」するかのような説明をしている。「永久運動」するとしたら、それはもう「物理學の定則」ではない。
「理学宗」とは、このような理屈だ。〔この理屈が日本の「保守思想」の公式となり、現在の霊感詐欺カルトの「宗教右翼思想」の源流となっている。〕

「政祭一致の国体」

 八 大和魂
 我が國の政體が、昔から所謂政祭一致であつて、如何にも平易に且つ國内を統べ治めるに便利なことは、世界にその比を見ない所である。政祭一致とは、即ち宗教と政治とが一途に出づるようになつてゐることをいふ。昔からのヨーロッパの國々の歴史を調べて見ると、宗教の為に政治の上に大變亂の起つたことは、殆ど數ふるに遑まのない程であるが、幸に我が國では、開闢以來、宗教の為に國中が一般に大害を受けたといふ例はなかつた。これは全く我が國が、大昔政祭一致と云ふ単純な制度を以つて、國を建てたその結果に外ならない。(68-69p)
この我が國民がもつてゐる、一種特別の精神こそ、世間一般でいふ大和魂であつて我が國風を形付る最も光輝ある最も必要な原素である。
そしてこれを養成する方法はいろいろあろうけれども、これはたゞ理屈ばかりではなしに、感情にうつたへる事が甚だ必要である。
  出典:杉浦重剛「國軆と理学宗」杉浦重剛白鳥庫吉、松宮春一郎『國軆眞義』(世界文庫刊行會、昭和3年)46-71頁から抜粋。

ここでは、日本を「政祭一致」であり「開闢以來、宗教の為に國中が一般に大害を受けたといふ例はなかつた」と杉浦重剛は述べている。鎌倉仏教一向一揆といった中世史を全て無視・忘却している。言うまでもなく「政教分離」は近代国家の根本精神だが、杉浦重剛は「政教分離」の価値を理解していない。その杉浦重剛が、裕仁の「倫理」を「進講」した害悪は、大きい。
「この我が國民がもつてゐる、一種特別の精神」という言葉には、留学先のイギリスで物質的な敗北感に打ちのめされた杉浦重剛が、外見では負けていても心で勝っている、と、内面的勝利をしようとしているのが読み取れる。平たく言えば、根拠のない負け惜しみをするために、計ることのできない「精神」を賞揚している。思うだけならタダだ。
「一種特別の」とか、「の妙」という言葉は、しばしば戦中戦前の文に散見するが、「理性的に判断しません」「考えるのをやめます」「でも負け惜しみを言います、言わせろ、でもって呑み込め」という意味だ。
「これはたゞ理屈ばかりではなしに、感情にうつたへる事が甚だ必要」と、杉浦重剛は述べている。これは「理性で判断すると(ムリを主張しているから)破綻がばれる、だから理性で考えるのはやめてくれ、ていうか、やめろ」という意味だ。
「大義名分」について、杉浦重剛は独特な(異様な)解釈をしている。そして、この異様な解釈をした者が、裕仁を教育した。

 九 大義名分
思ふに君臣の分は天下の大義である。この君を君とし、臣を臣とするを以つて、一切の標準として名分を正すのを、即ち大義名分といふのである。
  出典:杉浦重剛「國軆と理学宗」杉浦重剛白鳥庫吉、松宮春一郎『國軆眞義』(世界文庫刊行會、昭和3年)46-71頁から抜粋。

「国体」という言葉を、辞書で確認する。

国体思想
 国体という言葉は、元来、各国固有の政治体制を指す言葉であるが、日本においては天皇支配の正当性と優越性を主張するイデオロギーとなっている。
 出典:「国体思想」『[縮刷版]社会学事典』(弘文堂、2000年)296頁。

以下は杉浦重剛が「倫理御進講の趣旨」を自ら述べたものだ。「三種の神器に則り」「五条の御誓文を以て」「教育勅語の御趣旨の貫徹を期し」と杉浦重剛裕仁への教育方針を語っている。〔裕仁が後に「終戦」の「聖断」をするのは、「天皇の正統性を示す三種の神器」が米軍に奪われることを恐怖したからだ*2裕仁がそのように行動した原因の一つには、杉浦重剛の「ご進講」がある〕

