カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

「天皇聖断」伝説

以下は、2004年01月21日に書いたレポートを元に構成。寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー編『昭和天皇独白禄』(文春文庫、1995)八月九日深夜の最高戦争指導会議〜結論(146-156頁)*1の精読である。「天皇聖断」伝説を考察することを意図としてここに記す。
昭和天皇独白録』は昭和天皇が自ら語った資料である。【要旨】は『昭和天皇独白録』の記述の要旨。【補足説明】は事件の比較や背景を知るのための別資料。【論点】【疑問点】はカマヤンによる意見である。
精読した箇所の構成は以下である。

(九)八月九日深夜の最高戦争指導会議(146-149頁)/(一〇)八月十日の重臣会議(151頁)/(一一)十二日の皇族会議(151-152頁)/(一二)八月十四日の御前会議前後(153-158頁)/結論

当該部分の要旨は以下である。

【要旨】(九)八月九日深夜の最高戦争指導会議

八月九日。「ポツダム」宣言受諾のために、閣議と最高戦争指導会議を開く。→【補足説明1】
最高戦争指導会議での対立/「海軍省&外務省」vs「陸軍省参謀本部&軍令部」。争点は、国体護持・戦争犯罪人処罰・武装解除・保障占領。「軍人達は自己に最も関係ある、戦争犯罪人処罰と武装解除に付て、反対したのは、拙い事であつた。」(146頁)三条件交渉説;阿南・豊田・梅津。余裕なし説;鈴木・平沼・米内・東郷(147頁)。「私は外務大臣の案に賛成する、と云つた。」「この会議は私の裁決に依り『ポツダム』宣言受諾に決定し『スヰス』と瑞典とを通じて受諾の電報を出すことになつた。」(148頁)「敵が伊勢湾附近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の征圧下に入り、神器の移動の餘裕はなく、その確保の見込が立たない、これでは国体護持は難しい。」(148-149頁)→【補足説明2】【補足説明3】【論点1】【論点2】

【補足説明1-1】 ポツダム宣言(日本降伏の条件を定めたる宣言)一九四五〔昭和二十〕年七月二十六日

(略) 六、吾等は無責任なる軍国主義か世界より駆逐せらるるに至る迄は平和、安全及正義の新秩序か生し得さることを主張するものなるを以て日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出つるの過誤を犯しめたる者の権力及勢力は永久に除去せられさるへからす
 七、右の如き新秩序か建設せられ且日本国の戦争遂行能力か破砕せられたることの確証あるに至るまては連合国の指定すへき日本国領域内の諸地点は吾等の玆に指示する基本的目的の達成を確保するため占領せらるへし
 八、「カイロ」宣言の条項は履行せらるへく又日本国の主権は本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるへし
 九、日本国軍隊は完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるへし
 十、吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非さるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加へらるへし日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すへし言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるへし
 十一、日本国は其の経済を支持し且公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるか如き産業を維持することを許さるへし但し日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるか如き産業は此の限りに在らす右目的の為原料の入手(其の支配とは之を区別す)を許可さるへし日本国は将来世界貿易関係への参加を許さるへし
 十二、前記諸目的か達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従ひ平和的傾向を有し且責任ある政府か樹立せらるるに於ては連合国の占領軍は直に日本国より撤収せらるへし
 十三、吾等は日本国政府か直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す右以外の日本国の選択は迅速且完全なる潰滅あるのみとす
 出典;山田明編『外交資料 近代日本の膨張と侵略』(1997年、新日本出版社)384-385頁。*2原文カタカナを平仮名に改めた。

【補足説明1-2】最高戦争指導会議とは

小磯内閣成立後、昭和一九年八月四日、「大本営政府連絡会議」を「最高戦争指導会議」と改称した。構成員は六人、内閣総理大臣外務大臣陸軍大臣海軍大臣参謀総長軍令部総長。参謀次長・軍令部次長を出席させうる。幹事を内閣書紀官長・陸軍省軍務局長・海軍省軍務局長とした。幹事補佐役として大本営・内閣・陸軍省海軍省・外務省の高等官を充てる。
大本営政府連絡会議」は、国務と統帥すなわち政戦略の総合調節を目的として、昭和一二年大本営設置後に作られる。連絡会議には法制上の根拠はなく、結論は閣議や統帥部で改めて正式決定の手続を要した。平沼・阿部・米内内閣のときは全く開かれず、平沼内閣では「五相会議」で政戦略調整を図った。昭和一五年第二次近衛内閣で連絡会議は復活。一六年七月までは「連絡懇談会」と呼ばれた(構成員には若干変化がある)。
出典;百瀬孝『事典昭和戦前期の日本 制度と実態』(吉川弘文館、1990年)*316頁より構成。

終戦時は、それぞれ、内閣総理大臣鈴木貫太郎外務大臣東郷茂徳陸軍大臣阿南惟幾海軍大臣米内光政参謀総長梅津美治郎軍令部総長豊田副武

【補足説明1-3】国体思想とは

国体という言葉は、元来、各国固有の政治体制を指す言葉であるが、日本においては天皇支配の正当性と優越性を主張するイデオロギーとなっている。その政治的機能は、(1)天皇支配の永久・神聖・絶対、(2)天皇による国民の「教化」、(3)家族主義的心情の援用、にある。1930年代に入ると、高度国防国家、国家総力戦体制の思想的支柱となった。
出典;「国体思想」『〈縮刷版〉社会学事典』(弘文堂、1994年)*4296-297頁。

【補足説明2-1】三種の神器の護持-1;木戸日記

 昭和二十年 七月二十五日(水)晴
 (略)午前十時二十分拝謁す。戦争終結につき種々御話ありたるを以て、右に関連し大要左の如く言上す。
 今日軍は本土決戦と称して一大決戦により戦期転換を唱へ居るも、之は従来の手並み経験により俄に信ずる能はず。万一之に失敗せんか、敵は恐く空挺部隊を国内各所に降下せしむることとなるべく、斯くすることにより、チャンス次第にては大本営が捕虜となると云ふが如きことも必ずしも架空の論とは云へず。爰に真剣に考へざるべからざるは三種の神器の護持にして、之を全ふし得ざらんか、皇統二千六百有余年の象徴を失ふこととなり、結局、皇室も国体も護持(し)得ざることとなるべし。之を考へ、而して之が護持の極めて困難なることに想到するとき、難を凌んで和を媾ずるは極めて緊急なる要務と信ず。 
 出典;木戸幸一木戸幸一日記 下巻』(東京大学出版会、1966年)1220頁。

ソ連を仲介しての和平工作を前提としている。

【補足説明2-2】三種の神器の護持-2;木戸日記

 二〇・七・三一
 御召により午後一時二〇分、御前〔昭和天皇〕に伺候す。大要左の如き〔昭和天皇からの〕御話ありたり。
 先日、内大臣の話た伊勢大神宮のことは誠に重大なことと思ひ、種々考へて居たが、伊勢と熱田の神器は結局自分の身辺に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響をも考へ、余程慎重を要すると思ふ。自分の考へでは度々御移するのも如何かと思ふ。此辺、宮内大臣と篤と相談し、政府とも交渉して決定して貰ひたい。万一の場合には自分が御守りして運命を共にする外ないと思ふ。謹んで拝承、直に石渡宮内大臣を其室に訪ひ、右の思召を伝へ、協議す。宮内大臣は既に内務省側と協議を進め居る趣なりき。
 出典;同前1221頁。

昭和天皇が「三種の神器」に強く執着していたことをこの資料も物語っている。

【補足説明2-3】三種の神器の護持-3;その意味

この〔昭和天皇が『独白録』の中で示す〕「三種の神器」へのこだわりは、もっと現実的な理由に根ざしていた可能性もある。いわゆる南北朝時代には、二つの朝廷が並存していたことが知られているが、現在の天皇家北朝の系統に属している。ところが、幕末の水戸学や国学のなかでは南朝が正統とされ、明治政府も皇国史観の上に立って、公的にはこの立場をとった。この問題は、三五年の天皇機関説問題の時に天皇の周辺でも話題となり、本庄繁侍従武官長は天皇の前で公然と南朝正統説を唱えたようである。この時は、天皇が本庄に、「南北正統論の決定は一考を要することにあらざりしかとも思わる。現に、自分の如きも北朝の血を引けるものにて、大筋には勿論変わりなきも、変なものなり」と述べるとともに、湯浅倉平内大臣が本庄の質問に答えて、次のような見解を示している。

御血統は南北いずれにしても同一にして、ただ皇統は三種の神器を受け嗣がれたる処を正しとす。即ち北朝の天子が南朝の天子より神器を引嗣がれたる後は、その方を正統とせざるべからず。(『本庄日記』)

 つまり、統治の根拠を「血の正統性」に求めることができない以上、皇位の継承を象徴する「三種の神器」の保持に固執せざるをえないという関係が成立しているのだとも考えられるのである。
出典;吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波書店、1992年)*5221-222頁。

