カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

チリ共和国とアクタ共和国

チリ落盤事故、無事救出おめでとうございます。
昔、NHK人形劇で『プリンプリン物語』というのがありました。そこに「アクタ共和国」というのが登場しますが、そのモデルは独裁政権時代のチリ共和国でありました。

http://www.geocities.jp/hirajirou2002/prinprin/charactor/ruchi.htm
アクタ共和国のモデルには放送当時ピノチェト将軍の軍事政権下で国民に圧制を布いていたチリ共和国(国名が塵芥・チリ=アクタというギャグ)も入っている。(NHKは「チリ政治犯〜失踪〜」というチリの軍事政権を批判するドキュメンタリーを80年に放送している)またアクタ共和国の親衛隊の制服、詰め襟服と突起がついたヘルメットはチリ国軍で現在でも使用されている軍服が元になっているようだ〔略〕」

もう一つの9.11

http://ameblo.jp/sai-mido/entry-10137958094.html
アジェンデ大統領は労働者に圧倒的に支持された社会主義者の大統領でした。そのアジェンデ政権が倒れたことより、チリ人民は長く軍事政権の圧制の下に苦しめられることになりました。そして、このクーデターが資本主義社会の優位を否定する存在としての、選挙により正当に選ばれた社会主義国を滅ぼそうとしたアメリカの策謀によるものだったことが明らかにされてきています。

アジェンダ大統領の演説の邦訳〕http://www.rengo-ilec.or.jp/seminar/hitotsubashi/2008/youroku02_r_kusano.pdf
『労働者諸君!私は辞めない。この歴史的な瞬間に際して、私はわが人民の忠誠に死をもってこたえなければならないということを知っている。君たちに言う。その名に値する幾千ものチリ人の心の中にまかれた種子が、根こそぎにされることはあり得ない。彼らは武力でもってわれわれを屈服させるだろう。だが、暴力をもってしても、犯罪的行為をもってしても、社会運動を押しとどめることは出来ない。歴史はわれわれの側にある。歴史をつくるのは人民なのだ。人民はみずから身を守らなければならないが、自己を犠牲にしてはならない。諸君は、自分の身を銃弾にさらしてはならないし、みずからを辱めてはならない。わが祖国の労働者よ、私はチリ人民を信じ、その運命を信じる。裏切りが勝利したからには、次には別の人々があらわれて、この暗いつらいときを乗り越えるだろう。知って欲しい。やがて大通りが再び開放されて、その上を自由な人間がよりよき社会の建設に向けて歩み出ることを。 チリ万歳!人民万歳!労働者万歳!』

アジェンデ最後の演説(日本語字幕付) Salvador Allende ultimo discurso

もう一つの9・11:1973.9.11 とボリビアの今

チリ・クーデター 

wikipedia:チリ・クーデター
チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。
世界初となる選挙によって合法的に選出された社会主義政権を自由主義派の軍事力で覆した例として有名である。クーデターを起こして成立した軍事政権は、自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、1989年の国民投票により、冷戦体制とほぼ同時に崩壊した。
概要
冷戦においてサルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合(Unidad Popular)は1970年自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。〔略〕
一般に「9・11」というと2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリクーデターを指す事も多い。
1970年選挙
人民連合は社会主義者として知られるアジェンデを〔略〕擁立。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。
冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したホワイトハウスはこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。しかし、陸軍総司令官レネ・シュナイダー(René Schneider)将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、これを拒否。決選投票直前の10月22日、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー(Roberto Viaux)将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、〔略〕アジェンデ大統領が誕生した。
クーデター
1973年9月11日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。〔略〕大統領官邸(通称「モネダ宮殿」)は炎上した。
アジェンデ大統領は降伏を拒否し、炎上するモネダ宮殿内で、大統領警備隊以外の味方がいない中自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。

チリクーデターとCIA

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090526#1243279867
「〔1971年の〕チリでは、ポスターが印刷され、ニュース記事が流され、論説記事が奨励され、噂が広められ、ビラがまかれ、パンフレットが配られた」。その目的は有権者を脅すことにあった。〔略〕「それは骨の折れる仕事だったが、これといった効果はあまりなかったようだ」という。
CIAの仕事は呆れるほどプロらしくない、とコリー大使は思った。「世界中のどこの選挙運動でもあんなひどい宣伝は見たことがなかった。『テロ・キャンペーン』を生み出したCIAのばか者たちは、チリとチリ国民を理解していないので、即刻首にすべきだ、と私は言ってやった。それをCIAに対して言ったのだ。あれは一九四八年に私がイタリアで見たのと同じことだった。」大使は何年も後でそう語っている。(ティム・ワイナー『CIA秘録』文芸春秋社、下巻92p)

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