カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「初詣」/非理性的思想

1

塾の仕事がほとんど無休状態だったので、ご先祖の鎌倉権五郎神社への初詣が延び延びになっていた。2/16、高校受験の生徒の入試応援へ行った後、お参りに行った。今年、中学入試の私の生徒たちの結果がたいへん良かったのはご先祖のお守りを渡していたからかもしれない、と思い、都立入試の生徒たちのためにお守りを購入した。高校入試のほうはまだあまりいい結果になっていない。その朝入試応援した生徒たちは、その高校を受験するのはいずれも二回目だった。初回には全員落ちた。それもあって、生徒の合格祈願をした。す、と風が吹いた。あ、受かったかな、と思った。
バレンタインチョコをくれてくれた良い子たちへの返礼品も鎌倉でついでに購入した。
翌日、登塾前に守護神の神社のほうへお参りした。御幣(紙垂)が悦ばしげにひらめいていた。受かったな、と思った。登塾すると、4人中3人が合格していた。きっとただの偶然なのだろう。

2

霊的思考法をするようになったのは、安倍晋三という低能を持ち上げる気色悪い連中が霊的思考法をしているらしいと観察して以降だ。とくに「偽ブルーリボン」はかなり露骨な霊的闘争だと私は感じた。http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/news/535/1036155198/ 「シンボル操作」という言い方をしてもいいけど。安倍晋三を支えている宗教右翼・カルトの教義はオカルティズムであり、カルト信者・オカルティストは、自分は「隠された真理(オカルト)」を知っているから、「敵」より優位にある、と自己規定しがちなものだ。オカルティズム(非理性的思想)にはオカルティズム内部の論理と伝統慣習がある。オカルティストの主観的勝利感覚を崩すには、内部論理を用いた闘争法対抗法は有益だ。非理性的思想に関しては当方にも多少の心得がある。というより非理性的思想については当方はそれなりにマニアだ。少なくとも凡百なカルト信者の100倍程度は。霊的思考法はシミュレートできる。生活で非理性的思想を実践したらそれこそ非理性的だが、政治的に有効であるのなら実践も行う。
さて、非理性的思想・霊的思考法で安倍晋三との因縁を見ると、千年前からの奇縁が見えてくる。http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060904#1157305253 安倍一族との因縁として、奥州という土地がここに浮上する。非理性的思想・霊的思考を敷衍すると、現在民主党の党首である小沢一郎岩手県人であり、奥州の地理的因縁がここにまた浮上する。
安倍一族の祖は奥州の俘囚の長をしていた。つまり大和政権の外側の部族の長、異民族の長を安倍一族はしていたようだ。ならば安倍晋三が彼の祖霊の意に従うのなら、まつろわぬ者・抑圧されし者を率いて権力や不義と戦うのならば、彼の傍に神が寄り添ったかもしれない。だが安倍晋三は不義と権力を世襲しているクソボンでありバカ坊ちゃんであり、彼の祖霊の意とは逆に、権力による統制抑圧を基調とすることに安倍晋三はなんら痛痒を覚えない。ゆえに彼を霊威は助けない。
では小沢一郎はどうか。小沢一郎もまた「プチ安倍晋三」であるからhttp://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061122#1164136959、奥州の荒ぶる神々、抑圧されし復讐の神々の霊威は彼の傍にはいるまい。

3

奥州と長州といえば、会津戦争というのが140年ほど前にあった。悲惨な虐殺が行われた内戦だ。

戦場では敵兵の肝を食うことがはやっていた。薩摩兵が間諜や相撲取りを捕縛して、首を切り、その肝をとって龕灯提灯に入れて持って歩き、「煮て食うからぜひ来い」という。〔略〕人体を切り刻んで食べた記録もある。会津の少年兵が、越後でその被害に遭っている。(星亮一『会津戦争全史』講談社選書メチエ、2005年、2p)

永井村二居、磯貝の古老たちの口碑
ある朝、霧で周囲が暗いのを幸いに久吉〔越後魚沼郡軍事奉行町野源之助の弟、当時17歳〕は長槍を掲げて飛び出し、当たるを幸い一八人を血祭りにあげた。周囲からの一斉射撃で、久吉は膝をついて倒れた。その時、久吉は「この首を渡すから出て来い」と叫んだ。近寄った三人は槍で突き伏せられてしまった。久吉を撃った永井村の猟師広吉は「久吉が来る、怖い」と叫んで死んだ。久吉の遺体は官軍の兵士や村人が争って肉をそぎ、取って食べた。
それは英雄崇拝の迷信からで、勇者の肉を食うと腕力が増し、健康な子孫に恵まれるといういい伝えからだった。猟師の広吉も肉を食べた一人だった。(『小出町歴史資料集』。星亮一『会津戦争全史』講談社選書メチエ、2005年、161pから重引)

頭のイカレた「ネット右翼」は「人肉食」の話をやたらと好み、人肉食は中国人や韓国人だけにある風習だと2chで書き込むことが時々あるが、上記のごとく日本人もまた「人肉食」をしばしば行っている。
薩摩長州による「官軍」は、会津戦争では異様な措置を行った。

戦争が終われば、占領軍が地域住民に死者の埋葬を命じるのは普通である。しかし会津戦争では、死者の埋葬は禁じるという異例の処置が取られた。これが大きなしこりとなって長く尾を引くことになる。(星亮一『会津戦争全史』講談社選書メチエ、2005年、217p)
会津戦争全史 (講談社選書メチエ)

鎌倉権五郎が1000前に行った処置と比較せよ。

http://www.geocities.jp/kawanayataibayashi/tairanokagemasa.html
鎌倉権五郎平景政  
【初陣】 1083年(永保3年)16才で奥州・後3年の役に出陣。鎮守府将軍八幡太郎義家に従い、奥州の清原氏の反乱(後3年の役)の平定に出陣。清原氏追討で、秋田の堅墨金沢の柵に立て篭もる敵を、先陣として奮迅に攻め勇猛果敢に奮戦し、敵から目に矢を受けたが怯まず敵を殪し(たおし)た。景政手負いたりと陣に帰り、従兄の三浦為次に抜いてもらったが土足で面を踏まれ烈火の如く怒ったという。熾烈な戦闘で清原氏を滅ぼしたが、敵の亡骸を集め塚を造り手厚く葬ったという。今でも《景政の功名塚》と銘記され、金沢の柵の一郭に残されている。そのように、勇壮の中に情があり、遍く(あまねく)天下に名声を轟かした。

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