【補足説明3-1】八月九日から十日にかけて 木戸日記

〔昭和二十年〕八月九日(木)晴
 (前略)午前九時五十五分より十時迄、御文庫にて拝謁す。ソ聯が我が国に対し宣戦し、本日より交戦状態に入れり。就ては戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様にとの仰せあり。(略)
十時十分、鈴木首相来室、依って聖旨を伝え、この際速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説、尚其際、事重大なれば重臣の意見をも徴したき思召しあり、就ては予め重臣に事態を説明し置かるゝ様依頼す。首相は十時半より最高戦争会議を開催、態度を決定したしとのことにて辞去せらる。(略)
〔午後〕一時半、鈴木首相来室、最高戦争指導会議に於ては、一、皇室の確認、二、自主的撤兵、三、戦争責任者の自国に於ての処理、四、保障占領せざることの条件を以てポツダム宣言を受諾することに決せりとのことなりき。(略)
二時四十五分、高松宮殿下より御直の電話にて、条件附にては聯合国は拒絶と見るの虞れありとの御心配にて、右の善後策につき御意見ありたり。
三時十分より三時二十五分迄、御文庫にて拝謁、右の懸念等につき言上す。(略)
四時、重光氏来室、四の条件を出せば決裂は必至なりとの論にて、切に善処方を希望せらる。(略)
十時五十分より十時五十三分迄、拝謁、内閣の対策案変更せられたる件につき言上す。
鈴木首相拝謁、御前会議開催並に右会議に平沼枢相と参列を御許し願ふ。
十一時二十五分より十一時三十七分迄、拝謁。
十一時五十分より翌二時二十分迄、御文庫附属室にて御前会議開催せられ、聖断により外務大臣案たる皇室、天皇統治大権の確認のみを条件とし、ポツダム宣言受諾の旨決定す。
 八月十日(金)晴
 御前会議終了後、御召により二時三十二分より同三十八分迄、拝謁す。其際、聖断の要旨を御話あり、恐懼感激の中に拝承す。
 右要旨左の如し。
  本土決戦本土決戦と云ふけれど、一番大事な九十九里浜の防備も出来て居らず、又決戦師団の武装すら不充分にて、之が充実は九月中旬以後となると云ふ。飛行機の増産も思ふ様には行って居らない。いつも計画と実行とは伴はない。之でどうして戦争に勝つことが出来るか。勿論、忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、其等の者は忠誠を尽した人々で、それを思ふと実に忍び難いものがある。而し今日は忍び難きを忍ばねばならぬ時と思ふ。明治天皇の三国干渉の際の御心持を偲び承り、自分は涙をのんで原案に賛成する。
 〔午前〕三時帰宅。暫く眠りたるに、朝より空襲あり、(略)
〔午后に〕重臣を御召あり。平沼、若槻、岡田、近衛、廣田、東条、小磯の七氏参内、午後三時三十五分より四時半の間、御文庫附属室にて拝謁、余も参列す。各人より意見を言上す。
出典;前掲『木戸幸一日記 下巻』1223頁。

【補足説明3-2】三国干渉

文中に登場する「三国干渉」について確認する。

 下関条約で日本が清国に遼東半島を割譲させたことに対し、1895(明治28)年露・独・仏が日本にその還付を勧告した事件。中国の首都に近い戦略的要地を獲得したのは日本が最初で、極東進出をもくろむロシアは危機感を高め、フランスと共同して干渉を計画。ドイツもロシアの東方進出を利益と判断して参加した。干渉を受けた日本政府は御前会議で、①勧告拒絶、②列国会議開催による処理、③恩恵的還付の3案のうち、いったんは②を採択したが、病気療養中の陸奥宗光外相が反対、英米などへの働きかけも効果なく、結局閣議は遼東半島放棄を決定。5月日本政府は勧告を受諾し、11月清国と遼東半島還付条約を結び、3000万両(約4500万円)の代償を得て還付した。日本では「臥薪嘗肝」のスローガンとともにロシアに対する敵対心が高まった。
 出典;『ワイド版角川新版日本史辞典』(角川書店、1997年)452頁。

【補足説明3-3】ポツダム宣言受諾に關する御前會議記事・保科善四郎手記

○御前會議(昭和二十年八月九日二十三時三十分 宮中防空壕に於て)
〔外相・参謀総長軍令部総長に平沼が質問した後、平沼は首相へ質問する〕
○ 樞相 首相へ―内地の治安維持は大切なるか、今後執らんとする處置如何、食糧の面は如何、随分ひとくなりつつあり、今日の事態は段々憂慮すへき事態に向かひつつあり、戰爭を止めることよりも續くる事は却て國内治安の亂るることも考へ得へし。
○ 首相 全く同感、心配して居る。
○ 樞相 充分考慮の餘地なきも、此の窮迫せる場合なる故所見を述へる。外相原案―趣旨に於て斯くあらさるへからす。結局國對護持也―之は同意也。唯此の原案に於て字句に甚た宜しくない點あり。大義名文上具合惡し―天皇統治の大權は國法に依て生するものに非す、天皇の統治の本體は憲法にて定まりたるものに非すして憲法に述へたるに過きす。言葉としては「天皇の國家統治の大權に變更を加ふるか如き要求は之を包含し居らす」ならは差支なし。次に(一)(二)(三)(四)の條件に關しててあるか、外相は敵國は之を交渉の餘地を認めすと言はるるか、私は陸相參謀總長の述へらるるのか當然て、交渉は望みなきに至らんか、作戦に確信あらは戰爭繼續然るへし。陛下は皇祖皇宗に傳へる責任あり、之に動揺あらんか陛下の責任重大也、又輔翼の任にあるものの責任萬死に値す。故に今後の推移將來の見透を見て決す可き也。今日の事態、之にて宜しきや充分檢討ある可き也、單純に武力丈けて此の問題を決する事能はす、又國民を外にして戰ふ能さるへし。以上充分自信あらは強く突張れ、自信なけれは陸海軍の兵力か如何に強きも戰爭継続は出來ぬ。唯國體の護持は皇室の御安泰は國民全部戰死しても之を守らさる可からす。聖斷に依つて決せらる可きと認む。
○ 軍令部總長 海軍統帥部としては陸相、參謀總長の意見に概ね同意也、必す成算ありとは申し得せるも、又相當敵に打撃を與へ得る自信あり、國内に於ても尚戰意に燃え居る人々あり(戰意昂らさるもの亦相當多し)。
○ 首相 長時間に亙り審議せられ茲に意見の一致を見さるは甚た遺憾也。此の事たるや誠に重大なる事柄にして、誠に樞府議長の言わるる通りの重大問題也。意見の對立ある以上、聖斷を仰くの外なし(首相聖斷を仰く)。
○ 聖上 外相案を採らる。
理由
従來勝利獲得の自信ありと聞いて居るか、今迄計畫と實行とか一致しない、又海軍大臣の言ふ所に依れは九十九里濱の築城か八月中旬に出來上るとのことであつたか、未た出來上つて居ない、又新設師團か出來ても之に渡す可き兵器は整つて居ないとのことた。之てはあの機械力を誇る米英軍に對し勝算の見込なし。朕の股肱たる軍人より武器を取り上け、又朕の臣を戰爭責任者として引渡すことは之を忍ひさるも、大局上明治天皇の三國干渉の御決断の例に倣ひ、忍ひ難きを忍ひ、人民を難局より救ひ、世界人類の幸福の為に斯く決心したのてある。
時に八月十日午前二時三十分
陸軍大臣、參謀總長及ひ軍令部總長の提案
客月二十六日附三國共同宣言に付連合國に於て
1、 皇室の國法上の地位の變更に關する要求は右宣言の條件中に包含せさるものとす
2、 在外日本軍隊は速かに自主的撤退を爲したる上復員す
3、 戰爭犯罪人は國内に於て處理すへし
4、 保障占領は爲ささるものとす
との了解に同意するに於ては日本政府は戰爭の終結に同意す。
 出典;外務省編『日本外交年表竝主要文書 下』(原書房、1966年)630-631頁。原文カタカナを平仮名に改め、改行を句点に改めた。