倫理御進講の趣旨
東宮殿下に奉侍して倫理を進講すべきの命を拝したるは無上の光栄とする所なり。(略)今進講に就きて大体の方針を定め左に之を陳述せんとす。
一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。
一、五条の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。
一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと。
第一、三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根柢にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。殊に神器に託して与へられたる知仁勇三徳の教訓は国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして真に万世不易の大道たり。
第二、我国は鎌倉時代以後凡そ七百年間政権武家の手に在りしに明治天皇に至りて再び之を朝廷に収め更に御一新の政を行はせられんとするに当り先づ大方針を立てて天地神明に誓はせられたるもの即ち五条の御誓文なり。爾来世運大に進み憲法発布となり議会開設となり我国旧時の面目を一新したるも万般の施政皆ご誓文の趣旨を遂行せられたるに他ならず。
  出典:杉浦重剛「倫理御進講草案」『杉浦重剛全集 第四巻 倫理思想』(杉浦重剛全集刊行会、昭和五十七年)

杉浦重剛は「三種の神器」を徳の象徴、皇位正統性の根拠だとした。「五箇条の誓文」の叡智を強調し、時代的背景を無視した。杉浦重剛は日本の君主の道徳的優越性を「教育勅語」を用い強調した。憲法は軽視した。

教育勅語」御進講
 第一回
  朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
教育勅語を下し給ひし所以
 王政維新後、我国は長足の進歩をなし、各方面に於て絢爛たる文明の華を開けり。然れども其の裏面には、欧米の文物を輸入するに急なりし為め、官民共に欧風に心酔し、一も西洋二も西洋と称し、二千五百有余年来発達し来れる我が国固有の文明も、世界無比の歴史的精神も、殆ど顧みるものなく、正に思想界の危機に瀕せり。されば教育方面にありても、古来の国民道徳と称す可き忠孝、節義、誠実の美風は全く忘れ去られんとするに似たり。故に国民教育の上に一定の主義、標準なく、一方に極端なる欧米風を鼓吹するものあれば、他方には時局の趨向に背反して、頑迷固陋に陥るものある等、混乱、放縦、帰向する所を知らず。明治天皇深くこゝに軫念したまひ、遂に忝くも教育勅語を下し給ひ、以て我国の歴史的精神、国体の精華、及び凡て是れより出発する国民道徳の大本を教示し給へり。
 先年、菊池男爵は英国教育会の招聘に応じ、英国に航し、日本教育の方針は教育勅語に基く事を講演せられき。英国知名の学者、教育家は菊池男の講演に感激し、日本国の国体の淵源、宏遠にして、国民教育の確乎不動なるを羨望し、英国にも日本の如く拠りて以て立つべき大方針あらば、国民教育上如何ばかり有益ならんと云へりといふ。これを見ても、明治天皇の下し給へる勅語は日本国民永遠の生命なること知るべきなり。
  出典:杉浦重剛「倫理御進講草案」『杉浦重剛全集 第四巻 倫理思想』(杉浦重剛全集刊行会、昭和五十七年)722-723頁。

杉浦重剛は「ご進講」を通じて日本のナショナリズム膨張主義を賛美し、人種間の対抗意識を植え付け、「世界の歴史は黄白両人種角逐の歴史」だと教え、通俗的「社会ダーウィニズム」の国際関係観を「ご進講」した。

