カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

ゴジラの侵入ルート

ゴジラの侵入ルート

トラカレhttp://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20060211経由。木走日記から。

http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20060210/1139557622
ゴジラが皇居を襲わなかった本当の理由〜何もわかっちゃいない産経コラム
●初代ゴジラが皇居を襲わなかったのは「タブーを守る」からじゃ断じてない〜そこには時代の必然があったのだ!!
 〔略〕そんなタブーなど、日本の大新聞が商業的にかかえている、絶対踏み込まない報道のタブー(特定宗教団体や政治家と暴力団関係の報道)と同じぐらいのもんでしょう。〔略〕第一作の初代ゴジラが皇居を襲わなかったのは、だんじてそんなやわなタブーが理由ではありません。
ゴジラが皇居を襲わなかった本当の理由〜ゴジラの侵入ルートには、とても深い時代的必然性があったのだ
 〔ゴジラの侵入ルートは〕東京大空襲のときのアメリカの爆撃機B29の大編隊の侵入ルートそのままの再現なのです。〔略〕 当時のアメリカが能力的には十分可能でありながら、戦後処理も睨んで戦略的に意図して皇居を空襲の対象にしていなかったのは有名な話であります。東京大空襲のときも皇居は空襲をまぬがれています。ですから、映画の中でB29の進路を忠実にたどって東京を破壊していったゴジラが皇居を襲わなかったのは、当然なのであります。

東京大空襲の恣意性

以下、ジョン・ダワ―『敗北を抱きしめて』上巻から。

 〔略〕アメリカの空襲のやりかたに特異な傾向があったことも見て取れた。たとえば、首都のなかでも貧民層の住居や小規模な商店街や町工場は徹底的に破壊されていたのに、高級住宅街の金持ちの家は多くが焼けずに残っており、占領軍の将校たちを収容するのにおあつらえむきになっていた。〔略〕被害を受けなかったといえば、戦争末期に日本の軍部の司令部の大部分が置かれていた建物もそうであった。まるでセンスのいい皮肉のように、やがて勝者たちは、戦争の最高指導者たちを戦犯として裁く裁判所として、この建物をあてた。〔略〕アメリカの空襲は、日本に存在する富の上下関係をそのまま肯定したかのようであった。
  出典;ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて・上巻』(岩波書店、2001年)41p。

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

関連 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050217#1108587675

放射能

ところで、第一作ゴジラが撮影されたきっかけは第五福竜丸事件で、第五福竜丸事件が報道されるまで、日本国内ですら広島・長崎の原爆被害について語ることはタブーだった。だから当時は広島・長崎の原爆被害・原爆後遺症について知っている日本人はごく少数だった。アメリカでは今でも放射能後遺症について知る人間は軍関係者であってすら少数派だ。核戦略を練っている人間ですら放射能後遺症についてよく判ってなかったりする。
そして日本の売国勢力はそういうアメリカの「核の専門家」たちの尻馬に乗り、CIAの犬として戦後日本を統治し続けた。岸信介のことだ。
関連 「売国集団」http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060212#1139757634

補足

一九四五−一九四六年ごろの日本について。

日本軍の集団としてのまとまりや規律は、軍部がくりかえし宣伝した「忠」とか「和」とかいった理念の上にではなく、実は上から抑圧を強制していく権威的な仕組みの上に築かれていた。〔略〕
降伏後、こうした感情は、はじめて公然と表現された。一九四六年五月、ある復員軍人は〔略〕『朝日新聞』に、苦悩に満ちた典型的な投書をした。それは、自分と戦友たちが南太平洋の島〔南鳥島〕で耐えなければならなかった「飢餓の地獄絵図」と、上官たちから受けた虐待に関するものであった。それによると、将校よりも兵隊の餓死率がはるかに高かったといい、自軍の指揮官たちの暴虐によって殺された戦友たちの霊を、どう慰めたらいいのかと問いかけていた。昔の侍の言葉に、敵を「冥土の土産にする」というのがある。これは自分が死ぬときは敵を道連れにするという意味であったが、自分の戦友たちは、いざ玉砕のおりには敵ではなくて上官の一人を冥土の土産に連れていくつもりであったと述べている。〔原注;朝日新聞社編『声』第一巻(一九四五−一九四七年)朝日文庫、一九八四年、一八二頁。〕
その数ヶ月あと、『朝日新聞』が、虐待をおこなった将校にたいして、降伏後に部下が「リンチを加え」て殺したと報じたところ、読者から一八通の反応があった。二通をのぞいて、みな将校殺害を支持する手紙であり、あわせて自分が体験した将校たちの野蛮さと腐敗ぶりを説明していた。たとえば、朝鮮で従軍していたある兵隊は、現地の将校たちの女遊びと飲酒について語っている。〔略〕
日本の降伏の前には考えられなかったこうした実態暴露は、「一億一心」なる戦争中の宣伝が、たわ言にすぎなかったことを白日の下にさらした。(55p-57p)

司法制度は、とるにたりない経済犯罪のかどで年間一〇〇万人以上の庶民を被告席につける一方、模様眺めの資本家、腐敗した政治家、暴力団の組長たちが社会を牛耳り、闇経済で一番甘い汁を吸いながら、完全に自由の身のままであった。(132p)
後日行なわれた調査記録を読むと、影響力をもつ人々の非常に多数が、天皇の放送が行なわれた後の二週間の混沌の間に軍の倉庫から勝手に物資を持ち出し、軍事予算や日本銀行から急いで代金を支払ってもらえるよう軍需業者や旧友のために手を打ったり書類を破棄することに、目が覚めている時間のほとんどをあてていたとの印象は拭えない。日本史上最大の危機のただ中にあって、一般大衆の複利のために献身しようという誠実で先見性ある軍人、政治家、官僚はほとんどいなかった。旧エリートからは、賢人も英雄も立派な政治家も、ただの一人も出現しなかったのである。
その後の調査によれば、帝国陸海軍が保有していた全資産のおよそ七〇%が、この戦後最初の略奪の狂乱のなかで処分された。もともとこれは、本土約五〇〇万人と海外三〇〇万人余りの兵士のためのものであった。だが、話はこれで終わったわけではなかった。降伏から数ヵ月後、占領軍当局は、それまで手付かずできちんと管理されていた軍の資材の大半を、公共の福祉と経済復興に使用せよとの指示をつけて、うかつにも日本政府に譲渡してしまったのである。これら物資の大半は、建築資材と機械類であり、内務省は財閥系企業の五人の代表からなる委員会にその処分を委任した。その総価値はおよそ一〇〇〇億円と見積もられたが、これらの資材もすぐにほとんど跡形もなく消えうせた。(133-134p)
  出典;ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて・上巻』(岩波書店、2001年)

ぽちっとな