【補足説明3-4】第二回戰爭指導者會議(昭和二十年八月九日深夜);迫水の手記

第二回の最高戦争指導會議議は今までに無かった御前會議であつた。此の會儀には平沼樞府議長も御召になつた。(略)その状況につき迫水翰長の手記は次の如く記されてゐる。
外務大臣は一應の經過を述べし後、此際は戰爭終結の最も好き機會であり、天皇の御地位乃至國軆に變化なき事を前提としてポツダム宣言を無條件に受諾する外なき旨を論旨正しく述べ、續いて陸軍大臣は之に反對の旨を前提として、今日猶我戰力はは絶滅したわけでなく、敵の本土來襲を機としてこれに大打撃を與ふる事は可能であり、その際に又終戰の機會も與へらるべく、従つて死中活を求むるの意氣を以て進む事適當なるべし。しかし若し條件付の提案によりて終戰する事可能なれば之に賛成すべき旨を熱心に述べ、次で海軍大臣は簡明に外務大臣の意見に同意の旨を述べられた。平沼樞府議長は各員に對し、色々な事項につき極めて詳細なる説明を求めし後、外務大臣の意見に同意の旨を述べ、次で兩總長は我戰力を以てしては必勝を期し能はずとするも必敗と定むべからず、玉碎を期して一切の施策を果斷に實行するに於ては死中に活を求め得べしと論ぜられた。
由来御前会議は、首相議長格となるも決を與へるものでなく、議事進行を掌るにすぎず、その内容に至りても一の儀式といつてもよい。列席者は豫め發言の内容を打合せ、甲論乙駁、筋書通りに運び、既定の結論に持つてゆき司會者より一同の意見一致を宣するので、陛下は心中御不満であつても御発言をあらせられることは全く無しといつてもよく、御前會議の關係者はどうして會議らしくするかに苦心するのである。然し此度の會議は全く意見の對立したまゝに、各人信ずる所を卒直に述べ、會議は終始緊張をつゞけたのであつた。
陛下には熱心に耳を傾けられ、御心配の御様子は唯天顔を拜するだけで涙が流れた。會議は三對三を以て依然としてまとまらず、翌十日の午前二時を過ぎる事となつた。總理は立つて「議をつくす事數時間猶議決に至らず、しかも事態は遷延を許さない、甚だ畏れ多けれども思召を伺い聖慮をもつて本會議の決定をいたしたき」旨を述べ玉座の前に參進した。
此時の總理の姿は今も私の眼前に浮ぶが、若き聖天子の前にある老宰相の姿は眞に麗しき君臣一如の情景であつて、鞠躬如といふ言葉の意味がはつきり判つた様な氣がした。
陛下は總理に對し座にかへるべき旨を仰せられ、それでは自分が意見をいふが自分は外務大臣の意見に賛成すると仰せられた。こゝに未だ曾て有らざりし御聖斷は下つた。一同恐懼してゐるうちに陛下は語をつがれてその理由を仰せられた。御言葉の要旨は、我國力の現状列國の情勢を顧みるときは、これ以上戰爭を繼續する事は、日本國を滅亡せしむるのみならず、世界人類を一層不幸に陥るゝものなるが故に、この際堪へがたきを堪へ忍びがたきを忍び戰爭を終結すべきであるといふのであつた。此時の御言葉を文語體としたのが終戦の大詔の前例をなすものである。更に陛下は陸海軍将兵の上に深き思召をたれさせられ、我死者戰傷者戰災者またその遺家族に對し御仁慈の御言葉があり、明治天皇の御事についても御言及遊ばされた。一同は唯感泣の中に御言葉を承つたのである。其御言葉の中に戰爭開始以來陸海軍のした所を見るに、計畫と實際との間に非常な縣隔のある事が多かつた。若し戰爭を繼續するに於ては今後に於てもさういふ事が起るのでは無いか、といふ意味があり、私は竦然として襟を正したのであつた。
此御聖斷により會議は結論に達した。眞に未曾有の事である。一同陛下の入御を御見送り申上げ粛然として萬感を胸に退出した。
 以上は迫水翰長の手記をこゝに追記したものである。
 出典;下村海南『終戦記』(鎌倉文庫、1948年)126-128頁。

同書の「序に代ふ」には、下村海南による以下の記述がある。

「閣議には速記もなく記録もない。鈴木内閣は最後の非常時内閣であるべきため、首相官邸及帝國議會の閣議室に、首相官邸防空壕に、首相官邸となれる防空電話局の一室に、晝に夜に時には曉に及びし數知れぬ閣議を通じ、私はいつもメモをとりつゞけ、昭和二十年春より夏にわたる鈴木内閣の閣議を中心としたる記録を残す事ができた。」

戦争指導者会議には議事録が存在していない。従って関係者による捏造が可能だった。「天皇聖断」がなされた「第二回戦争指導者会議」についての記録は、迫水久常の記述以外存在しない。
「鞠躬如」は君臣一体の様を言うが、情緒的・文学的修辞である。「聖断」に関する迫水久常の文は突然そこだけ叙情的・情緒的に変化している。いま太字にした部分を、後述する米国向けの記述(【補足説明10-1】)と比較せよ。迫水久常の作文に沿って、「天皇聖断」伝説を流布するために関係者が口裏を合わせた、と考えるほうが自然である。

【補足説明3-5】重光葵による回想

ポツダム宣言受諾の條件たる、天皇制の維持に関する文句は、外務省案では、天皇の「国法上の地位」を変更せずというようになっていたが、平沼枢府議長は、天皇統治権は国法以上のものである、と云う国体論より「天皇の大権」(prerogative)という文字を使用することとなった。御前会議の席上においては、軍部当局は別段の主張もしなかったが、軍の内部では、軍の意見の採用されなかったこの御前会議の決定に対しては、穏やかならぬ感情を示すものが出て来た。特にその日の午前中に行われた最高戦争指導会議において、陸軍の提出した四条件に対して異論を云うものがなかったにも拘わらず、その夜突然開かれた御前会議において、急遽これを変更したのは陰謀によるものである、とて内閣に対し不信を表示した。
出典;重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論新社、2001年)*6322頁。prerogativeは、大権・特権・特典などと訳される。

【論点】

 1;「独白録」と「(八月九日の)迫水翰長の手記」は、原型となる作文Xを元に、(同じ人物群によって)同じ言葉が語られているのではないか?
 2;「迫水翰長の手記」で情緒的に叙述されている部分は、英語版「独白録」では「茶番」と書かれている。天皇」制は、「民衆の目をごまかすための単なる茶番」を、情緒的作文により理性的思考させない道具として機能している。このことを、歴史学徒は、心理学(社会心理学?)の成果などを援用しながら、より語るべきではないか? 
 3;下村海南『終戦記』など、終戦を考察する上での重要な文書が、一般に入手しにくい状況は、かなりまずいのではないか? 

【要旨】(一〇)八月十日の重臣会議

近衛・平沼・岡田・広田の意見は、無条件降伏も已むを得ず。東条・小磯は、聖断が下った以上已むを得ないが戦争継続論。(151頁)→【補足説明4】【疑問点1】

【補足説明4-1】平沼騏一郎 1867-1952

司法官、政治家。美作国に生まれる。兄は経済史学者平沼淑郎。明治二十一年帝国大学法科大学を卒業。司法省参事官試補を命ぜられ、民事局勤務。明治三十八年大審院検事に、三十九年司法省民刑局長に。四十年英独仏へ派遣、法学博士称号を与えられる。日糖疑獄の処理や幸徳事件(大逆事件)の取扱いで名を上げた。四十四年刑事局長、大正元年(1912)検事総長。大正三年シーメンス事件、四年大浦内相事件、七年八幡製鉄所事件で腕を振るう。明治四十年法律取調委員、大正八年臨時法制審議会副総裁に任命され、立法・法改正に参画。大正四年、東洋道徳学術の究明振興のため「無窮会」を創立。大正十年大審院長、十二年第二次山本内閣の司法大臣に。関東大震災直後に組閣されたこの内閣では重鎮の一人で、十一年に発布された「国民精神作興に関する詔書」に関与。この内閣は虎ノ門事件で辞職するに至る。無政府主義・社会主義の勃興に危機を感じ、大正十三年それまで東京帝大学生中心に組織されていた「国本社」を改組し社長に就任、司法関係者・軍人・財界関係者・官僚・学者などを会員とする国民精神作興のための大団体に成長させる。大正十二年日本大学総長に就任。十三年貴族院議員に勅撰されたが、枢密顧問官に任じられ、十五年副議長就任、男爵を授けられる。この前後から反政党的で「復古」的な「現状打破」をめざす閥として平沼閥が喧伝され、首班候補として話題に上るようになる。満州事変以後は軍部からも期待を受ける(海軍の加藤寛治、陸軍の真崎甚三郎と連携)が、元老西園寺公望は平沼の「右翼」的体質を好まず機会を得なかった。ジャーナリズムからファッショ的存在と見られたが、昭和七年(1932)内外にこれを否定する声明を発し、昭和十一年枢密院議長就任にあたり国本社会長を辞任、国本社解散。昭和十四年近衛内閣を引継ぎ内閣を組織した。「支那事変処理」を中心議題として掲げ、近衛内閣の「革新」政策は引き継がなかった。緊張した国際環境の中で、国内で対立する諸勢力の調整に苦慮、独ソ不可侵条約の締結を機に八ヶ月で総辞職。この時期から「現状維持」派と目される。昭和十五年第二次近衛内閣改造で内務大臣に就任。第三次近衛内閣には国務大臣として留任(十六年には「現状維持」派として狙撃され重症を負う)、東条内閣の成立に伴ない辞職。以後重臣の一人として重きをなす。昭和二十年枢密院議長就任。敗戦とともにA級戦犯として収監、二十一年東京裁判に起訴され終身禁固の判決を受ける。昭和二十七年死去。八十四歳。
出典;『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)879-880頁より抜粋要約。

【補足説明4-2】枢密院

枢密院天皇に直隷し、重要な国務について天皇の諮詢に応える合議機関である。枢密院は勅命により会議に付された案件を審議してその決議を上奏するにとどまり、自ら発議する権限はない。その決議は単に意見を開陳して天皇の参考に供するのみで、それを天皇が採用するかどうかは内閣の輔弼によって決まる。枢密院と内閣の意見が対立した場合、結局枢密院の意見が通ることになる。皇室に関する事項は元来皇室の自治に任せているが、皇室の大事でかつ同じに国家に関するものは、特に枢密院を皇室の機関とし、皇族会議とともにその審議に当たる(皇室典範改正、皇族の臣籍降下元号制定、摂政決定など)。
 枢密院議長の職は内閣総理大臣に次ぐ国家第二の要職と一応は考えられ、宮中席次も高かったが、常勤でないので俸給は大使・大審院長並であった。
 出典;前掲『事典 昭和戦前期の日本』46-53頁から構成。

【疑問点】1;

平沼は、九日深夜の最高戦争指導会議と、十日の重臣会議の双方に出席しているが、米内は重臣会議に出席していないのはなぜだろう? 平沼が「最高戦争指導会議」に、特別に出席できた・出席した背景は何だろう? 東条の後、特高警察や「右翼」勢力を統括していたのが平沼だったからか? 

