カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

10月23日(土)の共謀罪反対集会

宮下公園で行なわれた反対集会http://incidents.cocolog-nifty.com/the_incidents/2005/10/10222br_1ca3.html
ざっと数えたところ、1時半時点で参加者70人ほど。それを観察する公安関係者15人ほど。公安多すぎ。警察批判のとき公安関係者数ピークに。
発言者は警察批判の錚々たる人々。

野田敬生氏がどんな人物か生で確認しておきたかったので、それを最大の目的として参加した。生で見ることができてよかった。なかなかナイスガイだった。彼は信頼できそうだ。http://talk.to/noda/ http://espio.air-nifty.com/espio/ http://espio.air-nifty.com/about.html http://www.emaga.com/info/xp010617.html 集会参加者の数が少ないことと、観察する公安関係者が多いことへ不満を表明していた。ごく当然な表明だ。歴史の中で、特高警察が共産党へスパイを送りそのスパイに刑事事件を起こさせた事件が複数ある。それについて簡潔に発言した。「共謀罪」はそのような「謀略」を活性化させる。
山岡俊介氏は、子供のような瞳をした人だ。警察腐敗を暴いたことから、現在警察関係者から名誉毀損訴訟されている。酷い話だ。http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/
刑法学者・宮本弘典教授。本当なら名の知られた刑法学者がもっと参加してなくちゃおかしい、と、法学界への不満を表明していた。デモに参加するために妻子を連れて参加。

デモに使う旗が用意されると、公安連中が集まって傍目に判るほど(及び腰で、遠目で)覗き込むのが滑稽だった。旗に書いてある団体名を覗き込んだんだかなんだかよく判らないけど。公安連中をこっちからもカメラで撮影したが、次に機会があったら知らん顔して公安の中に混じってメモに何かいているのか観察しておこうと思う。

デモが始まる前に参加予定者が集まり、人が増えた。100人強くらいかな。
デモに参加した。
デモ隊の後ろのほうで、ギター&歌を奏でていたかたは、センスがよかった。が、隊列のシュプレヒコールで歌がかき消される。私の年代以下の人は常に出す不満なのだが、シュプレヒコールのセンスは非常に悪い。言葉の選び方が下手で、何を言っているのか耳で聞いてわからないし、唱和もしにくい。「アンポフンサイ」のときの悪い意味での「伝統芸」をそのまま引き摺っている。こういうことを言ってもしょうがないのだけど、一般に、たいがいの政治活動はマトモな人から消耗して脱落するから、長く残るのはわりと鈍感な人になりがちだ。(これについては後述)
デモから戻ると、公安連中が解散した。

その後、警察の裏金作りの実態などについてトークがあった。
大内顕氏は8年間警視庁で会計をしていた。共謀罪が新設したら、警察こそ「共謀罪」で捕まる、といった話をしていた。警視庁は扱う裏金の額が大きい。ある程度下まで「恩恵」がいくので、内部告発がなされにくい。知らない間に「共犯」になっているから。
ジャーナリスト・津田哲也氏は、美声だった。警察はノルマ主義で、ノルマのために「事件」を作る。薬物犯罪、拳銃犯罪は、ノルマ達成のために警察がしょっちゅう自作自演している。日本は「お上」にたいへん協力的だ。わざわざスパイ工作する必要すらない。自主的にスパイを買って出る一般人がいるから。
橋玄・映画監督はポチの告白http://www.netcinema.tv/pochi/ という映画を撮影した。2006年春に公開される。撮影協力を千葉県我孫子市市長に頼んだ時、はじめ非常に乗り気だったが、警察批判映画だと内容説明したら協力拒否された。映倫は警視庁風紀課が元である。マスコミは警察の「ポチ」だ。警察は暴力装置だ。我々は警察に、税金で暴力を付託している。警察は「お客様」である民衆に還元をしなくてはならない。
大河原宗平氏は、元群馬県警警部補。警察現場には「ノルマ」がある。警察は犯罪元凶を断ってしまうと仕事がなくなってしまうから、故意に元凶に触らず、数だけ上げようとする。1995年に拳銃取締り摘発のヤラセが発覚したが、ヤラセは日常的だ。警察統計はヤラセによる嘘ばかりだ。拳銃取締りの数字も嘘だ。
ベンジャミン・フルフォード氏。右翼・警察・ヤクザが結託している。ドイツでは戦後、暴力市民集団・反共右翼集団を使って左翼を殺害する、ということが行なわれた。日本でも同じことが行なわれた。政治家は、8人くらい殺されている。マスコミはこれを公表することに不熱心だ。今のアメリカは、「反テロ戦争」を名乗り、ファシスト的な法律を各国に押し付けようとしている。「共謀罪」はその一つだ。アル・ゴアは最近「アメリカの民主主義が危機的な状況になっている」と発言した。アメリカの報道はこの発言を取り上げようとしない。アメリカは日本を、中国と戦争する時の部隊にしたがっている。

