カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「見守る」ことの大切さ/樺美智子、「声なき声」の会

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060913#1158099744■[読書][現代史][安倍晋三]岸信介と60年安保闘争小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』 の続き。岸信介内閣と暴力。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061025#1161716882■[安倍晋三]安晋会耐震偽装関係、メモ  で、「見守ることは大事」と述べた根拠を以下に記す。
季刊『運動〈経験〉』2003年夏/秋号(軌跡社)65p〜72pに、天野恵一(あまの・やすかず)による書評がある。そこから以下引用する。重引だらけになるが、容赦いただきたい。
天野が書評しているのは、小林トミ『「声なき声」をきけ―反戦市民運動の原点』(同時代社、2003年)http://www.amazon.co.jp/gp/product/4886835015 http://www.doujidaisya.co.jp/

「声なき声の会」は個人の声を持続的に交流させる運動であった〔略〕。
〔略〕六〇年安保闘争の中で活動は始まった。〔略〕「〔略〕岸首相の言葉を逆手にとって利用することにした。岸首相が『私は「声なき声」にも耳を傾けなければならないと思う。いまあるのは「声ある声」だけだ』と述べたので『声なき声の会』とすることにした。〔略〕」
〔略〕六月一五日の件については、このように書かれている。
「〔略〕昼間、国会請願所の前で、キリスト者のグループや新劇の人たちのデモに右翼がなぐりこみ、怪我人が多く出たという情報が伝わった。〔略〕/坂の上から、学生たちの長いデモ隊が無言で走り去る。〔略〕国会に近づくと、警官の姿が多く、パトカーや救急車の動きがあわただしく、不穏な空気がただよっている。〔略〕/その時、学生が駆けてきて、『このまま学生を見守ってほしい』と呼びかける。〔略〕学生は、デモ隊が右翼に襲われたといい、警官は見ているだけだったともいった。また、南通用門でデモ隊が警官隊に襲われ、多くの怪我人が出て、救急車で運ばれている、といった。血のにじんだ包帯をまいた学生もいる。〔略〕血のにじんだ包帯を見ながら、実の引きしまる思いがする。しかし、デモ参加者には子供づれが多い。〔略〕不安を感じるらしく、泣き出す子供もいる。私〔小林トミ〕は、どうしたらよいかを考える。南通用門を見ると、暗くて不穏な感じがする。/デモのリーダーをしていた大野力さんは『我々のデモは年寄りから子どもまでいるので、ここにとどまらずに、ここで聞いた話や、この事態を、職場や近所の人たちに伝える立場をとろう』といった。学生はとどまるように呼びかけたが、『声なき声』のデモは、そのまま解散地へ向かった。/東京駅の八重洲口についたのは夜の十時。電光ニュースで全学連主流派が国会構内に突入、警官隊との衝突で女子学生一人が死亡したことを知った。国会を離れたことに悔いが残る。〔略〕」
小林たちに、毎年六・一五集会を持たせ、死んだ女子学生の追悼を持続させたのは、この時の「見守る」ことすらできなかったという「悔い」であり「負い目」の意識であったのだろう。
この権力の暴力と直接ぶつかっている人々を「見守る」ことの大切さは、本書で、いろいろな局面で繰り返し強調されている。〔略〕
私〔天野恵一〕は〔略〕六〇年安保闘争の時の六月一五日の右翼や警官の暴力が、どういうものであったかを具体的に調べる必要を感じ、『世界』の一九六〇年の八月号を本棚から引っぱりだして読んでみた。
〔略〕写真も豊富に収められており、暴行の被害者の証言がいくつも収められている。右翼のなぐりこみを見てみぬふりをしている警察官が国会構内に入った素手の学生たちを警棒と靴でメッタ打ちにし、手錠をかけたまま引きずりまわす、すさまじい暴行への怒りの抗議文が、ならんでいる。
この暴行の渦の中で女子学生(樺美智子)は命を落としたのだ。一つだけ引こう。
東大の四年生(当時)内藤国夫の「何が樺さんを殺したのか」は、こう語っている。
「〔略〕前の方の百名余の学生は我我の方に帰ることも出来ずに警官の警棒と靴とで、めった打ちにあっていた。何人かの学生が血をふいて泥の上にぶったおれた。そして警官に足げにされていた。僕達は見ていられなくなって、又もやスクラムも整わぬ中に飛び出していった。〔略〕そしてめった打ちにあった。何人かの学生がドロマミレになってのたうち、暫くして動かなくなった。樺さんもその中の一人だったのだ。」
暴行の現場を具体的に確認したのは、次のような主張を眼にしたからでもあった。
「六〇年安保の時、全学連の国会突入で樺美智子さんが死んでいますけど、西部邁さんは、『いや、あれは多分、恐怖にかられて逃げまどった我々が踏みつぶしてしまった』と言っています。それも権力にやられたということになる。」〔略〕
『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』(太田出版、二〇〇一年)の中の二人のインタビュアー(荒井晴彦と絓秀実)のやりとりである。
警官に遮断され包囲され、メッタ打ちにされた学生たちが逃げまどったのは事実であろう。しかし、この局面を警察官の集中的な暴行という決定的な要素を排除して、こんなふうに論じてみせるのは、インチキがすぎよう。この内藤の「何が樺さんを殺したか」でも、このように書かれている。
「雨の降る中で、僕達は四時半頃迄、京大の北小路君や東大の西部君の話を聞いていた」。「全学連」(主流派)のリーダーの一人であった西部が、この場所にいたことはまちがいあるまい。しかし彼は、今はすでに殴りこんだ右翼のような天皇主義者になっており、日本の核武装の必要を説く国家主義者として発言している人物である。殴られた学生の位置から殴りかかる権力の位置に自分の身をうつしてしまっているのだ。だから、こんな証言ができるのである。それを、あたりまえの事実のように引いてみせる両者の気がしれない〔略〕。
歴史はつくりかえられる、時にはその歴史を担った当事者たちによっても。だから私たちは忘れないことはもとより、事実を歴史的に直視する作業をくりかえし持続しなければならないのだ。〔略〕

この樺美智子殺害の直接の目撃者はいないようで、そのため、それを語るものに忸怩たる感情を湧かせる。我々は、自らが活動できないときは、せめて「見守る」役割を引き受けようとするべきだろう。それすら、なかなかできないことではあるけど。「見守る」ことの意義はたいへんに大きい。
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