カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「嘘」「正直」関連の雑多な思いつき

1

以下は雑多なメモである。我が脳内には雑多な情報がたぷたぷしている。雑多な情報がたぷたぷしていること自体は少しも誇れることではない。メディア世代以降、オタク世代に共通する性質だからだ。ただ情報を組み合わせる力は各人の生き様に依拠する。組み合わせが下手な人は碌な生き方をしていない。「真善美」でいうと「美」に当たる。関心の向かう方向性によって制約される。「センス」とも言える。
自分の脳内情報を再び典拠に当たって確認するのは「反省能力」の発露であり、この作法習得には一定の知的訓練が必要である。これは「真善美」でいうと「真」への価値観を示す。この作法を習得しない人は意識するしないに関わらずデマゴギーに堕する。しかしながら今回は典拠確認作業を怠る。

2

インディアンの社会では「嘘」を言えなかった。無文字文化では、とくに酋長の言葉は「法律」「法則」に相当し、酋長が嘘を言うとインディアンの社会文化自体が崩壊してしまう。よってインディアンは「嘘」をつけなかった。
日本の古代社会も無文字文化時代は「嘘」を言うことができなかったろうと想像する。
記紀の英雄ヤマトタケルの説話を見ると、ヤマトタケルはイズモタケルに対し「嘘」をついて近づき、イズモタケルを殺す。どうやらヤマト政権の英雄とは、「嘘」をつくという「超能力」を使って異部族を制圧していたようだ。日本神話のここの部分を読むとヤマトタケルの人格の低劣さに胸がムカムカする。原始無文字文化では「嘘をつく」ことは「超能力」「魔法」の部類だった。

3

キリスト教社会では「嘘」は最大級の悪徳だ。「嘘」をつく者は神に見捨てられ地獄へ墜ちる。「嘘」をつくことに無頓着な人間は、最大級の軽蔑をうける。「平気で嘘を言える人間」はモンスターの一種であり、人格が完全に人外のものであるとされる。異常人格者だけが「平気で嘘をつく」。
よって政治家は自分の言葉が「嘘」になってしまわないように工夫をする。その結果「練りこまれた正直さ」が生まれる。
「嘘」を最大級の悪徳とすることから、「黙秘権」が生まれる。

4

「正直」が美徳となったのは近代以降のことだと聞く。つまるところ「正直」のほうが様々なムダなリスクを回避でき効率的であるからだ。効率性を重視しない中世ではむしろ「嘘」への敷居が低かった。
「科学」という「手法」「手続き」にとり、「嘘」は敵だ。社会知性の効率性を阻害する。

5

東アジア社会では「無意味に嘘をつく」ことがしばしば風習としてある。嘘へのタブー意識が低く、言葉より暴力が支配することが多いため、言葉への信頼意識が低く、発展的対話という習慣に乏しいので対話をそそくさと回収するためにしばしば「無意味な嘘」が使われる。
手法としての科学、手続きとしての科学のないところでは「嘘」はしばしば蔓延する。その害悪に気づきにくいからだ。「反省能力」に乏しいと言ってもいい。

6

歴史上「策士」とされた人々は、いかに自分が誠実であるかということを証明することに人生の9割9分を使っていた。「策」は誠実な人柄であり正直者であるという評判があって初めて有効に機能する。
「油断ならない奸物」「嘘つき」と見なされると、「策」のほとんどは機能しなくなる。

7

日本社会には「バカ正直」と「嘘つき」だけが存在し、「練りこまれた正直さ」に欠ける、と指摘したのは丸山真男だ。「練りこまれた正直さ」を持たない人の言葉は軽くなる。

8

カルトは「セクショナリズム」の究極形態であり、自集団以外へ対し「嘘」を言うことに全く良心の苦痛を覚えない。「嘘」に頓着しない人は、そのぶんカルトとの親和性が高い。

9

「嘘」の究極形は「自分で自分に嘘をつく」ことだ。「自分を騙すための嘘」に着目し研究し学問に発展させたのがフロイトであり、フロムなど継承者たちである。フロイトやフロムたちを弾圧したファシズムは「自集団を騙す」ための「神話」捏造にエネルギーを注いだ政治運動だった。
「自分自身を騙していないか」について「反省」的であることが人間の知的活動であり、その活動を放棄するところ必ず知的怠慢と愚鈍さが存在する。
愚鈍は無痛症の子供が自分を無敵で不死身だと信じる類の強さを一時的には持つことがあるが、長期的には必ず弱体化する。ナチス的であることと知的であることと誠実であることは三つ同時に成立しない。ナチス的知性、すなわち誠実さを欠いた知性は「自分自身を騙すために知的エネルギーを注ぐ」ぶん、現実把握能力が衰え、必ず弱体化する。

感じるところがありましたら   にほんブログ村 政治ブログへ  をクリックされてください。