チェチェン紛争の市民団体から発言。ロシアは現在、KGBの力がすごく強い。現在の日本は、チェチェン紛争前のロシアにたいへん似ている。戦争をする時、色々な準備がなされる。ロシアでは紛争前に、テレビ人事に大統領が介入し、反政府活動は精神病院へ送られた。
ジャーナリスト・三宅勝久氏。武富士と警察の癒着を暴いたので、武富士から名誉毀損で一億円払え、と訴訟された。最高裁まで争い、やっと「払わなくていい」という判決を得た。「共謀罪」の国会審議をビデオで見たが、平沢勝栄だけ元気だった。野党反対質問の時、与党議員は次々退出し、平沢は寝ていた。ネットで見ることができるから、見てほしい。
なすび氏(ホームレス支援活動家。芸能人の「なすび」とは別人)。ホームレスを職安へ連れて行く、といった活動は公園で路上で行なわれる。これを「寄り合い」と言う。弱者には「寄り合い」が必要だ。共謀罪はそれをバラバラにする。
出版ネッツhttp://www.jca.apc.org/NETS/index.htmlから。国鉄民営化のとき「一人も路頭に迷わせない」と国会では言っていた(結果、それは守られなかった)。国旗国家法案のとき「強制はしない」と言っていた(これも結果、嘘になった)。消費税導入のとき「福祉目的だ」と言っていた(福祉には使われていない)。共謀罪に安心しろと言う意見は信じられない。

「4」の続き。活動を立ち上げることにはたいへんなエネルギーを必要とする。活動を継続することにもたいへんなエネルギーを必要とする。私は活動の「戦術」の批判をしたが、活動が立ち上がり、存在し、継続することがどれだけ重要なのかよく判っている。安易に活動の「批判」だけして何かことをなしたかのような錯覚に陥る人は、活動を立ち上げ運営する人々の無償の努力にただ乗りしているだけであることに気づくべきだ。気づけないなら豚以下である。批判をするなと言っているのではない。批判する以上に批判対象以上に活動しろと要求している。批評家よりプレーヤーのほうが少ないスポーツなどあっていいはずがない。そして日本の政治活動は、ルールは当然知らないし球を触ったこともないしまともにゲームを観戦したこともない素人評論家ばかり腐るほどいて、プレイヤーはぞっとするほど少数だ。プレイヤーになるのは少しもハードルが高くないのに。絵を生まれてから一度も描いたことがない人間は、根拠なく自分はダ・ヴィンチのような絵をたやすく描けるはずだ、と思っているものだ。幼児は空中ブランコに感動しないものだ。それがどれだけなしがたいことなのか理解していないから。プレイヤーの痛みに想像力が及ばないで、「安易な批判」に安住し、市民社会にただ乗りしている「ネット・ゾンビ」は死ね。
それとは別に、たしかにプレイヤーの巧拙というものはある。「シュプレヒコール」という言葉自体、実効性を考えるのなら問われるべきだ。「シュプレヒコール」はドイツ語由来で「スローガンを叫ぶ」という意味だが、知らねえっつうの。業界方言だっつうの。広く訴えることを目的とするのなら、その言語感覚をまず問うべきだっつうの。次に、「共謀罪」は右翼だって反対しているんだから、たしかに共謀罪反戦活動を抑圧し弾圧するために作られようとはしているんだが、それはいったん棚に上げて「シュプレヒコール」のとき「イラク自衛隊派兵反対」と唐突に言い出すのは避けるか、少なくともどう巧く言うべきなのか考えるのが戦術的には利口だ。何より、せっかくギターを奏でて参加しているプロ演奏者がいたのだから、その能力を最大限生かすべきだ。たいして人数の多くないデモで、演奏と「シュプレヒコール」が打ち消しあうのは、賢明ではない。そして絶対に、演奏のほうが訴える力が強い。悪い意味での「伝統芸」としての「シュプレヒコール」に安住することで、デモの効果が低減したと思う。