【要旨】(一一)十二日の皇族会議

最強硬論者の朝香宮が質問、「国体護持〔天皇制維持〕が出来なければ、戦争を継続するか」。「私〔裕仁〕は勿論だと答へた。」賀陽宮東久邇宮久邇宮は、弱い意見。「賀陽宮松平恒雄を排斥したり白鳥敏夫や徳富猪一郎を推薦したりする様な時には、本人自身の気持ちと違つた事を口にした。」天皇による高松宮への、否定的評価。(151-152頁)→【補足説明5】

【補足説明5-1】「第三回の閣議」(八月十日)下村海南による記録

 九日の夜もふけてはや十日の午前三時といふに御前會議より引き下つてきた首相はじめ關係大臣を迎へて第三回の閣議が開かれた。(略)先づ東郷外相より御聖斷により宣言を受諾することゝなりし旨を報告し、急を要するため樞密院に諮問せざる事をつけ加へた。その受諾の案は
 七月二十六日付三國共同宣言ニアゲラレタル條件中ニハ天皇ノ国家統治ノ大權ヲ變更スル要求ヲ包含シ居ラザルコトノ諒解ノ下ニ日本政府ハ共同宣言ヲ受諾ス
といふのであり、この諒解を確認せられたき旨を付記したのである。この原案には「天皇ノ國法上ノ地位ヲ變更スル要求ヲ含マザルモノト諒解ス」とあつたが、平沼樞府の強き意見により書き改められたとの事である。迫水翰長の手記中にも「天皇の国家統治の大權なる文言は、聯合國側政府にとりては恐らく多大の疑問を與へたるものと思ふのであつて、後に回答を得た際の感じに於ては、むしろ原案の通りの文言の方が聯合側も諒解し易かつたのではないかと思はれる。」とあるが、吾々閣僚も此場合結果に於てはいづれになつてもかはらないであろうが、迫水翰長と同じやうな感じを持つたのである。
 出典;前掲『終戦記』128-129頁。

【補足説明5-2】八月十日、細川護貞の日記

 此の日午後一時、重臣会議開催せられ、引続き宮中に重臣、牧野前内府を召されて、御前会議あり。重臣一人一人に意見開陳を命ぜられ、平沼枢相は、国体さへ護持せらるれば、異存なきむねを述べ、大体皆同意見なりしも、東条は自分には意見もあるが、聖断ありたる以上、止むを得ずとのことを述べたりと。而して我陸軍をサヾエの殻にたとへ、殻を失ひたるサヾエは、遂にその中身も死に至ることを述べて、武装解除が結局我が国体の護持を不可能ならしむる由を述ぶ。嗚呼然れども殻は既に大破せられ居らずや!!
 出典;細川護貞『細川日記』(中央公論社、1978年)*7423-424頁。

【補足説明5-3】ポツダム宣言受諾に関する日本政府の申入 一九四五(昭和二十)年八月十日

帝国政府に於ては常に世界平和の促進を冀求し給い今次戦争の継続に依り齎らさるべき惨禍より人類を免かれしめんが為速かなる戦闘の終結を祈念し給う天皇陛下の大御心に従い数州間前当時中立関係に在りたるソヴィエト連邦政府に対し敵国との和平恢復の為斡旋を依頼せるが不幸にして右帝国政府の平和招来に対する努力は結実を見ずに茲に於て帝国政府は天皇陛下の一般的平和克服に対する御祈念に基き戦争の惨禍を出来得る限り速に終止せしめんことを欲し左の通り決定せり
帝国政府は一九四五年七月二十六日ポツダムに於て米、英、支三国政府首脳者に依り発表せられ爾後ソ連政府の参加を見たる共同宣言に挙げられたる条件を右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す
帝国政府は右了解にして誤りなきを信じ本件に関する明確なる意向を速かに表示せられんことを希望す
出典;前掲『昭和の動乱 下』367頁。

【要旨】(一二)八月十四日の御前会議前後

平沼の修正により、聯合国からの回答が遅れ、議論紛糾。豊田軍令部総長・梅津参謀総長・阿南陸軍大臣;「之では国体護持が出来ぬ」。東郷外務大臣は「出来る」、鈴木総理は平沼枢府議長と会い、護持できぬのではと心境変化。「私〔裕仁〕は東郷をして鈴木とを話合ひをさせて、鈴木の気持を固めさした。安倍源基内相、阿南陸相、松阪法相等六人は、護持出来ぬ説。阿南が木戸と激論。東条も木戸の処に議論に来た。「九日の御前会議で、私が外務大臣の案に賛成して、受諾の決心を表明する前に木戸を通じて、平沼と近衛とに私の決心を打ち明けさして置いた。」(153-154頁)→【補足説明6】【疑問点2】
米国は飛行機から宣伝ビラを撒き始めた。「このビラが軍隊一般の手に入ると『クーデタ』の起るのは必然である。」「十四日午前八時半頃鈴木総理を呼んで早急に会議を開くべきを命じた。」永野・杉山・畑が戦争継続を主張。
 午前十一時、最高戦争指導会議と閣議との合同会議。「この会議の事は迫水の手記に出てゐる。」(156-157頁)
 「ポツダム」宣言受諾詔書は十四日午后署名。陸軍省は、放送妨害した。森近衛師団長殺される。「鈴木、平沼の私邸も焼かれた、平沼は陸軍に巧言、美辞を並べ乍ら、陸軍から攻撃される不思議な人だ。結局二股かけた人物と云ふべきである。」(157-158頁)→【補足説明7】【補足説明8】【補足説明9】

【補足説明6-1】皇族会議とは

皇族会議については皇室典範で、皇位継承順位の変更、摂政を置くこと、摂政順位の変更、太傳の選任、皇族の懲戒、皇族の禁治産宣告等の決定あるいは議を経る(決定は勅裁)ことが定められていた。皇族会議は成年以上の皇族男子で組織し、そのほか内大臣・枢密院議長・宮内大臣・司法大臣・大審院長が参列する。天皇は皇族会議に親臨する場合はみずから議長になり、親臨しない場合は、皇族中の一人に議長を命ずる。
出典;前掲『事典 昭和戦前期の日本 制度と実態』247頁。

【補足説明6-2】高松宮 宣仁親王 のぶひと 1905-87

大正天皇の第三皇男子。幼称光(てる)宮。大正二年(1913)高松宮宮号を賜って宮家を創立、勅旨によって有栖川宮家の祭祀を継承。大正十四年海軍少尉、昭和十七年(1942)海軍大佐に。昭和五年公爵徳川慶久の女喜久子(有栖川宮威仁親王の外孫)と結婚。同年ガーター勲章答礼使として渡英。太平洋戦争末期には終戦促進をはかって苦心し、戦後の皇室安定のため陰の役割を果たしたと伝えられる。昭和六十二年没。享年八十二。
出典;同前808-809頁より抜粋要約。

【補足説明6-3】白鳥敏夫 1887-1949

外務省革新派・枢軸派のリーダー。千葉県に生まれる。石井菊次郎および白鳥庫吉の甥。大正三年外務省に入り、昭和五年(1930)外務省情報部長に就任。満州事変では書記官長森恪や陸軍の鈴木貞一中佐と協力し国際連盟脱退を主唱。十三年イタリア大使に。ドイツ・イタリアと即時同盟締結するよう本国政府へ圧力をかけた。のち松岡洋右の下で外務省顧問就任、大政翼賛会総務ともなる。十七年千葉県から衆議院議員に当選。二十三年A級戦犯として終身刑判決。二十四年病死。六十三歳。
出典;前掲『日本近現代人名辞典』540頁から構成。

【補足説明6-4】徳富猪一郎(徳富蘇峰) 1863-1957

言論人、歴史家、評論家。肥後藩に生まれる。父は横井小楠門下四天王の一人。明治十四年熊本の民権政社相愛社に加わり、機関誌の編輯を担当。『新日本之青年』『国民之友』『国民新聞』など発行。二十二年『日本国防論』、二十七年『大日本膨張論』出版。二十九年松方内閣の内務省直任参事官となり、「変節漢」の非難を浴びる。日露開戦では国論統一、国際世論への働きかけに尽力。明治四十四年貴族院勅撰議員。大正二年桂太郎立憲同志会創立旨趣草案を執筆、「桂の御用新聞」とされ襲撃を受ける。大正七年より『近世日本国民史』を『国民新聞』に掲載。大正十二年恩賜賞、十四年学士院会員に。昭和六年大阪毎日新聞社東京日日新聞社社賓に。昭和十二年帝国芸術院会員に。昭和十五年日独伊三国同盟即時締結の建白を近衛文麿首相に提出。大日本言論報国会会長に。二十年A級戦犯容疑者となり蟄居。二十六年から『近世日本国民史』再執筆。三十一年まで「三代人物史伝」を『読売新聞』に発表。三十二年死去。九十四歳。
出典;同前712頁から構成。 

【疑問点】2;

「九日の御前会議で、私が外務大臣の案に賛成して、受諾の決心を表明する前に木戸を通じて、平沼と近衛とに私の決心を打ち明けさして置いた。」のに、平沼が九日御前会議で天皇を批難した深意は何か。

