カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

K・V・ウォルフレン語録/「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追従するのか」

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/1274/1044564957/l50

日本の知識人へ

日本の知識人へ

「読者へのメッセージ」

 「知識人になるのは、それほど難しくない。大卒の学士号が必要なわけでもなく、技術認定証や職業免許証も一切、いらないし、発表用の論文執筆も要求されない。ある程度の知力さえあればよく、肝心なのは、考える意欲。思考から得たアイディアは、もし変えたいと思う社会環境があるならば,、それを変えるために利用できる。思惟*1は、得がたい自由の感覚を味わわせてくれる。」
 「日本では、知識人がいちばん必要とされるときに、知識人らしく振舞う知識人がまことに少ないようである。これは痛ましいし、危険なことである。さらに、日本の国民にとっては悲しむべき事柄である。なぜなら、知識人の機能一つは、彼ら庶民の利益を守ることにあるからだ。」
「知識人として当然果たすべき役割を果たす知識人がいないかわりに、日本には沢山の学者、ジャーナリスト、ブンカジンがいて…それと知ってか知らずか…意図的な情報(プロパガンダ)を撒き散らしている。」(3p)

「なぜ日本の知識人はひたすら権力に追従するのか」

 「知識人というのは,博識である人とか、硬派ものの記事を書く人とか、大変な学識のある人とかとは違う。こうした人もおそらく知識人ではあろうが、しょせんは役人、もしくはジャーナリスト、もしくは学者でしかないのかもしれない。別の言い方をすれば、これらは真実の追究、あるいは客観的な理解の追及を,金銭とか安全保障とか相互扶助とかの追及より大切であると考えるとはかぎらない人々なのである。
 知的な誠実さを何よりも尊しとする姿勢こそ、知識人のきわだった特徴である。
 人が知識人であるためには、独立不羈の思索家(「考える人」全般)でなくてはならない。役人、ジャーナリスト、学者など、自分の頭を使って仕事をする人々も"知識人"たりえようけれど、これらの人はしばしば、この名称に値するほど知的に誠実ではないが普通だ。」(4p)
 「およそ知識人たるものは絶えず国民に権力の持つ危険を思い起こさせ、権力保持者をいつも緊張状態にさせておくことを自らの報酬なき職責と見なすべきである」(5p)
 「日本の権力保持者と、政治的役割を演じる重要諸制度との様々な組合せに見られる関係については、その現代の歴史と今日的諸問題という広大な分野が、一流学者によって研究されないままに放置されている。」
 「私は一部学者の鋭い分析に対しては、賞賛を惜しまない。
 だが、政治的な関心を持つほとんどの学者は、たんに政界の出来事を述べるにとどまり、暗に、もしくは公然と、権力保持者たちの行動や所関係を正当化してしまっている。」
 「これは警戒すべき状況である。
 もし日本の権力保持者たちがパワーエリートの外に立つ知識人によって自らの行動を何ら制約されることがなければ、彼らが究極的に全日本人を災難に追い込むコースに日本を近づけないでくれるとは信じられないからである。歴史は、そういう災難予測が当を得たものであることを示している。」(6p)
 「日本の新聞を綿密に調べてみれば、新聞はほとんど何も監視していないことがすぐにわかる。」
 「新聞は時折、社会問題とか社会的虐待を取り上げて報道し、それこそそこそこの反応はするだろう…たとえばサラ金とイジメが頭に浮かぶ。
 しかし、こういう場合でも、新聞は自らが批判する現象をより大きな視野のもとで全体的にとらえ、読者が因果関係をもっとよく理解できるようにすることはほとんどない。」
 「日本の新聞は日本の社会政治制度を監視するかわりに、読者から必要不可欠な情報を体系的に奪うことによって、現在進行形の出来事を不明瞭にする役割を演じている」(8-9p)
 「もちろん、日本にはきわめて真剣かつまっとうな文筆活動がないわけではない。」
 「しかし、結局はこれも、必要とされる幅広い政治監視であるとは言いがたい。」
 「しばしば、大胆で独創的な考え方に立脚して政治の因果関係を幅広く概観することよりは、さして重要でもない政治的兆候に近視眼的に関心が集中しがちである。」(10p)
 「監視らしい監視がないかわりに、我々には本質的に宣伝用の日本像が提示される。」
 「宣伝者たちは強大だ。おびただしい数に上るケンキュウカイは、その多くが多額の資金供与を受けていて、たとえば経済問題に関する情報を収集、分析するために、表面上は超党派の努力を傾けているが、その実、権力エリート層の目的にかなうレポートを次々に生み出している。」(11p)

ウォルフレンのこの文章は1989年に執筆された。日本の景気がまだよかった頃、日本国民と外国人に向けて、「美しいウソ」で固めた「日本文化論」を、「宣伝者」たちが「宣伝」していたことを、直接にはウォルフレンは指している。村上泰亮舛添要一などはウォルフレンのこの文章に反論し、ウォルフレンは同書で再反論している。
「日本文化論」は、日本が実際には資本主義体制・自由主義経済体制ではないという経済的事実・政治的事実を、「文化」論で隠蔽したものだ。80年代には大量にあった。舛添要一などはその最大級の戦犯の一人だ。
より深く長い射程で見ると、日本の戦後の「政治」に関わる言説は、そのほとんどが「宣伝」だ。

