カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「左翼的コミュニケーション」

以下のURLをブックマークした。
 ■[memo]ネット時代の左翼クロニクル。http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20060401/1143860017
この人↑は95年に大学に入ったのだから、私よりだいぶ若い人だ。

少なくとも95年から数年間の間というのは、左翼がネットについてあれこれ期待を膨らませることのできた時代だったのだと思う。

まあ、そうかな、とは思う。

左翼のコミュニケーションは主に「共感」「糾弾」「シュプレヒコール〔原注;またはスローガン〕」の三つに集約されるが、webのようなインタラクティブな空間でその三点セットに基づくコミュニケーションを開始しようとしても、そんな奇特なコミュニケーションを好む人間というのは、稀なのだ。〔略〕左翼のコミュニケーションのスタイルは、一般の人々のコミュニケーションスタイルとはあまりにも異なりすぎていたのだが、多くの左翼はスタイルを変更することをせず、むしろ自分たちのスタイルこそが倫理的に「あるべき」コミュニケーションのスタイルなのだと思い込んだ。そして人はますます離れていった。

ほー、へー、と思った。「共感」「糾弾」「シュプレヒコール〔スローガン〕」というのは、戦中日本の扇動者たち(新聞含む)のコミュニケーション(プロパガンダ)と同じだね。
旧来の「党派左翼」とは私はほとんど縁がないのだけど、「党派左翼」や「旧・新左翼」との間に私が乖離と断絶を感じるのは、彼らは「共感」を(無邪気に・素朴に)前提している、という点だ。

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左翼のコミュニケーションは主に「共感」

というところまで初めて読んだとき、私は正直言ってギョッとした。「旧・新左翼」や「党派左翼」ならびに労組共同体・会社共同体というのは、50−70年代(特に高度経済成長期)に村落から都市への人口流動があり、都市で再構成された「村落共同体」だった、という解釈がある。再構成されたムラの中での振る舞い(「コミュニケーション」)と、ムラの外とのコミュニケーションの区別がつかない、というのがこれらの人びとの特徴なのだろうね。
「近代化」は集約された労働人口を欲するので、農村から都市への人口移動は戦前からもあり、それが戦前の「新興宗教ブーム」を生み「新興宗教(村落)共同体」を生んだ。戦後も上記共同体生誕・伸張と相前後して「新新宗教ブーム」があり、「新新宗教(村落)共同体」が生まれた。
これらは「振る舞い」と発想において、「村落共同体」的共通項がある。
村落共同体的コミュニケーションは、内部に対してはテレパシーを要求する。言い換えると前提が似通っているから、前提の確認を省略可能である。これを(村落的)「共感」と仮に呼んでおく。これを別な言い方にすると、自他の区別がつかない状態を温存する。
村落共同体的コミュニケーションは、外部に対してもテレパシーを要求をするが、外部は当然に前提が異なるのでその要求は撥ねつけられる。(村落的)「共感」が成立しない。他者に直面する。
本来の「コミュニケーション」とは、「前提を異にする他者との対話」「前提を異にする他者との間に普遍的妥当性を探ること」を指すのだが、村落共同体的コミュニケーションは「普遍」への意志を欠くので、「本来のコミュニケーション」を放棄して、引き篭もりになる。
かくて「左翼」は引き篭もりになった。しかしですね、「本来のコミュニケーション」への意志を欠くのは「左翼」なんていう「思想」を名乗るのもおこがましい自己満足・ままごとですよ。と思った。

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世の中にいるのは「右翼」と「左翼」などでは決してなく*1、「人間が練れている人物」と「人間が練れていない人物」だ。「人間が練れていない人物」は「思想」なんてそもそも持っていない。持っているかのようなつもりになっているだけだ。

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ついでに書くと、「思想」と「趣味」はほぼ同機能であるから、真に「思想」を持っていると呼べるのは、一芸を極めている趣味人、別な呼び方をすればオタクのみである。

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ブックマークへは私は以下のようにメモをした。

言葉の能力の低い左翼。「運動」はマトモな人から脱落する傾向があるので、「方言」しか喋れない依存性の高いバカだけが残り、彼らは無能(俺、毒吐きまくり)

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以前、私は以下の記事を書いた。
■[思惟]ネットと「ムラ社会http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050227#1109452100
この記事に対し「ネット社会を理想視しすぎている」という感想をもらった。その読解は全然違う。
都市のコミュニケーション(作法)は前提を欠いた他者を相手にするのであり、都市で、「前提を多数共有している」「前提省略可能な」村落共同体コミュニケーション作法で振舞おうとするのは「厨房」である、というのが主旨である。都市のコミュニケーションは村落的な温かさはないのだ。都市コミュニケーションで情緒共有を求めるのは、異様なのだ(見知らぬ酔っ払いがクダを巻くのと同様に)。
都市コミュニケーション、つまり見知らぬ他者・前提を共有しない他者とのコミュニケーションは、理性と道理を介して行うのが最も効率的である。
逆に、故意に都市において村落的コミュニケーションを仕掛けてくるのは、「厨房」でないのなら、しばしば詐欺師である。

ぽちっとな 

*1:言うまでもないんだが、冷戦に最適化した日本の「右翼」「左翼」なんて言葉は、現在では本来無効である。なぜか「左翼」を仮想敵とする異様なイデオロギー集団がwebにはいるけど。異様だから私は観察と分析を続けている。そして彼らが「左翼嫌い」という「村落共同体的振る舞い」を続ける限り、私は左翼であると自称する。