第五学年(第三学期) 第三 人種
 史を按ずるに此等の諸族は同民族間において相戦ふこと多かりしは、明白なる事実なるも、特に東西民族の相対抗するに於て、其の規模の最も大なりしを見る。
 マケドニアの歴山大王が西暦前三三四年、兵を率ゐて東征の途に上り、十余年に亙りて波斯、埃及、中央亜細亜、印度等の諸地を蹂躙したるは、東西衝突の第一なるべし。然れども波斯、印度は概ね「アーリア」人種なり。唯中亜には黄色人種多かりしなるべし。
 第二には蒙古人の欧州侵略あり。(略)是れ全く黄白両人種の衝突なりき。
 第三には近世に於ける西人の東漸是なり。一四九八年(後土御門天皇 明応七年)葡萄牙人ヴスコダガマが印度航路を発見してより、西班牙人、和蘭人、英吉利人、続々として東航し来り、為に印度、緬甸、安南等の諸国並に南海の諸島皆其の独立を失ふに至れり。加之、露国はウラル山を踰えて東し、西伯利一帯の地を侵略して、満州、朝鮮等を圧し、遂に我が国にも逼らんとするの形勢ありて、日露の開戦を見るに至りたり。
 此の如く最近欧人の東漸は、白色人種が黄色人種を圧倒し去らんとするものなり。暹羅の如きは僅に独立の名を有するも、其の実力なきは勿論、支那の如き大国と雖も多年内乱相次ぎて国家統一の実なく、到底白人の勢力に拮抗するに足らず。唯極東に我が日本帝国ありて僅に西人東侵の勢を扼止するを得たり。
 加ふるに亜米利加人も其の所謂モンロー主義を脱出して、帝国主義を執り、次第に勢力を東洋に伸張して布哇を取り、フイリツピンを取り、支那満州にも商権を拡張せんとするは現今の状態なり。
 此の如く観じ来れば、世界の歴史は黄白両人種競争角逐の歴史なり。現今の形勢も亦両人種争衝の観あること明白なりとす。彼は即ち黄禍を叫び、我は即ち白禍を憤る。例えば仏人コビノーの如きは権威ある学者として称せらるゝものなるが、世界の人種には開化に縁なきものと、開化せられ得るものと、他を開化し得るものとの三大別ありと為し、之を黒人、黄人、白人と為せり。而して先づ黒人の低能なるを軽侮し、更に黄人の意志知力共に微弱なるを説けり。(此の議論の要点は森林太郎訳出)此の如く白人の視て以て劣等と為せる所の黄人が其の勢力を振起し来るは、是れ彼等が黄禍の叫を発する所以なり。(略)
世界幾多の邦国は其の国際を円満にして一家の如く平和を保ち、互に其の幸福を増進するは最も喜ぶべき所なり。又幾多の人種ありと雖も、互いに手を携へて文明の域に進むことは、人類の理想と為すべし。然れども欧米人は動もすれば有色人種を軽侮するの先入的観念を有することあり。人種差別を撤廃すること難かるべし。之を我が国に見るに、王政維新以来四民平等を主義とするも、今日猶ほ旧時の穢多非人を軽侮するの風ありて、近頃之が救済改良を目的とする会合ありたる程なり。されば我が国は、人種的差別撤廃の主張の貫徹し得るや否やに拘はらず、毅然として己を持するの道を立つること最も肝要なりとす。他なし、我が国家、我が国民は、仁愛と正義とを以て終始を貫き彼等欧米人をして心服せざらんとするも得べからざるに至らしむること是なり。若し能く此の如くなるを得ば、人種的差別撤廃の如き、固より憂ふるに足らざるなり。(後略)
出典:杉浦重剛「倫理御進講草案」『杉浦重剛全集 第四巻 倫理思想』(杉浦重剛全集刊行会、昭和五十七年)582-584頁。

〔余談だが、近頃イカれた宗教右翼がアメリカ宗教右翼の真似をして進化論否定言説を言い始めているが、進化論を否定するのなら裕仁が習った「社会ダーウィニズム」や裕仁が習った「進化論」も否定するんだろうか。まあ、否定するかもね。とことんご都合主義だろうから。閑話休題
歴史家ねずまさしは杉浦重剛の講義を以下のように評している。

