カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

「ポルノ」という言葉・マジックワード

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「ポルノ」という言葉は多義的であり、色んな感情・情緒だけを詰め込むことができるマジックワードであるので、特に「表現規制反対」という文脈ではなるべく使わないで語ることが望ましい。
「実在」か「非実在」かの区別はたとえば「児童ポルノ法」での表現規制反対派にとって決定的に重要なことなのだが、単に「ポルノ」と言う時、この区別が曖昧化する。それは我々に有利ではない。
私は「児童ポルノ法」という固有名詞以外では、たぶんここ15年くらい使ったことがないと思う…んだが、ちょっとだけ自信がない。

2

私は「表現の自由」という言葉も極力使わないようにしていて、ロビーでは一度も使ったことがないはず。「表現の自由」という言葉もマジックワード的な色彩があると感じるからだ。あとまあロビーの場でそんな単語出してもデメリットこそあれメリットがない、と、少なくとも私は思っている。

3

我がブログでは現在は「表現規制」というタグを多用しているが、2008年2009年頃までは「表現規制」という言葉もできるだけ使わないようにしていた。使わないとブックマークの整理が困難だと判断し、ブックマークではわりと早くに折れて使うようになった。2009年頃からブログのタグ整理も「表現規制」という語を使わないとどうも困難だと判断し、やむなく現在タグをそれにまとめ直ししている(2008年分はまとめ直しの結果)し、ツイッターでも「表現規制」という言葉を多用したりしているけど。
なんか、「表現規制」とか「表現の自由」とかいう言葉は、使いどころをよほど気をつけないと、言語感覚・言葉の使い方を、緩くぞんざいにしてしまう気が自分ではする。使うなとはもちろん言わないが。言語感覚的な問題。使わないで語れる際は使わないに限るというのが自分の言語感覚。昔友人から聞いた、「『愛』がテーマなら、絶対に『愛』という言葉を作中に使ってはいけない」というのと似た。
私の中では「言論統制」「情報統制」への対抗をしたい、という心情があり、主観的な軸はむしろそういう方向でありたいと、少なくとも自分では思っている。

4

久しぶりに使った「呪的闘争」というタグは、我々の生活に滑り込んでくる、色々な「情報操作」「概念拡大の誤謬」について述べる際に使用している。私たちの思考は言葉に規定され、言葉には、とくにマスコミによって、誤った観念・思い込み・短絡的情緒がしばしば刷り込まれている。それによって誰かが得をしているらしい、そういう感覚を覚える時、「呪的闘争」タグを用いている。言葉に誤った観念や短絡的情緒が刷り込まれ流通するというのは、これは呪術が生きて駆動している、という言い方ができると思われる。
このことへの感受性が敏感な人は、人との対話自体に困難を覚えることがしばしばあろうかと思われる。困難を覚え沈黙するその先へ進むことが我々には必要ではある。
関連
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20101107/1289139240
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090622#1245601203

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