カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

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昭和天皇の軍事責任

山田朗(あきら)『歴史修正主義の克服』から。

天皇が、大日本帝国の元首として、帝国陸海軍の大元帥として国家意思形成にどのようにかかわったのか。とりわけ、天皇の戦争にたいする主体的取り組みを明らかにする研究はすでに相当の蓄積がある。〔略〕
これらの研究の蓄積・進展によって、天皇の「実態」からする《戦争責任》否定論は、すくなくとも学説レベルでは、かなり克服されたといってよい。〔略〕昭和天皇は、国家意思形成、とりわけ軍事戦略・作戦の決定に際して、しばしば重大な役割を果たしてきた。昭和天皇は、軍部から量・質ともに当時としては最高レベルの軍事情報を提供されていたし、その情報が意味することを理解し、軍がとるべき手段について独自に検討する知識と能力を有していたことは確かである。国家意思の発動、とりわけ軍の機関意思の発動としての戦略・作戦の決定に、天皇は随所でさまざまなレベルの影響を与えた。
昭和天皇は、十五年戦争の期間に、大元帥としての自覚と能力をしだいに高めつつ、軍部が提供する軍事情報とみずからの戦略判断を基礎に、「御下問」(質問)や「御言葉」(意見表明)を通じて国家意思(戦争指導・作戦指導)に深くかかわった。天皇は戦略や作戦について、統帥部の方針や具体化の方法を無条件で認めていたわけではない。たとえば、次の事例において大元帥としての昭和天皇の発言は、国家意思、すなわち作戦計画あるいは具体的な作戦内容を左右する影響を与えたといえる。
1 関東軍の熱河侵攻作戦の一時差し止め(一九三三年)
2 二・二六事件における反乱軍の武力鎮圧方針の決定と鎮圧督促(一九三六年)
3 日中戦争初期の兵力増強、戦略爆撃実施方針の決定(一九三七年)
4 張鼓峰事件における武力行使の一時差し止め(一九三八年)
5 昭和一四年度帝国海軍作戦計画の修正要求(一九三九年)
6 宜昌再確保への作戦転換(一九四〇年)
7 フィリピン・バターン要塞への早期攻撃の督促(一九四二年)
8 重慶攻略の方針の決定と取りやめ(同年)
9 ガダルカナルをめぐる攻防戦における陸軍航空隊進出の督促(同年)
10 ガダルカナル撤退後におけるニューギニアでの新たな抗生の要求(一九四二〜四三年)
11 中部ソロモン放棄論への批判(一九四三年)
12 アッツ島「玉砕」後における海上決戦の度重なる要求と海軍の消極的姿勢への激しい叱責(同年)
13 陸軍のニューギニアでの航空戦を慫慂(同年)
14 絶対国防圏設定後の攻勢防御の要求(ブラウン奇襲後の軍令部の指示など、一九四三〜四四年)
15 サイパン奪回計画立案の要求(一九四四年)
16 沖縄戦における攻勢作戦の要求(一九四五年)
17 朝鮮軍の関東軍への編入拒否(同年)
〔略〕天皇は広義《戦争責任》における《個人責任》を負いつつ、《国家責任》の成立に重大な役割を果たしたといえる。また、二・二六事件や一九四五年八月九〜一〇日・一四日の御前会議(いわゆる「終戦の聖断」)などの事例に見られるように、通常の国家意思決定システムが不完全にしか機能しない時に、天皇という機関が国家意思の最終決定システムとしての役割を果たした。これは、明治憲法体制のもとで、天皇という機関こそが、最終・最強の危機管理システムであったことも示している。
すでに、天皇の「実態」からする《戦争責任》否定論の破綻は明らかであると思われるが、天皇の《個人責任》とは、機関としての天皇と個人としての天皇が同一人格のなかで一体化しているため、それは複合的な内容をもっている。つまり、天皇の《戦争責任》=《個人責任》とは、
1 国務と統帥(軍事)を統轄できるただ一人の責任者としての責任
2 唯一の大本営命令(軍事命令)の発令者としての責任
3 統帥権の実際の行使者としての責任(統帥部を激励あるいは叱責して積極作戦を要求したり、「御下問」「御言葉」を通して作戦を督促して、現実の作戦指導・戦争指導をおこなったことにともなう責任)
などから構成される。そして天皇の《戦争責任》=《個人責任》は、まさに国家の《戦争責任》=《国家責任》を明らかにする上で、不可欠の構成要素である。つまり、天皇の《戦争責任》をあいまいにすることは、国家の《戦争責任》をうやむやにすることに直接つながるのである。(180-190p)

歴史修正主義の克服―ゆがめられた“戦争論”を問う

歴史修正主義の克服―ゆがめられた“戦争論”を問う

[02/15 03:37]
昭和天皇の軍事的責任を研究した本としては、たとえば以下がある。

大元帥・昭和天皇

大元帥・昭和天皇

昭和天皇の軍事思想と戦略

昭和天皇の軍事思想と戦略

ぽちっとな