【補足説明7-1】バーンズ回答(合衆国、連合王国、「ソヴィエト」社会主義共和国連邦及中華民国の各政府の名に於ける合衆国政府の日本国政府に対する回答)一九四五〔昭和二十〕年八月十一日

 (八月十一日付、八月十二日接受、ただし十三日朝接到とさる)
ポツダム」宣言の条項は之を受諾するも右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らさることの了解を併せ述へたる日本国政府の通牒に関し吾等の立場は左の通りなり
降伏の時より天皇及ひ日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる措置を執る連合軍最高司令官の制限の下に置かるるものとす
天皇日本国政府及日本帝国大本営に対し「ポツダム」宣言の諸条項を実施する為必要なる降伏条項署名の権限を与へ且之を保障することを要請せられ又天皇は一切の日本国陸、海、空軍官憲及ひ何れの地域にあるを問わす右官憲の指揮下に在る一切の軍隊に対し戦闘行為を終止し武器を引渡し及降伏条件実施の為最高司令官の要求することあるへき命令を発することを命すへきものとす日本国政府は降伏後直に俘虜及被抑留者を連合国船舶に速かに乗船せしめ得へき安全なる地域に移送すへきものとす
最終的の日本国の政府の形態は「ポツダム」宣言に遵ひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるへきものとす
連合国軍隊は「ポツダム」宣言に掲けられたる諸目的か完遂せらる迄日本国内に留まるへし
 出典;前掲『外交資料 近代日本の膨張と侵略』390頁。原文カタカナを平仮名に改めた。

【補足説明7-2】バーンズ回答の“誤訳”

外務省首脳は、「バーンズ回答」の第一項にある英文の “From the moment of surrender,the authority of the Emperor and Japanese Government to rule the state shall be subject to the supreme Commander of Allied Powers,…” を正確には「連合国最高司令官に従属すべきものとす」と訳さなければならなかったのを承知しながら、訳文に頼るであろう軍部の反対をかわすために意図的に“誤訳”した。
出典;田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第五巻・敗戦(下)』(緑風出版、1988年)*8531頁。

軍部官僚は英文読解力が高かったので、田中伸尚は「誤訳」を大問題と見るが、それ程大問題ではないはずだ、と、教授から教わった。この「外務省誤訳」問題の「宣伝」にも意図的情報操作があったと考えていいだろう。

【補足説明8-1】木戸日記;

「八月十四日(火)晴」
 敵飛行機は聯合国の回答をビラにして撒布しつつあり。此の状況にて日を経るときは全国混乱に陥るの虞ありと考へたるを以て、八時半より同三十五分迄、拝謁、右の趣を言上す。御決意の極めて堅きを拝し、恐懼感激す。
(略)十時半より閣僚、最高戦争指導会議員聯合の御前会議召集を仰出さる。
(略)正午、御前会議終了後、御召により拝謁、御涙を浮かばせられての御話に真に頭を上げ得ざりき。
 出典;前掲『木戸幸一日記下巻』1226頁。

【補足説明8-2】米国による宣伝ビラ

日本の皆様
私共は本日皆様に爆彈を投下するために来たのではありません。お國の政府が申込んだ降伏條件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット聯邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します。戰爭を直ちにやめるか否かはかかつてお國の政府にあります。皆様は次の二通の公式通告をお讀みになれば、どうすれば戰爭をやめる事が出來るかがお判りになります。(略)
出典;東野真『NHKスペシャルセレクション 昭和天皇二つの「独白録」』(日本放送出版会、1998年)*979-81頁。

【補足説明8-3】昭和二十年八月十四日午前十一時宮中防空室にて御前會議(總長メモ)

自分の非常の決意には變りない。内外の情勢、國内の状態彼我國力戰力より判断して軽々に考へたものではない。國軆に就ては敵も認めて居ると思ふ毛頭不安なし。敵の保障占領に關しては一抹の不安がないのでもないか戰爭を繼續すれは國軆も國家の將來もなくなる即ちもとも子もなくなる。今停戰せは將來發展の根基は残る。武装解除は堪へ得ないか國家と國民の幸福の爲には明治大帝か三國干渉に対すると同様の氣持をやら子ばならぬ。どうか賛成して呉れ。陸海軍の統制も困難があらう。自分自ら「ラヂヲ」放送してもよろしい。速に詔書を出して此の心持を傳へよ。
 出典;『敗戦の記録』(原書房、1967年)*10290頁。原文カタカナを平仮名に改めた。

【補足説明9-1】八・一五事件

 叛乱は直ちに起った。陸軍省軍務局の、畑中少佐等の中堅将校を急先鋒とするものであった。彼等は、平和実現の中心である宮城を襲うことを考えた。彼等は近衛師団の参謀やその他の同志とともに、先ず天皇陛下の国民に対する終戦放送を阻止せねばならぬ、と考えた。
 彼等は、近衛師団を動かすべく森師団長を訪問し、師団長を説得せんとしたが、その不可能なるを見て、師団長を参謀長とともにその場に惨殺し、師団長の命令書を偽造して、直ちに近衛師団の一部を動かし宮城を襲った。天皇の側近を捕え、天皇を擁立して目的を果さんとの直接行動に移ったのである。
 鈴木総理大臣及び平沼枢府議長等の私邸が焼き払われたのもこの時である。彼等は先ず、天皇の国民に対する放送盤、即ち玉音入りのレコードを探すことに急であった。宮内省は隅々まで捜索されたが、彼等は遂に放送盤も、木戸内府その他も手に入れることが出来なかった。一隊はまた中央放送局を占領して、放送を不可能ならしめんとしたが、十五日玉音放送は、彼等の探知し得なかった放送局より放送された。
 東京防衛司令田中大将は、自ら宮城に至り、叛乱軍の幹部中堅将校に対して、その愚挙を諭し声涙ともに下る説得を試みた。叛徒の幹部は、遂にこの上為すことの出来ないことを悟って、その場で皆自決してしまった。
 かくして、軍部のクーデターは不成功に終った。
 帝都防衛の責任を有つ田中大将は、すべてを見届けて自刃して果てた。
 出典;前掲『昭和の動乱 下』326-327頁。

【補足説明9-2】八・一五事件

 竹下らの起案したクーデターの目的は、日本側の希望する条件を容認させるまで、交渉を継続するよう天皇に認めてもらう、ことであった。つまり無条件降伏ではなく有条件降伏に持っていこうというにあった。その有条件とは①武装解除を日本側が行なう、②占領を最小限にする―の二点で、これは阿南の主張と同じ。大勢からみて有条件降伏に持っていくには天皇を翻意させるしかない。
 「クーデターによって聖慮の変更を促すとは、いわゆる君側の奸が聖明をおおっているから、それをとり除かんとする考え方であり、その考え方の底に、H教授(平泉澄、東大教授)の日本歴史観が流れていた……畑中少佐は、H教授の所説を盲信した……その彼がH先生のお教えだと前置きし聖断が下っても、それが君側の奸によってなされた場合には、たとえその聖断に逆らうとも君側の奸を取除くことは立派な忠義であるとて、阿南さんの説得につとめた……H教授にたいする尊敬は中少佐級だけではなかった。阿南さん自身もまた、教授に深い尊敬と大きな好意とを寄せていた」
 出典;田中伸尚『ドキュメント昭和天皇 第五巻・敗戦(下)』(緑風出版、1988年)558-559頁。「 」内は、『終戦史録』の重引。

【要旨】(一三)結論;

開戦を私が裁可したのは立憲君主としてやむを得なかった。専制君主ではないから。終戦の際は廟議がまとまらず議論分裂のまま裁断を鈴木首相が求めた。だから聖断した。開戦の閣議決定に「ベト―〔拒否権行使〕」を行ったら、必ず内乱となり、私の生命も保証できない。今次の戦争に数倍する悲惨事が行われ、終戦もできず、日本は滅びただろう。(159-161頁)→【補足説明10】【疑問点3】

【補足説明10-1】英語版『昭和天皇独白録』「御前会議」

以下は、昭和天皇による言説である。

 御前会議とはおかしなものである。天皇は投票する権利を持たない。文官で投票権を持っているのは枢密院議長だけであるが、不思議なことに枢密院議長は閣議と連絡会議のいずれにも出席できず、したがって諸般の情勢にはあまり通じていない。
 御前会議は、陸相海相、およびその他の軍・政府の首脳から構成され、天皇の前で会議が行われる。御前会議に提出される議案は、すべて全員の意見一致により可決される。異議を唱えられるのは枢密院議長だけだが、それができるほど国政に通じているわけではない。天皇はといえば、そこに座って全員一致の議決を聞き、出席者たちと写真に収まる。見かけはまことに厳粛だが、すべては民衆の目をごまかすための単なる茶番に過ぎない。
 もし、一九四一年の一一月あるいは一二月ごろ、私が天皇として〔開戦の議決に対し〕拒否権を行使していたら、恐ろしい混乱が生じたかもしれない。私の信頼する周囲の者は殺されたであろうし、私自身も殺されるか誘拐されるかしたかもしれない。実際、私は囚人同前で無力だった。私が開戦に反対しても、それが宮城外の人々に知られることは決してなかっただろう。ついには狂暴な戦争が展開され、私が何をしようと、その戦いを止めさせることは全くできないという始末になったであろう。
 出典;前掲『NHKスペシャルセレクション 昭和天皇二つの「独白録」』205-206頁。日本語版の56頁および161頁に対応する。