 [杉浦重剛の]講義の主張には、世界一主義、つまり日本拡張主義がある。「日章旗」を説明しながら菊花を語り「欧州列国を以て先進文明国と呼ぶ…我国は…結局菊花第一といへるが如く、其の国力、其の文明共に世界に冠絶すべし」と結ぶ。「欧米列国は『アーリア種』に属する同一民族なり…我が日本帝国は将来独力を以てアーリア諸民族と相対抗するの覚悟」が必要と、他民族に対する対抗意識と軍国主義を昂揚する。好学、おくりな諡、のうかん納諫、威重、大量、敬神、明智などの項目は、「古事記」「日本書紀」の記事のままの過去の天皇の賞揚にすぎない。桜花では「我が国民が君国の大事に際しては邁往直進して、敢て身命を顧みざる」例として語り、「科学者」では「戦争に於ても、大砲、飛行機、軍艦、その他最新の利器を充分に準備し、之を運用するに忠勇義烈の精神を以てするならば…天下に敵なきを傲るに足るべし、これ御誓文第五条の御趣旨なり」と断定し、軍国主義を賞揚する。ルーソーや四大人などでは外国の自由思想、個人主義社会主義を排撃する。要するに一貫する思想は、儒教をもととする皇室中心主義、政治主義、外国との競争主義、世界一主義、軍国主義である。このような教育を七年間も幼い頭にうけて、もし軍国主義者にならなかったら不思議である。デモクラシー勃興という時代にこのような保守的教育をおこなう勇気のあった人物は杉浦のほかにはなかったであろう。
 出典:ねずまさし『天皇と昭和史 上』(三一書房、1988年)16頁。

皇室と右翼は杉浦重剛を通じて結びついた

宮中某重大事件に絡み、杉浦重剛は皇室と右翼を結びつけ、裕仁の成婚の護衛に暴力団を使った。

右翼団体、成婚式の警戒に出動 
 大正十三年(1924)一月太子の成婚式がおこなわれた。(中略)陸軍大学の立花小一郎、国粋会総裁の大木伯、大震災時の戒厳司令官福田大将や上杉博士、貴院の右翼議員副島伯たちは急いで大日本国粋青年団を作り、京浜間のバクチの親分ら一千人、黒竜会など十余団体とともに、成婚式における太子の行列の沿道警戒に当った。これに在郷軍人会や青年団も動員された。(略)
 五月三十一日から豊明殿において三千七百人を招いた大宴会が催された。民間人としては三井、三菱、住友ら財界の代表、『朝日』『毎日』など言論界代表、成金の山下、山形の本間ら二十名と共に頭山も招かれた(藤本『巨人頭山満翁』p738)。浪人でテロリストの親分が、良子女王冊立の裏面運動の功績を認められて、招かれた。皇室と右翼は杉浦を通じて結びついた。この招待はその一例だ。
 出典:ねずまさし『天皇と昭和史 上』(三一書房、1988年)31-32頁。

その他の「ご進講」/白鳥庫吉

以下、 ビックスの記述に沿って、杉浦重剛以外の「ご進講」の講師らについて触れる。杉浦重剛の他に「ご進講」した人物としては、白鳥庫吉、清水澄(とおる)らがいる。
白鳥庫吉は日本と西洋の歴史を担当した。白鳥は、「国体」観念を裕仁に植えつけた。日本史を客観的に論じる視点をつみ取った。理想化された虚構の人物(神武)の「物語」を説いた。白鳥は日本の伝説上の起源に史料批判の方法を適用しなかった。「進歩の推進者」としての天皇像を教え、明治期の対外戦争を、〈近代帝国が「東洋の平和」を求め、仁愛と正義をもって隣人に対し、その過程を通して勝利を収めた〉と説明した。韓国併合は地域に平和をもたらし、朝鮮人の進歩を意味する、と示唆した。

