カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

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入試と科挙

入試と科挙

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060123#1137988243《「一斉入試」という、日本特有(東アジア特有)の因習》の続き。
「入試制度」自体が「科挙」の伝統を引いた日本特有(東アジア特有)の因習だ、ということは、鶴見俊輔の『戦時期日本の精神史』で知った。

この入学試験制度というものは、もともとは中国の試験制度を真似て日本でつくられたものです。〔「転向について」16p〕

明治以後、〔略〕すべての学校の頂点に東京帝国大学をおき、何度かにわたる選抜試験を通り抜けさえすれば、国民の誰でもがそこに入学できる望みをもてるものとしました。〔略〕
ロナルド・ドーアが『学歴社会』(1976年、邦訳1978年)で書いているように、日本の政府の役人は、1880年に早くも試験制度によって選ばれるようになっていました。その頃には東京帝国大学法学部の卒業生たちはこの試験を免除されており、履歴のそもそものはじめから官吏として高い役職に登る保証を得ていました。そういう制度は産業にも影響をもちました。1910年までに政府のものではない私企業のきわめて多くが、大学卒業者からのみ新入社員を採るという習慣をもつに至っています。新聞社もまたこの習慣に従うようになりました。この点で日本は、産業革命の発祥の地であるイギリスよりも先進国となりました。〔略〕
日露戦争終結以後に始まった時代以来、日本の官僚、産業界、報道企業の諸領域において、その指導層は大学卒業者によって占められ、その中心は東京帝国大学法学部の卒業生でした。この事情は1931年に始まる十五年戦争の敗北によっても変らず、その後の米軍による日本占領によっても変りませんでした。〔「転向について」17-18p〕

以下は歴史学者山田朗(あきら)先生から教わった知識なのだけど、現在に至る官僚制・キャリア制度(入社・入省時点で出世の限界があらかじめ決まっているアホな制度)は日露戦争後に完成したのだそうだ。
鶴見俊輔は「明治半ばからつくられた〔略〕入学試験制度に基づく身分制度」という言葉を用いている。「キャリア制度」は十五年戦争と敗戦という、これ以上ない亡国を招いたのだが、戦後も相変わらず続き、現在も亡国を招いている。日本人は決して歴史から学ばない。
今朝は今年最大級の大寒波が襲うそうだから、公共交通にも支障が発生するだろうし、過労している受験生は心発作起こしたりすることもあるだろうが、それでも日本行政はこの時期に一斉入試を行なわせ続けるわけですね。この一斉入試制度で成功した人しか行政には携わらないのだから、この制度の不合理性は永続してしまうのかな。その渦中にいるときには、皆が不合理性に憤っていたはずなんだが。

十五年戦争

十五年戦争」という言葉を初めて用いたのは、やはり鶴見俊輔である。以下に引用する。

〔略〕歴史の区分として、私たちはここで第二次世界大戦の始まりを一九三一年に起こった中日戦争の開始と考えます。日本の陸軍指導者が一九三一年に中国の満州で戦闘を起こし、さらに進んでこの地域に日本軍の自由にできる政権を打ち立てたとき、この方法は世界にとって新しいものでした。それはそののちにイタリアのムッソリーニと、ドイツのヒットラーによって真似されました。中国東北地区に一九三一年に始まった中日戦争は、ひとつの新しい傾向の始まりとして、世界全体に影響を与えました。このようにして一九三一年から四五年にかけて日本の、世界にとっての地方史ともいうべき歴史は、日本史と世界史とを二〇世紀においてつなぐひとつの結び目となりました。〔4p〕
〔原注〕
私〔鶴見俊輔〕のこどもの頃、満州事変が始まった、日支事変が始まった、上海事変が始まった、大東亜戦争が始まったというように、ばらばらに、ニュースが伝わってきた。そのために、主観の側からとらえると、それぞれバラバラの戦闘行為がおこったようにうけとってきた。それでは変だと思うようになったのは、敗戦後のことで、ひと続きのものとしてとらえるほうが事実に(私の意識上の事実ではなく)あっていると思うようになった。
そのように考えているところに、小さなことをとり上げて恐縮なのだが、当時の圧倒的ベストセラーとなった遠山茂樹今井清一藤原彰『昭和史』(岩波新書、1955年)の帯に、われわれはわずか三〇年の間に二度の戦争を体験したと書いてあったので、昭和史のとらえかたとしてこれでは困ると思った。この『昭和史』の内容ではなく、帯についての批判を、「日本知識人のアメリカ像」(『中央公論』一九五六年七月号)に書いて、一九三一年から四五年にわたる戦争を一つのものとして名づける方法を現代史にのぞみたいと述べた。
十五年戦争」という呼び名を自分で考えたのは、シグムント・ノイマン(1904-1956年)が三十年戦争という言葉を二つの世界大戦の合間の期間をふくめて使っているのに示唆を受けたからである。「十五年戦争」という言葉は、いくらか使う人がいるようになった。家永三郎『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)は、序文に記してあるように、十五年戦争という区切り方をとっている。
なぜ十五年戦争と呼ぶかというと、「日本知識人のアメリカ像」で書いたように、太平洋戦争あるいは大東亜戦争をアメリカに対する戦争とみなして、この部分はまずかったというふうにとらえる戦争観では、この戦争の構造をとらえることができないと思うからだ。これでは、日本人にとっての戦争の責任がぼかされてしまう。
いま調べてみると、「十五年戦争」という言葉をはじめて使ったのは、「知識人の戦争責任」(『中央公論』一九五六年一月号)で、その発想のもとを説明したのが、そのあとの「日本知識人のアメリカ像」(『中央公論』一九五六年七月号)だった。〔10-11p〕

戦時期日本の精神史―1931‐1945年 (岩波現代文庫)
あれ? 『戦時期日本の精神史』、amazonだと文字化けしてる?
ところで、鶴見俊輔の『転向論』が長いこと絶版であるのはどういうことなんだろうか。そろそろ再版してほしい。

ぽちっとな 

戦時期日本の精神史―1931‐1945年 (岩波現代文庫)

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太平洋戦争 (岩波現代文庫―学術)

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