【補足説明3-4】の記述と比較せよ。「茶番」と発言しているのは天皇である。「聖断」伝説を作文したのは迫水久常ら宮中グループであり、それを宣伝したのは宮中グループ、海軍グループ、GHQ三者である。

【補足説明10-2】(ポツダム首脳会談用)説明資料「日本の軍政および占領―天皇に対する態度」一九四五年七月三日

Ⅰ 天皇の態度
 国務省は、日本の無条件降伏または全面的敗北にともない、ただちに天皇憲法上の権限を停止するよう勧告している。(略)政治的に実行可能であり、物理的に可能であるならば、天皇ならびにその直近皇族は東京から移して離宮に保護監禁するよう勧告した。(略)
Ⅱ 天皇および無条件降伏文書
(略)(1)天皇は、日本がその交戦相手国である連合国に対し無条件降伏した旨を声明するとともに、日本軍および同国国民に対して、ただちに敵対行為を停止し、対日司令官として任命される者の課すあらゆる要求に従うよう命令する。
(略)(3)日本国統帥部の最高代表者のみならず、天皇にも無条件降伏文書に署名・調印させる。(略)
Ⅲ 日本からの天皇排除
 国務省は、日本から天皇を排除する旨の脅迫を占領軍が行うべきではないと考えているが、いかなる理由にもせよ、もしも天皇の排除が得策であると考えた場合には、そのような措置をとる前に国務省に意見を表明する機会を与えなければならない。
Ⅳ 天皇失踪の場合について
 もしも天皇が日本から逃亡し、あるいは所在不明になった場合には、占領当局は次のように対処するものとする。
 (a)このような状態のあるかぎり、占領当局は、天皇によるいかなる措置も無効とみなす旨を日本国民に告知する。
 (b)天皇自らがその退位を発表するか、あるいは摂政制がしかれないかぎり、天皇が退位した旨の声明は行わない。
 (c)皇位継承者の選定にさいしては率先主導しない。
Ⅴ 天皇
 現在のところ、日本国民が天皇に対して狂信に近い献身性を示している以上、外部から天皇制を廃止しようと企てても、彼らの現在の態度が続くかぎり、おそらく効果がないであろう。(略)
 天皇に対する占領当局の処遇の結果、天皇制存置が日本国民の意思に反して不可能になることのないように、占領当局は、天皇の処遇および天皇との接触にあたっては、日本国天皇が現世の他の統治者とは異なるものであり、よりすぐれたものであって、天皇は神を祖とし、天皇は不可欠の存在であるという、日本国民の考えを承認もしくは支持することを示唆するようないかなる行動も慎むべきである。占領当局は、和平協定違反を扇動するおそれのないかぎりは、非政治的問題だけでなく政治的問題についても、無条件の言論の自由を認めるべきである。
Ⅵ 天皇制に対する態度
 中国国民が天皇制の廃止を支持し、また、米国の世論も、ますますこの方策のほうが望ましいと考えているらしい、という指摘がある。他方、英国国民がそのような政策を支持するかどうかは疑問である。ソ連については、その問題に関する彼らの態度は不明である。 〔ワシントン〕一九四五年七月三日
 出典;『資料日本占領1 天皇制』(大月書店、1990年)358-359頁。

【補足説明10-3】SWNCC一五〇/二 敗北後における米国の初期の対日方針 一九四五年八月一二日

Ⅱ 連合国の権限
 天皇および日本国政府統治の権限は、降伏の時点から連合国最高司令官に従属するものとし、同最高司令官は、降伏条項実施のため適当と認める処置をとる。天皇は、日本国政府および日本帝国大本営に対し、ポツダム宣言の諸条項実施のため必要な降伏条項に署名する権限を与え、かつこれを保障するものとする。さらに天皇は、すべての日本国陸・海・空軍当局に対し、また、いずれの地域にあるかを問わず、右当局の指揮下にあるすべての軍隊に対して、戦闘行為を停止し、武器を引き渡し、かつ降伏条項実施のため右以外に最高司令官が要求する命令を日本国国民および前記の当局に対して発することを命じるものとする。最高司令官の権限は、ここに列挙した諸目的が達成される程度に応じ、また、天皇もしくは(日本国の他の)最高権力者が前向きの意思または能力をもたない場合においては直接行動の権利を同最高司令官がつねに留保することを条件として、連合国の利益のために天皇または日本国の正当な統治機関をつうじて行使されるものとする。
 出典;同前384-385頁。

【疑問点】3;

太平洋戦争に「数倍する悲惨時」は想定可能だろうか? 民主革命への恐怖心が語らせていると考えるべきか? 当時、王制が次々倒れ、昭和天皇にとって民主革命・共産革命はリアルな恐怖だった。しかしそれは昭和天皇にとって恐怖なのであり、民衆にとっての恐怖ではない。

【疑問点】4;

十四日の合同会議の「迫水の手記」は、見つからなかった。下村海南らの言及する「迫水の手記」は、非公開だと思われる。(下村海南『終戦記』に収録されている「迫水の手記」はある。その原典が見つからなかった。[2006/07/25])この「迫水の手記」という作文に沿って「天皇聖断」伝説は流布されたと考えるべきである。

【人物】

阿南惟幾 あなみこれちか 1887-1945;

陸軍軍人、陸軍大臣大分県出身。明治38年陸軍士官学校卒業(十八期)、翌年歩兵少尉に任官。秀才型ではなく、陸軍大学校も三回目の受験で合格した。重厚誠実な純武人型軍人として声価を高め、参謀本部勤務、侍従武官、人事局長を経て、昭和十四年(1939)陸軍次官に累進、中国・満州の軍司令官を勤め、昭和十八年陸軍大将に昇進。昭和二十年航空総監から鈴木内閣の陸軍大臣に就任。ポツダム宣言の受諾の可否をめぐって、断固抗戦を主張する陸軍部内の少壮幕僚に突き上げられ苦悩したが、終戦の聖断が下ると、承詔必謹を唱え強硬派を慰撫し、八月十五日夜割腹自決をとげる。年五十九。
出典;『日本近現代人名辞典』(吉川弘文館、2001年)27頁より抜粋要約。

豊田副武 とよだそえむ 1885-1957;

海軍軍人。大分県出身。父は漢学の素養があって副武も素読を習う。明治十八年海軍兵学校卒業。砲術を専攻し海軍大学校を終えたあと、大正八年(1919)から約二年半、イギリスに駐在。戦艦「日向」艦長・軍令部第二班長・連合艦隊参謀長・海軍省教育局長を歴任、中将に進むと昭和十年(1935)、海軍省軍務局長に就任。日中戦争拡大に対し陸軍の無統制をつよく攻撃し、その反感を買う。昭和十二年第四艦隊司令長官となり現地で杭州湾上陸作戦・青島上陸作戦を指揮。青島では作戦中陸軍部隊と激しく対立し、その反豊田感情を決定的にした。第二艦隊司令長官を経て十四年艦政本部長となったが、対米開戦には反対。十六年大将に進み呉鎮守府司令長官。東条内閣成立前、海相予定で上京したが、東条英機の忌避により就任が流れる。横須賀鎮守府司令長官在任中の十九年、連合艦隊司令長官となり、マリアナから沖縄までの作戦を指揮。二十年五月に軍令部総長となり、終戦には米内海相とは異なる態度を示したが、陸軍のクーデターを防止するためであったと豊田は述べる。戦犯犯罪では無罪。昭和三十二年死去。七十二歳。
出典;同前729頁より抜粋要約。

梅津美治郎 うめづよしじろう 1882-1949;

日本陸軍最後の参謀総長大分県出身。明治三十六年、第十五期生として陸軍士官学校を卒業。翌年歩兵少尉に任官と同時に第一師団小隊長として日露戦争に出征。四十四年陸軍大学校を主席で卒業、参謀本部に配属、ドイツ・デンマーク駐在、スイス公使館付武官、軍務局課員、歩兵第三連隊長、参本課長、軍事課長と順調に累進、昭和五年(1930)少将に進級、参本総務部長を経て支那駐屯軍司令官時代には日本の華北進出の第一歩となった梅津・何応欽協定(昭和十年六月十日)を結び、一躍その名を知られた。緻密・冷静な事務家型軍事官僚の一典型だったが、二・二六事件勃発当初、動揺した幹部が多かった中で第二師団長としていち早く叛乱軍討伐の意思を宣明し、事件終結後の粛軍体制を固めるため陸軍次官に起用され、いわゆる新統制派の代表として軍政手腕をふるった。十三年第一軍司令官として中国戦線に出動、十四年関東軍司令官に転じノモンハン事件後の再建にあたり、この間陸軍大将に昇進。東条内閣崩壊により十九年七月参謀総長に就任。二十年九月ミズーリ号上における降伏調印式には大本営を代表して参列、A級戦犯に指名され、終身禁固を宣告された。服役中病気により、二十四年一月死去。六十八歳。
出典;同前156頁より抜粋要約。

鈴木貫太郎 1867-1948;