白鳥庫吉 1865-1942
 明治から昭和時代前期にかけての東洋史学者。慶応元年(1865)、上総国長柄郡長谷村に生まれる。明治二十三年(1890)東京大学文科大学史学科を卒業。在学中にはリースの教えを受けた。学習院教授(明治二十三年〜大正十年)、文科大学教授(明治三十七年〜大正十四年)、東宮御学問所御用掛(大正三〜九年)を歴任。文学博士(明治三十三年)、帝国学士院会員(大正八年〜昭和十七年)。この間、ヨーロッパに2回出張し(明治三十四〜三十六年、大正十一〜十二年)、研究期間の調査、研究者との交流、研究発表、図書蒐集にあたった。その研究は朝鮮から始まって、次第に西に及び、ほとんどアジアの全域にわたり、取り扱った問題はひとり歴史にとどまらず、地理・民族・民俗・神話・伝説・言語・宗教・考古など、きわめて広い範囲に及んでいる。特にこうした広い視野に立って、日本の古代史や言語・民俗の特質を解明し、北アジア中央アジアに活躍した諸民族の種類の考定、西南アジア、地中海沿岸に関する中国人の知識の変遷を論じ、尭・舜・禹の事跡として『尚書』(『書経』)などの古記録に伝えられるところが史実ではなく、天・人・地三才の徳を物語ったものであること、日本語は周辺に親縁を求め難い独特のもので、日本民族がきわめて古くからこの島嶼に拠っていたことを示しているものであること、邪馬台国は北九州に求めるべきで、卑弥呼はその地方の女酋とみなすべきことなどを論じたのは、その業績の一部である。
 南満州鉄道会社が設立されると、ここにも学術調査部を設けさせて(明治四十一年)、朝鮮と満州との歴史および地理の調査にあたり、『満州歴史地理』『朝鮮歴史地理』各二冊、それに続けて『満鮮地理歴史研究報告』を刊行、明治四十一年にはみずから満州の南北を跋渉して遺跡の調査にあたり、大正十三年には東洋文庫を設立してその運営を指導するなど、近代の東洋学研究事業の創唱と推進との先頭に立って活躍した。
 出典:『国史大辞典 第7巻』(吉川弘文館、1986年)745頁。

小熊英二単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』歴史社会学
 彼ら[白鳥庫吉津田左右吉]の日本民族論の大日本帝国における意味は、ほとんど注目されてこなかった。ひとことでいえば、彼らは混合民族論が主流を占めたあの帝国の論壇における、反主流の存在であった。そしてその学説は、戦後の単一民族神話の形成に、大きな役割を果たすことになる。(略)
 当時の日本民族起源論の多くは、記紀皇紀にしたがい列島への「天孫民族」の渡来は二六〇〇年前であり、それは神話の記述からみて鏡や剣など金属器文化が発達してからだと考えていたが、白鳥は、「さう云ふ口碑伝説を有する時代は余程後世のことで、それよりずつと以前に我々の祖先は朝鮮半島を越えて来て、此の島に拠つて居つたものであると思ひます」と主張した。
 ここで彼は、神話ができあがるのは民族の文明が進んで後世になってからであるという。つまり、日本民族の起源と、記紀神話の成立は一体ではないというのだ。これは、建国神話と日本民族は不可分だと考えていた当時の常識の盲点をついた発想であり、この点が白鳥・津田らの学説の大きな特徴となる。
 (略)[白鳥も従来は日本語と朝鮮語は近い関係にあると主張していたが]ヨーロッパ留学と日露戦争をはさんで見解が変わったのである。当時、有力な言語学者・歴史家で明確に日鮮同祖論を否定したのは、白鳥のみであった。
 (略)[白鳥は]朝鮮を防壁として確保することは「東洋平和」に重要だとして併合を歓迎したが、スサノオの半島統治などはあくまで神話上のことで、俗説とちがい列島が半島を完全支配した歴史はないと主張した。日本は未体験のことを行っているのであり、神話の記述などで安心せず、気持ちを引き締めろというのである。かわりに強調されたのは、「若しも朝鮮に於て北方より来る勢力に負けると、常に我は大陸より追ひ去らるといふ事」という、彼が東洋史から得たと称する「教訓」であった。もちろんこれは、ロシアを意識してのものである。

 出典:小熊英二単一民族神話の起源 〈日本人〉の自画像の系譜』(新曜社、1999年)271-275頁。*3

その他の「ご進講」/清水澄(とおる)

清水澄憲法の教師に選ばれたのは、穂積八束上杉慎吉美濃部達吉といった当時の代表的憲法学者は皇太子を指導するにはあまりに問題が多いと元老たちが考えたからだ。
帝国憲法上の政府権限範囲について、二つの学説があった。
A;「天皇親政説」穂積八束上杉慎吉による説。…陸軍将校(宇垣一成は例外)、海軍将校の東郷・小笠原が支持。
B;「天皇機関説美濃部達吉による説。内閣を天皇の単一の最高助言者とする。
清水澄は「統治権」を国家にも天皇にも認めた。天皇はつねに国家の利益のため行動する、と説いた。穂積、上杉説に近かった。天皇にとってあらゆる国家機関は同列で、同一限度の権力しか持たない、と清水澄は述べた。政治的行為に対する天皇の無答責を清水澄は論じていない(この点でも穂積・上杉説に近い)。