 「こういうことの背景にある原因を探ってみると、日本には二つの有害な伝統があって、これが日本の知識人の政治的未成熟を持続させる総体的な態度を形作っていることがわかるだろう。
 一つは、現行の社会管理システムなら、どんなものでも支持するという強い伝統であり、もう一つは、現在の支配的状況について何かをしでかそうとするのは子供じみている、と、潜在的な反抗分子(テイシデント)に悟らせる、これまた強力な伝統である。」(12p)
 「知識の領域で働く人々には、すばらしい利点がある。たとえどんなささやかな程度でも、とにかく世間に衝撃を与えるには、ペンもしくはワープロしか必要としない、という利点である。
 既成の秩序に反対するのは無分別であると前提してしまう日本の伝統は、こうした人々にそれを試みることさえ思いとどまらせる。」(13p)
 「現代日本の最も重要かつ最も高名な哲学者が、権力保持者に対する個人的感情がどんなものであったにせよ、政治的現実と対すると結局は知的臆病者でしかなかった、という事実は皮肉である。しかし、これはまことに大きな示唆に富む。
 彼は対立抗争 conflict (健全な政治システムにおいては、必要にして不可避の状況である)を非常に恐れていたので、各個の人間が社会生活の現実を完全に無視してしまいうる論理的根拠を構築したのだった。」(14p) 

これは、直接には、西田幾多郎と京都学派を批判した文だ。
http://dic.lycos.co.jp/ecp/result.html?query=%90%BC%93c%8A%F4%91%BD%98Y&id=0017375100&encoding=shift-jis&th=1&th=1
だが、個別の人物への批判だと矮小化するべきではなく、「対立を過度に隠蔽したがる思考法、政治と対峙する際に知的臆病者になってしまう態度」への批判に注目するべきだ。

 「知識人は、権力保持者が何よりもまず国家利益のために活動する、とは決して信じてはならない。」
 「あらゆる種類の権力保持者の中では、官僚こそ、いつ、どこにおいても、最大の疑念をもって見守られなくてはならない。なぜなら、彼らの行うことの多くが容易に目につかないからである。」
 「日本の官僚の地位は異例とも言えるほどのものだ。彼らは、他の先進工業国の官僚よりも強大な権力を保持しており、しかも、そうした権力を制限する制度的規定面で日本ははるかに遅れを取っている。
 「経団連とか日経連といった、日本の経済団体で活動する有力な人々も、私の考えでは官僚である。こういう人々は利益を稼ぎ出すことではなく、統制すること reguration を仕事としており、これを企業家と呼ぶのは確かに間違いだ。」(18-19p)
 「よりよい人生を生きるために、あなたは日本の変革に手を貸すべきだ。」
 「日本の変革を構想するにあたって、いくつかの概念 concept を学ぶことが、大いにあなたの役に立つ。」
 「その一つが、『市民の立場 citizenship 』という概念だ。
 『市民 citizen*2』『臣民 subject 』『国民 national 』という三つの概念はしばしば混同されるため、多くの人が同じ意味だと思っている。しかし、『市民』には、たまたま生まれ合わせた国の名を表示し、外国に行くときパスポートに記される『国籍 nationality 』と同根の『国民』という言葉より、もっと深い意味がある。また、『市民』には、政府や君主に服従する『臣民 subject 』とは、まるでちがった意味がある。
 市民とは政治的な主体だ。市民とは身のまわりの世界がどう組織されているかに自分たちの生活がかかっている、と、折にふれ、みずからに言いきかせる人間だ。」
 「市民はつねに、社会における自分たちの運命について、もっと理解を深めようと努める。市民は、ときに不正に対して憤り、自分でなんとかしたいと思い立って、社会問題にみずから深く関わっていく。消極性は市民の立場 citizenship の死を意味するのだ。」(17-18p)
 「われわれがもっと活用すべきもう一つの概念 concept を紹介する。
 『偽りのリアリティ false reality 』という概念である。
 これは、ものごとを解釈しようとするときにはいつでも生じうる単なる誤解のことではない。うっかり誤解したのであれば、すぐにでも正しい解釈に変えることができる。私が言う『偽りのリアリティ』にはもっとずっと根が深くて気づきにくい性質がある。それは自体の誤った説明がつづくかぎり存在しつづける『現実』なのだ。
 偽りのリアリティは、大多数の人に、たいへんもっともらしく見える。一見つじつまが合っていると思わせるからだ。独裁国家全体主義国家は、つね日頃から一連の思想を入念に創作し、それが同時に、偽りのリアリティをかたちづくっている。そして、その偽りのリアリティが、今度は、独裁制全体主義のシステムを支える基盤となる。北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)では、人々はそこが労働者の天国だと絶えず教え込まれている。ソ連の被支配者 subject たちは、最後まで、そこが世界で最も進んだ福祉国家だと聞かされていた。
 日本は独裁国家でも全体主義国家でもない。しかし、偽りのリアリティという幻想が、政治・経済問題に絡み、日本のいたるところで深く根を下ろしている。
 日本の民主主義 democracy はまだ実現していない。それは可能性 potential にとどまっている。
 そして、人々が常時頭のなかに居座らせつづけている、この私の言う偽りのリアリティこそが、おそらく日本の民主主義実現への最大の障害物になっている。」(19-20p)
 「知は力なり…これは多くの文化圏で理解されている。もしあなたがものごとの仕組みを知っており、いま何が起きているかも知っていれば、他人への依存からあなたをより自由にするこの真理を、すぐにも行動で実証できる。逆もまた真なり。つまり、無知は無力なり。
 もし、あなたのまわりの世界がどんな仕組みで動いているのか知らなければ、あなたはそれだけ犠牲者にされやすい。明らかに、正確な情報を多くもっている人は、対人関係で格段に有利な立場に立てる…反対に、知識が極端に少なかったり、誤った知識しかなければ、その人は格段に不利になる。
 もう一つ、はっきりしていることがある。知識の少ない個人は、社会的に上位にある者から、より簡単にコントロールされやすい。」(21p)

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*1:「思惟」しゆい、しい 心で深く考えること。対象を分別すること。

*2: citizenship:市民精神、市民権、公民権、公民の資格