野田敬生氏のブログから。

http://espio.air-nifty.com/espio/2005/10/post_ab71.html
表現者」ならば「公安」に心の自由を譲り渡すな!
 末尾に掲げる写真は、表現者による10・22共謀罪反対イベントに現れた公安警察官たちである。一般的に言って、この種の市民集会に公安が現れることを指摘することについては、集会・デモ関係者の側でも一部反対する向きがある。公安と関わり合いになるぐらいなら参加は見合わせようという印象を与えて、結果的に運動をごく限定されたものに萎縮させてしまう、というのがその理由である。
 しかし、私見ではそれは現実を直視しない誤った考え方だと思う。公安がいることを指摘しようがしまいが、広く誰でも参加できる集会・デモであろうがなかろうが、公安は必ず出没するからである。
 この日のイベントは、表現者(ジャーナリスト、著述家、大手出版社編集者等を含む)が、これから共謀罪によって表現活動を監視・制約・弾圧されることに危機感を覚えて主催・参加しているものであるはずである。だとすれば、まず目の前の監視者に、もっと真剣な怒りを向けるべきだ。これが表現の自由に対する挑戦でなくて何なのだろうか。彼らは、いわば、「共謀罪」的な考え方を先取りしているのである。しかも、挑戦されているのは、他でもない「表現者」を名乗る者たちである。公安がいても違和感を感じなかったり、これを茶化したりして事足れりとしている時点で、自由の感覚が麻痺していると言わざるを得ない。一昔前なら、メディア関係者の集まりに公安が臨場していること自体が重大な社会問題になっていたことだろう。どうせ公開の集会・デモだし、情報を取っているだけだから捨て置けばよいというのは明らかに間違っている。単に集会場近くの場所を、彼らのほしいままに明け渡しているばかりでない。すなわち、心の自由を譲り渡しているのである。そういう監視者すら排除できないようでは、とうてい共謀罪を廃案に追い込むことなどできないだろう。
 彼らは「共同行動」のデモを調査するためだけに現場に現れていたのではない。以下のとおり、デモ出発後、打合せを行った後、そのうち少なくとも5名は宮下公園に残って「表現者」のパフォーマンスをウォッチしていたからである。以下の写真(いずれも公安警察官)のほかにも、筆者は相当数の不審者を特定したが誤爆を避けるために掲載は見送る。
 公安調査官は、もっと集会の内側でビデオカメラを回し、メモを取っていたというのが筆者の見立てである。その他、宮下公園等、集会・デモが頻繁に行われる場所の周囲の建物には監視アジトが設置されていることも十分予想されるし、ホームレスのテントを装ったり、あるいはテントを譲ってもらって、監視を行っていることなどもやはり十分にあり得る。当然、協力者の投入もある。好むと好まざるとに関わらず、これが監視社会の現実である。写真に現れているのはほんの一部の影に過ぎない。
■宮下公園横の陸橋から情報収集を行う公安警察官たち〔一部〕
 

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