カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

『アーロン収容所』動物と人間の境界

『アーロン収容所』(会田雄次中公新書、1962年)再読中。西欧史学徒だった著者が、ビルマにて英軍の捕虜となった生活をつづった名著。以下引用。

屠畜と飼育

私たちは戦争における非戦闘員や捕虜に対する処置によって、戦争犯罪を追及された。そして日本人の残虐行為が世界中に喧伝された。〔略〕いわゆる残虐性のなかには、習慣の相違、それも何千年もの間のまったく違った歴史的環境から生まれた、ものの考え方の根本的な相違が誤解を生んだということが多々あると思う。〔57〜58p〕
私の言いたいことはこうである。日本人は何千年来、家畜を飼うという経験をしなかった。とくに食糧としての家畜を飼うことをまったく知らなかった。〔略〕同じアジア人でも、中国人やビルマ人は屠畜に馴れている。それ以上にヨーロッパ人は馴れている。
〔略〕ヨーロッパでは穀物だけでは到底たりないので家畜をたくさん飼い、冬の前には、その多くを殺して肉をたくわえ、それによって冬を食べつないできた。有史以来実に十八世紀までそうなのである。それなしには越冬できないのだ。屠畜された家畜はきわめて大切な食糧であるから、その肉や骨や血の一片一滴たりとも無駄にすることはできない、だからかれらはこの屍体処理に馴れきっている。
それに対し日本人は、本来的にそういう経験を持っていない。私たちは血を見て逆上する性格がある。戦場の捕虜や原住民に対する傷害行為は、どこの国にも共通であるとしても、日本のそれは逆上的な傷害になる。滅多うちにしたり、死んでからも狂気のように突いたり切ったりする。そこがヨーロッパ人には残虐という印象をあたえるのだと思う。しかし、それを残虐と言えるだろうか。〔58〜59p〕
また、私たちは家畜を数多く〔原文傍点〕飼育することには馴れていなかった。馴れていないどころか、ほとんど経験した人はないだろう。もちろん牛や馬を一頭か二頭養うことはあった。牛や馬や羊など一頭か二頭飼育しているときは、そこに家族的な愛情の交換が成立する。食うために飼っているのではないからなおさらである。家畜をけもの〔原文傍点〕としてではなく人間として家族の一員として取り扱うことが飼育の秘訣として、美談として倫理として要求される。
しかし家畜を何十頭何百頭飼うとなると、そんな気持でいては飼育者は過労で参ってしまう。ここではどうしても多くの動物を取り扱う一つの管理法と技術が必要となる。捕虜というような敵意に満ちた集団をとらえて生かしておく(生活さすのではなく生存させておく)というためには、このような技術が必要なのではないだろうか。そういうものは私たち日本人は、まったく身につけていない。
私たちは捕虜をつかまえると閉口してしまうのだ。とくに前線で自分たちより数の多い兵隊をつかまえたりしたら、どうしてよいか茫然としてしまうのだ。
しかし、ヨーロッパ人はちがう。かれらは多数の〔原文傍点〕家畜の飼育に馴れてきた。植民地人の使用はその技術を洗練させた。何千という捕虜の大群を十数人の兵士で護送して行くかれらの姿には、まさに羊や牛の大群をひきいて行く特殊な感覚と技術を身につけた牧羊者の動作が見られる。日本にはそんなことのできるものはほとんどいないのだ。〔59〜60p〕
捕虜の虐殺やその処遇など、日本人に対してあたえられた批難はこのことに無関係ではない。水の補給場所も考えないで大群を行軍させて死人を多く出したり、列から離れたものを追い返すことをしないで殺したりということは悪意だけでの問題ではない。羊や牛を負った人間ならそういう失敗はやらないだろう。
残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。それは文化や社会構造の〔原文傍点〕の問題で、文化や道徳の高さなどという価値〔原文傍点〕の問題ではない。ヨーロッパ人が自分たちの尺度で他国を批判するのは勝手だが、私たちまでその尺度を学んだり、模倣したりする必要はないと思う。
日本人はヨーロッパ人の動物飼育の感情を理解できるだろうか。かれらは豚を可愛がる。豚は食糧になるからだ。殺すことと可愛がることとは矛盾しない。家畜に関しては使用することも食糧になることも同じ意味で「役に立つ」のである。この点は日本人の考えの方がおかしい。牛肉は大好きなくせに、殺すことと殺す人を嫌悪する風習がある。ヨーロッパでは、毛皮業者や食肉業者の社会的地位が昔から高かったのである。
しかし、生物を殺すのは、やはり気持のよいものではない。だからヨーロッパではそれを正当化する理念が要求された。キリスト教もそれをやっている。動物は人間に使われるために、利用されるために、食われるために、神によって創造されたという教えである。人間と動物の間にキリスト教ほど激しい断絶を規定した宗教はないのではなかろうか。〔60〜61p〕
ところでこういう区別感が身についてしまうと、どういうことになるだろう。私たちにとっては、動物と人間との区別の仕方が問題となるだろう。その境界はがんらい微妙なところにあるのに、大きい差を設定するのだから、その基準はうっかりすると実に勝手なものになるからである。信仰の相違や皮膚の色がその基準になった例は多い。いったん人間ではないものとされたら大変である。殺そうが傷つけようが、良心の痛みを感じないですむのだ。冷静に、逆上することなく、動物たる人間を殺すことができる。
ビルマ人の泥棒の屍体を扱った軍曹の姿のなかに、私がそういう「冷静」を見たと思ったのは誤りであろうか。〔61p〕

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