清水澄(しみず・とおる) 1868-1947
 明治から昭和時代の憲法学者、官僚。明治二十七年帝国大学法科大学を卒業、内務省に入る。同三十一年学習院教授となり、同年ドイツに留学し三十四年帰国した。四十一年行政裁判所評定官となり、昭和七年(1932)行政裁判所長官となった。この間宮内省御用掛として大正天皇に進講、大正十四年(1925)には帝国学士院会員となった。昭和九年枢密院顧問官となり、同十年帝国美術院長(のち改組により帝国芸術院長)となる。第二次世界大戦後の二十一年最後の枢密院議長となった。枢密院廃止後の二十二年九月、明治憲法に殉じて熱海で入水自殺した。
 出典:『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)520頁。

穂積八束 1860-1912
明治時代の憲法学者。万延元年宇和島藩国学者の三男に生まれる。明治十六年(1883)東大文学部政治学科卒。学生時代より井上毅に嘱望される。明治十七〜二十二年ドイツに留学。ベルリンにてグナイスト、シュトラスブルクにおいてパウル=ラーバントおよびルドルフ=ゾームの指導を受けた。同二十二年早々に帰国。東大教授に任ぜられて憲法を担当。同三十年より四十四年まで法科大学長。民法典論争に際し小論「民法出テテ忠孝亡フ」(『法学新法』五、同二十四年)を著して施行に反対した。それによれば、日本は祖先崇拝の家族国家で、家は家長の権力のもとに、国は天皇の権力のもとに団結し、それによって国際的な生存競争に勝ち残ることができる、民法草案の個人主義はこの団体を解体させるという。主著『憲法提要』(同四十三年)などに見られる憲法理論は、(一)主権の所在を意味する「国体」とその行使の様態を意味する「政体」を区別し、(二)帝国憲法下の日本を「君主国体立憲政体」と特色づけ、「政体可変国体不変」を唱え、(三)国家主権説と君主主権説を折衷して「天皇即国家」という説を唱えて天皇機関説を批判し、(四)立憲政体の本質を権力分立であるとして政党内閣制を否定した。
しかしその学説が権力的かつ反政党的であったため、世論から反動とみられ、また委任立法違憲論など解釈態度が形式的であったため、学界や官界から概念法学者とみられて、その学説は学界で主流とならなかった。明治二十二年留学より帰国早々の有賀長雄は「穂積八束君帝国憲法の法理を誤る」(『憲法雑誌』六−八)において、彼の主権無制限説などを批判し、帝国大学の同僚(国法学教授)一木喜徳郎は一種の天皇機関説を唱え、やがて次の世代の美濃部達吉は、上記の穂積学説のすべてについて全面的な批判を加えるに至る。穂積の後継者上杉慎吉と美濃部の間で行われた「天皇機関説論争」(明治四十四−四十五年)は、一般に美濃部の理論的勝利とみられ、穂積は小論「国体の異説と人心の動向」(同四十五年)を著して、激越な言葉で天皇機関説を疑問なく受け入れる世論を攻撃し、上杉を支援した。その直後、明治天皇の大葬に参列してひいた風邪がもとで大正元年(1912)没。
 出典:『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)940頁。

