カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

中国中世の景気/宮崎市定『大唐帝国』

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宮崎市定『大唐帝国』のはじめのほうに、中国中世の景気・経済についての記述がある。経済が縮小期にはいっている現在は、中世に似ている点が色々ある。以下メモする。

腐敗する古代帝国

古代ローマ帝国ローマ市民権を征服地人民に与え懐柔したように〕漢は全国の成年男子にしばしば一様に爵をあたえる詔を出している。当時の爵というのは士以上の身分のことである。中国上古の社会には、士と庶民の階級的対立があったが、士とはほぼ完全なる市民権所有者をいい、庶民は不完全市民と解してさしつかえがない。
すなわち漢王朝は、全国の人民をもれなく、庶民の地位から士の身分に引き上げ、これに完全なる市民権をあたえてその機嫌をとったのである。〔19p〕

家族ぐるみの猟官運動

三国志袁紹のように〕代々官僚の最高位たる三公の地位に到達する家が出てきたということは、けっしてその血統が遺伝的に優秀であったことを意味するものではない。それはかえって当時の政界が固定化して流動性を欠き、いわば動脈硬化症におちいっている好ましくない状態を露呈するものにほかならなった。〔25p〕
後漢の時代に〕家族を単位としての猟官運動がはじまったのである。〔略〕こういう家族単位の猟官運動がはじまると、その競争は個人単位のばあいよりも、ずっと激しくなる。官吏の地位は別にふえないのに、家族の人口は年々ふえるからである。〔26p〕

権力者は富み人民は貧す

前漢には一代で三度千金の財を稼ぎ出した「貨殖家」がいて「貨殖伝」が立てられた〕ところが後漢の時代にはいると、一転して中国の経済界は停滞しだしたのである。
経済成長はとまり、金銭の動きはにぶり、交易は不活発となり、一度手をはなれた金銭は容易にもどってこない。〔略〕金もうけということが極度にむずかしい世の中になったのである。
ただ権力者による収奪は別物である。ここに中国社会は、富める権力者と、貧しい人民という階級の別ができ、それがそのまま固定化する傾向を生じた。〔34p〕

金づまり

後漢にはいってから中国の社会は、不景気風におそわれてきたのである。〔略〕時代が古くなればなるほど、すべてのテンポがいちじるしく緩慢なのである。〔略〕中世全体がひとつの景気変動の周期だとみてよいのである。
〔略〕黄金は砂金の形でいたるところに産出するので、どんな低開発の人民でもそれを採集することができる。そこで中国の文化が周囲へ波及するとともに、異民族は中国の生産物を買うために砂金を提供したのであって、それが中国へ集まってきたから、その価格は今日から考えると異常に低廉であった。〔略〕
先進地域と後進地域が自由に貿易を行なうと、先進地域の産物を買うために、後進地域の貨幣が流出するのが法則である。〔略〕
西アジアとの交易では〕概していえば中国の方が輸入超過であり、そのため低廉な黄金がどしどし〔西アジアへ〕流出する結果となった。〔略〕
中国の経済界はしだいしだいに金づまりの状態におちいった。金銭を使うことは容易だが、それを取りもどすのは容易でない。昔のように一攫千金が可能な好景気はふたたび訪れなくなってしまったのである。〔34-36p〕

荘園が流行した

こうした不景気に際して、だれしも考えるのは、金を使わない工夫である。ここで、できるだけ自給自足をはかる消極的な経済生活が流行したが、それをもっともよく代表するのが荘園である。〔37p〕
〔荘園は〕極度に自給自足な計画生産であって、家具がほしいときにはまず梓と漆を植える。その木の生長を待って器具をつくり、漆をとってそれに塗るというから、ずいぶんと気のながい話である。時間というものを無視し、ひたすら現金を出さぬ工夫をし、ありあわせのものでまにあわせるのが、結局もっとも効果的だという世の中になってきたのである。〔略〕
自給自足のためには生産の品目が多くなければならぬから、立地条件としてはもっとも地形の複雑なところを選ぶ。〔略〕そして自家消費を行なったのちの剰余を市場に売り出すのであるから、あきらかにこれは経済的に退歩逆行の現象である。
なんとなれば、史記の貨殖伝に描かれた〔古代の〕経済界は、分業生産の相当に進歩した段階で、すべての商品が一度市場に集められて、そこで活発な交易が行なわれたことが記されているからである。〔38p〕
〔荘園経済では〕商人に口銭をとられるのを防ぐため、荘園はみずからその生産物を市場まで運搬し、同時に必要品を市場で買ってみずから運搬して帰るのである。〔略〕従来商人がやっていた運搬業を、荘園が行なうようになったのである。〔38-39p〕

家貧しくして孝子出づ

不景気で暮らしにくい世の中ほど、家族の団結の必要なことが強調される。〔略〕強固な結合をしなければ生きていくことができない。そしてそういう際に、いつも犠牲は弱い立場の者の上にしわよせされる。親にたいしては子が、夫にたいしては妻が、献身的に奉仕するように要求されるのであった。そのような基準にかなった男女のために、無数の孝子伝や列女伝が編纂された。〔42p〕

屯田政策

〔薫卓の乱の後、〕曹操の立場は〔群雄の中で〕もっとも困難であった。天下の中心に位置するだけに、四方を強豪に囲まれているわけで、軍備を一日もおろそかにすることはできない。しかも軍備というものは、いつの世においてももっとも金を食う非生産的なものである。〔略〕
そこで案出されたのが屯田という新政策である。これは天子みずからが豪族のやり方をまねて荘園をもつことを意味する。
まず戦乱で荒廃し、無主となった土地を収めて政府の管理する田とし、そこに貧民を召集して耕作させる。地代はすこぶる重く五割を官に納める。〔略〕貧民がよろこんで屯田に収容されたのは、地代は高いが現物納であって、無理に銅銭を強要されなかったためであろう。〔58-59p〕
魏の屯田は村落の形をとった。これも豪族の荘園のやり方そのままをまねたのであろう。
こうして古代都市が崩壊するいっぽう、新たにばらばらの集落がいたるところに発生した。そもそも村という字は古代になかった。村という実体がなかったのである。屯田による村落をはじめは邨(そん)と書いた。のちに同音の村字をもっぱら用いるようになったのである。古代からつづいてきた都市と、新しくできた村落の並立が中国中世社会の特色である。同じことはヨーロッパ中世についてもいえるであろう。〔58-60p〕

大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)

大唐帝国―中国の中世 (中公文庫)

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宮崎市定関連で過去ログhttp://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061208#1165525278読み返して思ったけど、菅直人降ろししている政治家って、世襲政治家が多いように感じるんだが、どんなもんなんだろうね。現在、中世の闇に落ちるかどうかの分水嶺継続中だと思われ。

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