和泉国に生まれ、千葉・群馬で育つ。明治二十年(1887)海軍兵学校卒業、二十二年海軍少尉、水雷艇艇長として日清戦争に参加。三十一年海軍大学校卒業、駆逐艦司令として日露戦争に参加。戦後、明石・宗谷・敷島・筑波などの艦長を歴任。海軍省人事局長を経、大正十二年(1923)海軍大将、十三年連合艦隊司令長官、十四年海軍軍令部長となる。昭和四年(1929)予備役となって侍従長枢密院顧問官に就任、八年間侍従長として天皇の側近に仕えたが、十一年の二・二六事件では重臣の一人として叛乱軍に襲われ重症を負う。同年侍従長を辞し男爵を授けられる。十五年枢密院副議長、十九年枢密院議長となる。二十年、七十九歳の高齢で小磯内閣のあとをうけて内閣総理大臣となった。鈴木は高齢であるのと、軍人は政治に関わるべきではないことを理由にして固辞したが、木戸幸一内大臣や近衛文麿らの重臣の多くは、天皇の信任の厚い鈴木に戦争終結の任務にあたることを暗に期待して、鈴木を推薦したといわれている。首相としての鈴木は、表向きは、「戦争完遂」を主張し、強硬な主戦論者をなだめながら、原爆投下・ソ連参戦をむかえて、天皇の裁断によるポツダム宣言受諾を選んだ。降伏決定後の二十年八月十五日内閣総辞職を行なった。同年十二月再び枢密院議長に就任し、新憲法草案を可決した二十一年六月まで在任。政治的野心も手腕ももたない誠実な海軍軍人であると広く認められていたが、それだけにかえって宮中の経歴が長く、敗戦という天皇制にとって最も重大な危局に、首相の任につくことになった。昭和二十三年死去。八十二歳。
出典;同前555-556頁より抜粋要約。

米内光政 1880-1948;

海軍軍人。岩手県に出生。明治三十四年海軍兵学校卒業。オーストラリア方面への遠洋練習航海を終え海軍少尉に任官、日露戦争には中尉として従軍、日本海海戦駆逐艦電乗組として参加。砲術専門の海軍将校として進み大正三年(1914)海軍大学校甲種学生協定卒業。旅順要港部参謀のあと第一次大戦ではロシア駐在、革命勃興を体験。六年帰国して佐世保鎮守府参謀、軍令部出仕・同参謀となり、シベリア出兵では浦塩派遣軍司令部付を勤めた。九年大佐に進み、十年ポーランド駐在員監督となり、大戦後の東欧の実情を見聞。装甲巡洋艦春日・磐手・戦艦扶桑・陸奥の艦長を歴任。十四年将官に。第二艦隊参謀長、軍令部第三班長、第一遣外艦隊・鎮海要港部の司令官、第三艦隊・佐世保鎮守府・第二艦隊・横須賀鎮守府の司令長官を歴任、昭和十一年(1936)連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官となる。林内閣で海軍大臣に就任、十二年大将に任ぜられ、第一次近衛・平沼の両内閣に留任。昭和十三年から十四年までの第一次日独伊同盟交渉では、陸軍の同盟条約賛成意見に抵抗して反対し、交渉を流産させる。平沼内閣が退陣するとき軍事参事官に退く。十五年内閣を組織。海軍は現役に留まったまま首相就任を願望したが、米内は首相は文官であるべきだとの信念からみずから予備役に編入された。内閣総辞職後は重臣の一人となったが、予備役であるため実質的権限はなく、傍観者的な立場に立った。昭和十九年、海軍部内で米内を現役に復帰させ海相にしようとする運動が起こり、小磯国昭と並んで組閣の大命を受け、副総理的な立場で天皇の特旨により現役に復帰し海相に就任。鈴木内閣に留任。東久邇宮・幣原両内閣に留任、戦後処理にあたる。昭和二十三年死去。六十九歳。
出典;同前1147-1148頁より抜粋要約。

東郷茂徳 とうごうしげのり 1882-1950;

外交官。太平洋戦争開戦・終戦両時の外務大臣鹿児島県に生まれる。明治四十一年、東京帝大文科(独文)を卒業。大正元年(1912)外交官・領事官試験に合格。大正二年領事官補として奉天総領事官に赴任、外交官補として在スイス在勤、公使館三等書記官となりベルリンに出張駐在。大正十二年欧米局第一課長。大正十四年大使館一等書記官、米国在勤。昭和四年(1929)大使館参事官、ドイツ在勤。昭和八年外務省欧米局長。内田外相に「国際連盟脱退後ニ於ケル帝国ノ対欧米外交方針」と題する意見書を提出。九年外務省欧亜局長。昭和十二年特命全権大使に任命されドイツ駐在。東郷の赴任後、日独防共協定の強化問題が起る。昭和十三年駐ソ連大使に転任。在任中、日ソ漁業交渉、ノモンハン事件停戦交渉、日ソ不可侵条約、日ソ中立条約締結交渉を進める。十五年松岡洋右外相より帰朝命令をうけ帰国、松岡の辞職勧告を拒否。十六年東条内閣の外務大臣兼拓務大臣に就任。十七年元旦、外務省員に早期終戦に努力すべしと訓示。同年、大東亜省設置に反対し、東条首相と激論、外務大臣を単独辞職。貴族院議員となり、二十年鈴木貫太郎内閣の外務大臣兼大東亜大臣に就任。五月中旬より秘密裏に終戦の仲介をソ連に求める。八月九日ソ連が対日参戦、同日長崎への原爆投下。東郷は国体護持のみを条件にポツダム宣言受諾を強く主張し、八月十日未明、同十四日午前、鈴木総理は再度聖断を仰ぐ。天皇は東郷外相の意見に賛成し、八月十四日夜、終戦の詔書公布。東郷は八月十七日外相を辞任。二十一年極東国際軍事裁判所に起訴され、二十三年に禁固二十年を言い渡され、拘禁中病気入院、二十五年米陸軍病院で病没。六十七歳。
出典;同前695-696頁より抜粋要約。

近衛文麿 1891-1945;

政治家。明治四十五年東京帝大哲学科に入学、河上肇らをしたい京都帝大法科に転じ、西田幾多郎・戸田海市らから影響を受けた。大正三年『新思潮』にオスカー・ワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載、発禁となる。五年貴族院議員。六年京大卒業、内務省地方局見習に。大正七年『日本及日本人』誌上に論文「英米本位の平和主義を排す」を発表、持てる国と持たざる国の対立という図式を公表。八年パリ講和会議に随員として出席。十年森恪らと憲法研究会を設ける。十年日本青年館を設立、理事長に就任。昭和六年貴族院副議長に。満州事変へ賛成表明。昭和八年貴族院議長。昭和九年日米関係の悪化を憂い訪米、アメリカの政財界の巨頭らと会談。十二年林内閣のあとをうけて第一次内閣を組織。日華事変が勃発するが、事変収拾に成功せず。事変との関連で軍部中心に推進された「革新」政策をおおむね実行、国家総動員法成立、国民精神総動員運動展開、「近衛新党」計画に関与。十三年陸軍が推進した防共協定強化問題をめぐり閣内に対立、十四年内閣総辞職。首相になった平沼騏一郎に代わり枢密院議長就任、平沼内閣の無任所相を兼摂。十五年、欧州戦線でのドイツの動きが活潑になるにつれて、近衛新党への期待が高まり、木戸幸一有馬頼寧とともに新党結成を決意、枢密院議長を辞任。七月、組閣の大命を受け、陸・海・外相予定者を荻外荘に招いて会談(荻窪会談)、枢軸強化、対ソ関係調整、日華事変遂行、対米英仏蘭方策、新政治組織の結成などを協議、第二次内閣を組閣。日独伊三国同盟締結、汪政権承認、十六年日ソ中立条約調印と、ほぼ荻窪会談の線で外交を進めたが、日米交渉をめぐり、独ソ開戦への対応をめぐって松岡洋右外相との対立が激化。新体制は十五年大政翼賛会として発足したが、「革新」派と「復古」派の対立が激しく、平沼・柳川平助を入閣させ、大政翼賛会から「政治性」を除去し、政府の外郭団体化するに至る。十六年第二次内閣総辞職、翌日再び大命は近衛に下り、第三次内閣組閣。対米交渉は緊迫していた。交渉打ち切りを主張する東条陸相と対立し、内閣総辞職。十七年ごろから早期和平のため陸軍皇道派と海軍を連携させ東条ら陸軍主流に代わらせようとし、吉田茂・小畑敏四郎・真崎甚三郎らと連絡をとる。二十年早期終戦を天皇に上奏(「近衛上奏文」)、七月天皇に召されソ連への和平仲介依頼特使を望まれ受諾したが、実現せず敗戦を迎える。十月マッカーサーから憲法改正の研究調査を示唆され、内大臣府御用掛として改正案起草に従事、十一月改正案を奉答したが、十二月戦争犯罪人容疑者として逮捕令が発せられる。十二月十六日自殺。五十五歳。
出典;同前428-429頁より抜粋要約。

岡田啓介 1868-1952 ;

海軍軍人、政治家。福井に生まれる。日清戦争は少尉で出征。日露戦争では春日副長として日本海海戦に従軍。昭和二年(1927)田中義一内閣の海軍大臣、臨時艦船建造部を組織、造船会社を軍管理下に置き、金融恐慌で苦しむ造船業界を救済。翌年大臣を辞任、軍事参事官に。昭和五年のロンドン軍縮会議では、岡田は、政府・海軍軍令部・海軍省三者の間の斡旋に奔走、軍縮条約締結に寄与、政治的手腕を認められる。昭和七年斎藤実内閣に海相として入閣、森恪をとおして対政友会工作を行う。八月大臣を辞任、後備役に。九年内閣総理大臣兼拓務大臣。革新右翼から現状維持派として激しく攻撃を受ける。十一年、二・二六事件、奇跡的に殺害を免れる。十二年前官礼遇の沙汰があり、重臣の列に加わる。十八年以後戦局収拾を企図し、東条首相退陣に努力、十九年に重臣たちが申し合わせ東条内閣を総辞職させることに成功。二十年鈴木貫太郎内閣には、女婿の迫水久常を書記官長として送り込み、全面的に協力、影響力行使した。二十七年没。八十四歳。
出典;同前215-216頁より抜粋要約。