上杉慎吉 1878-1929
明治後期から大正時代の憲法学者。学生のころ、教授穂積八束から目をかけられたが、上杉は当時キリスト教に心を寄せており、穂積に対しては反感をいだき、ヨーロッパ留学までは、その学説の欠陥を指摘することに努力してきたとみずから語っている。この間、三十八年に『帝国憲法』を、三十九年には『比較各国憲法論』をそれぞれ公刊しているが、この両書では国家を法人とし、天皇を国家の機関とするいわゆる天皇機関説をとっていた。ところが、ヨーロッパに留学して、国家法人説の大家イェリネックに接触して帰りながら、帰国後は、穂積八束の唱える天皇主権説に転向し、一木を経て、先輩教授美濃部達吉らの主張する国家法人説に立つ憲法学者と鋭く対立した。美濃部が四十四年に文部省主催夏季講習会で憲法の講義を行うと、上杉は、穂積とともに、美濃部の憲法論に攻撃を加え、上杉・美濃部を中心に、天皇主権説対天皇機関説のはげしい論争が展開された。穂積が大正元年病のために退官すると、その後をついで東大憲法講座を担任し、同三年には『帝国憲法述義』、十三年には『新稿憲法述義』などを公刊し、美濃部や京都帝国大学佐々木惣一らの唱える立憲主義天皇機関説憲法学と正面から対立する君権主義天皇主権説憲法学を講じ続けた。東大では進歩派の学生の組織する新人会に対抗する七生社を育成したばかりでなく、晩年には軍部と結び、右翼団体の有力な保護者となった。しかしながら、学界では美濃部らの機関説憲法学が優勢で、上杉の学説は重んじられなかったために、うつうつとしてたのしまなかったという。昭和四年五十二歳で死んだが、学説をつぐものは出なかった。
 出典:『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)133頁。

清水澄は国家を人体になぞらえ、天皇をその頭脳に位置づけた。これを国家有機体説と言う。昭和天皇は後に「国家機関説」論争の時に「国家器官説なら自分の考えと同じだ」と述べたが、これは「国家有機体説」と混同しての発言である。

国家有機体説 
 [社会有機体論とは]社会を機械論的に捉える見方とは反対に、社会を生物有機体のアナロジーで捉える社会観の総称。ドイツ語圏での社会有機体論は、ロマン主義的・歴史主義的・ナショナリズム的色彩のもとに展開された。19世紀にA.ミューラーや歴史学派が個人主義自由主義に反対して国家を有機体として捉える学説を提示した。また、ロマン主義に反対しながらも、カントの超越論的自由の哲学と近代始民社会の矛盾を乗越えるという企図をもって人倫としての国家論を唱えたヘーゲル法哲学が、この潮流に位置づけられることもある。20世紀に入ると、シュパンが普遍主義の名の下に国家を最上位に置く社会有機体論を唱えたが、これらはむしろ国家有機体論の名で呼ばれるほうが多い。
 出典:「社会有機体論」『岩波哲学・思想事典』(岩波書店、1998年)698頁。

元首;もともとは、国家を生命体になぞらえた19世紀ドイツの国家有機体説でつかわれた用語。統治権を総攬(そうらん)し行政権の首長であり対外的に国家を代表する君主を、国家の頭になぞらえて元首とよんだものである。
出典:"元首" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

国家学
 [国家学は]国家の制度的側面を研究する政治学のドイツ的変種。ドイツでは市民革命の挫折の結果、政治学は官憲の統治学としての「一般国家学」に一面化した。その体系の樹立者はイェリネク。
  出典:「国家学」『[縮刷版]社会学事典』(弘文堂、2003年)306頁。

国家学と明治政府
 市民社会の上にそびえ立つ人倫的宗教的権威としての国家の尊厳性を「学」の名において基礎づけたと称したヘーゲルの国家哲学は、世俗化の世紀である19世紀の数十年を経て、だいぶ目減りした形でドイツに残存していた。これに着目したのが、新生明治国家の権威づけの根拠を求めていた日本思想界である。自由市場・自由競争という市民社会原理によって世界を支配しようとしていた先進国英国に、国家をもって対抗しようとする後進国ドイツの自己主張を継承しようとする動機が背後にある。
ヘーゲル国家論のL・v・シュタインの「社会君主論」は伊藤博文に感銘を与え、ドイツ国家学は]明治国家に適合する恰好の国家学説と思われた。ところがこの1880年代はドイツ公法学の勢力交代期にあたっており、ゲルバー、ラーバントらの、法学的で実証的な方法の支配する時代に入る。彼らは、実定憲法の枠を超える議論を政治論として排除したから、明治憲法下の法体系を正当化する議論としては適当であったが、その実証主義的精神は「国体論」による神秘主義的な天皇制国家の正当化には適合しづらいところがあり、ラーバンドに学んだ穂積八束は、その国家論を家族国家論という別の淵源に求めた。19世紀ドイツ国家学の集大成と呼ばれるイェリネク『一般国家学』(1900)は、冷静な科学主義的精神の産物で、非常事態における国家緊急権の不可避性、法を破りつつ進行する残酷な「歴史」に対する洞察を含んでいた。
 出典:「国家学」『岩波哲学・思想事典』(岩波書店、1998年)533頁。