迫水久常 1902-1977;

鹿児島市に生まれる。大正十五年東京帝大法学部を卒業して大蔵省に入省。各地の税務署長を勤めた後、昭和九年(1934)岡田啓介首相の秘書官となり、十一年二・二六事件首相官邸から岡田を救出するのに貢献。大蔵省理財局金融課長・企画院第一部第一課長・大蔵省総務局長・同銀行保険局長などを歴任、革新閣僚として知られる。昭和二十年鈴木貫太郎内閣の書記官長に就任し、終戦工作に奔走、終戦詔書の起草に参画。翌年公職追放、一時実業界に身を置き、昭電疑獄事件に連座したが無罪。追放解除とともに政界に入二十七年鹿児島一区から参議院議員に当選、以来現職のまま没するまで参院当選四回。自由党から自由民主党に所属、三十五年第一次池田内閣時に国務大臣経済企画庁長官、翌年第二次池田内閣に郵政大臣に。党内では副幹事長・政務調査会副会長・参議院自民党幹事長などを歴任、参議院における自由民主党の中心的存在だった。昭和五十二年死去。七十四歳。
出典;同前467頁より抜粋要約。

斎藤実 1858-1936;

岩手県水沢に生まれる。明治三十九年第一次西園寺内閣海軍大臣に就任、大正三年まで五代の内閣を通じ在職、日露戰爭ごの海軍拡張計画推進。大正三年、第一次山本内閣がシーメンス事件の余波で倒れると辞任。八年原内閣で朝鮮総督。昭和二年海軍軍縮会議に全権委員、同年枢密顧問官に。昭和四年から六年まで再び朝鮮総督。七年五・一五事件により、元老西園寺公望の意向で政局を担当。この「挙国一致内閣」は「現状維持派」路線にそって、民間右翼・陸軍部内・政党一部・平沼系の非常時意識をやわらげ、革新右翼勢力抑制に努力、帝人事件で九年に倒れる。十年内大臣、「現状維持派」総本山と目され、十一年陸軍青年将校により四谷自宅で殺害される。七十九歳。
出典;同前451頁より抜粋要約。

下村海南 1875-1957;

官僚、新聞人、本名宏。和歌山県生まれ。対露貿易の先覚者下村房次郎の長男。東京帝大法科大学卒業後官界に入り逓信省で活躍、累進して郵便貯金局長、為替貯金局長など歴任。大正四年(1915)明石元二郎台湾総督に招かれ台湾総督府民政長官となる。大正八年法学博士。大正十年大阪朝日新聞社長村山竜平の懇請を受け取締役として同社入社、十一年五月専務取締役を経て、昭和五年(1930)副社長に就任、朝日新聞社の対外的な顔として経営の一翼を担う。昭和十一年退社、十二年貴族院議員に、十三年日本体育協会会長、十八年日本放送協会会長に就任。二十年鈴木貫太郎内閣に入閣、国務大臣兼情報局総裁として戦争終結に尽力。佐佐木信綱門下の歌人、随筆家。昭和三十二年没。八十二歳。
出典;同前524頁より抜粋要約。

【関連用語】

熱田神宮

名古屋市熱田区にある神社。三種の神器のひとつ草薙剣を神体とする熱田大神をまつり、相殿(あいどの)にヤマトタケルノミコト(日本武尊)など、神剣に関係する5柱をまつる。ヤマトタケルノミコトが東征の際、伊勢神宮にあった神剣をヤマトヒメノミコト(倭姫命)からさずけられた。ヤマトタケルノミコトは東征の帰途、尾張の国造の娘ミヤズヒメノミコト(宮簀媛命)を妃にし、ヒメに剣をあずけて伊吹山の賊を退治にむかい、そのまま病死する。そこで、ミヤズヒメノミコトが社殿をたてて草薙剣をまつったのが起源という。もとは尾張氏神職世襲していたが、平安末期からは藤原氏が大宮司をつとめる。源頼朝の母は、熱田大宮司藤原季範の娘であった。創建以来、古代〜中世を通じて朝廷や幕府の崇敬があつく、織田信長徳川家康なども社殿の修復をおこなっているが、江戸時代には尾張藩が修復にあたった。1893年(明治26)の社殿改造の際、それまでの尾張造という様式から、伊勢神宮と同じ神明造にあらためられた。
"熱田神宮" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encycloedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

伊勢神宮

三重県伊勢市にある神社。五十鈴川の川上にある皇大神宮、山田原にある豊受大神宮、両宮に付属する別宮、摂社、末社、所管社などの総称。正式名称は神宮。全国の伊勢信仰の中心で、古来最高の特別格の神社とされてきた。皇大神宮は内宮ともいい、天皇の祖神でもある天照大神をまつり、三種の神器のひとつ八咫鏡を神体とする。「日本書紀」によれば、第10代の崇神天皇のとき、宮殿にまつっていた神体を皇女の豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑にうつし、第11代垂仁天皇のとき、皇女の倭姫命が各地をめぐったうえで、伊勢国を鎮座の場所としたのが始まりという。豊受大神宮は外宮といい、御饌都神をまつる。804年(延暦23)の「止由気宮儀式帳」によれば、もとは丹波国にまつられていたが、雄略天皇のとき、アマテラスオオミカミに御饌をすすめるためにうつされたという。伊勢神宮には社格や神階がないが、これは朝廷・国家の最高の神をまつり、他の神社より超越することをあらわす。天皇以外の奉幣・参詣を禁止する私幣禁断や、天皇の皇女を斎宮として奉仕させるかつての制度からも、伊勢神宮が皇室にとって特別な存在であったことがわかる。神宮の職員である祢宜として、内宮には荒木田氏、外宮には度会氏があたり、大神宮司がそれらを統括していた。ほかに大中臣氏の五位以上の神祇官が祭主に任じられ、勅使として朝廷との間を往復していた。祭主の職は、大中臣氏一族の藤波氏が世襲するようになった。1871年(明治4)の神宮改革でこれらの神職世襲は廃止され、祭主は皇族だけにかぎられた。明治期になると、神社は国家の宗祀とされ、伊勢神宮はその第1として国家から特別な扱いをうけた。戦後、政教分離の原則にもとづき、1946年(昭和21)に宗教法人となったが、現在でも全国の神社の中心的な存在で、神社本庁の本宗とされている。
"伊勢神宮" Microsoft(R) Encarta(R) 98 Encyclopedia. (c) 1993-1997 Microsoft Corporation. All rights reserved.

日糖疑獄事件

明治後期の汚職事件。日露戰爭後不振に陥った日糖が、1907年で期限の切れる輸入原糖戻法の延長などを代議士に請託し賄賂。1908年の総選挙にも多額の不正資金を提供し露見。1909年、日糖重役磯村ら贈賄側7名、代議士24名が起訴され、有罪とされた。
出典;前掲『ワイド版角川新版日本史辞典』815頁。

大逆事件

旧刑法73条大逆罪(皇室に対する危害)にかかわる事件。有名なものとして1910年幸徳秋水・菅野スガら当時の無政府主義者社会主義者が明治天皇を計画したとされる幸徳事件がある。1910年5月から全国的に多数の社会主義者が逮捕され、26名が起訴された。非公開の公判を経て1911年1月18日大審院特別法廷で24名に死刑、2名に有期懲役の判決があったが、この事件は3-4名をのぞいては確証がなく、でっちあげ事件であった。翌日天皇の特赦により死刑の半数は無期懲役に減刑された。しかし残り12名は24日11名、翌日菅野の死刑が執行され、社会に衝撃をあたえた。この影響で日本の社会主義運動は「冬の時代」とよばれる低迷期に入った。
出典;同前 631-632頁。

シーメンス事件

1914年、ドイツのシーメンス社が軍艦受注に絡んで海軍高官に賄賂を行なったことが発覚。議会では島田三郎らが内閣を攻撃、民衆運動も高まった。イギリスのヴィッカース社による賄賂も判明し、事件は拡大。元艦政本部長ら海軍高官や三井物産重役が検挙された。事件の影響で議会審議中の予算案が不成立となり、山本内閣は総辞職した。
出典;同前493頁。

国民精神作興に関する詔書

1923年11月関東大震災を契機に出された証書。米騒動以来の社会問題の解決と共産主義思想などの防止をはかるため、思想・社会規律の強化、勤倹、階級協調の振興を説いた。
出典;同前 389頁。

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*1:

昭和天皇独白録 (文春文庫)

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*2:

*3:

事典 昭和戦前期の日本―制度と実態

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*4:

縮刷版 社会学事典

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*5:

昭和天皇の終戦史 (岩波新書)

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*6:

昭和の動乱〈下〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)

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*7:

細川日記 下 改版 (中公文庫 B 1-36)

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*8:

ドキュメント昭和天皇 第5巻 敗戦 下

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*9:

昭和天皇二つの「独白録」 (NHKスペシャルセレクション)

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*10:

敗戦の記録

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