イェリネック Georg Jellinek 1851〜1911 
近代ドイツの公法学を集大成したドイツの法学者。ユダヤの出自のために曲折はあったが、ハイデルベルク大学教授となった。そこで哲学者ウィンデルバント、社会学ウェーバーらと交際し、新カント学派哲学の二元論や社会学的思考方法の影響をうけたといわれる。
彼の「両面説」は、事実と規範の区別を前提に国家学を国家社会学と国法学に二分し、国家を事実と規範の両面からとらえることを説く。また「事実の規範力説」をとなえ、法の効力を国民の確信という社会心理学的事実から説明して、一面的な従来の国法学を批判した。彼によると、法規範の面からみた国家の本性は、法的権利義務の主体つまり法人である(国家法人説)。国家は事実上の社会団体として法をつくりだし、みずからその法に服することにより、法人となる(国家の自己拘束説)。君主は国家という法人の機関以上でも以下でもない。
このような彼の議論は立憲君主制という当時のドイツの現実に合致するものであったが、美濃部達吉ら日本の学者にも大きな影響をあたえ、その天皇機関説へとつながった。さらに国民と国家の関係に関する「四区分説」はその後のドイツの人権理論の基本的枠組みとなった。主著は「一般国家学」(1900)。
"イェリネック,G." Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

杉浦、白鳥、清水の三人はそろって、日本を大帝国に変身させる大事業を達成させた明治天皇の個人的資質のお伽噺を裕仁に説いた。憲法裕仁にとって重要な政策決定基準となりえなかった。
 裕仁への教育の最終目標は、政治組織に均衡を保たせ、官僚間の派閥抗争を統合に導くことだった。日本の指導者たちは、問題をはっきりさせ、論争を解決するために議論が効果的だとは信じていなかった。天皇がその役割を適切にこなしてゆけば、その決定と意志は支配機構内のすべてのグループに浸透し、一致が生まれるはずだ、と彼らは考えた。…と、ビックスは述べている。
 白鳥庫吉は「史料批判」をせず「物語」を教えたことに、学者として矛盾を感じなかったのか? とカマヤンはビックスの記述を読みつつ思った。ビックスは「中国文化の非合理性に照明を当てた(69頁)」と言っているが、日本文化をもまた「非合理」だと白鳥庫吉は考えていたのではないか、とカマヤンは思う。
中国の皇帝をモデルに「帝王学」を裕仁へ教えることが白鳥庫吉に求められたことだ。この要請自体が矛盾している。歴代天皇が統治者ではなかったから中国皇帝をモデルに「帝王学」を教えるしかなく、しかも「天皇」は中国皇帝より優れていると教えなくてはならないのだから、要請が矛盾している。
非合理な東洋人には非合理な「物語」がお似合いだ、というシニカルな姿勢で、白鳥庫吉裕仁に「ご進講」していたとカマヤンは想像する。

補足。上杉慎吉岸信介

五〇年代後半の右翼運動
〔五〇年代後半から右翼の暴力が暴走したのは、岸信介政権から庇護を受けていたからであり〕岸信介自体が東大の反動教授上杉慎吉博士の愛弟子であり、この意味においては、「大日本愛国党」の赤尾敏と双生児関係にたつものであること、岸内閣の性格は著者〔木下半治〕がしばしば指摘したごとく、敗戦以来最もドライな官僚政権であり、これは“政党”内閣の衣を着た“官僚”にほかなららないこと、すなわち、政治学的にいえば、一九一八年の原内閣成立以前に日本政治を逆行せしめたものであること、などによるが、しかし、こうした岸信介個人の本質、岸内閣の性格よりももっと大きく、日本の政治がアメリカの戦争政策に引き廻され、その戦略的構想の一環にとり入れられていることに、根本的な意味があったのである。
 出典:木下半治『日本右翼の研究』(現代評論社、1977年)225頁。

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徹底検証 昭和天皇「独白録」

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