カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

「第一の開国」はどうだったか

TPPは「第二の開国」と言われることがある。
第二の開国というフレーズはアジア太平洋戦争敗戦時を指したりオレンジ牛肉自由化のときも呼称されたりしたこともあったけど。
フレーズが多用される割には、「第一の開国」と比較されることがそんなに多くはないようにも、ちょっと思う。「開国」という言葉がプラスイメージの言葉だから使用されるんだろうけど、「第一の開国」は日本経済の大混乱と日本人生活の困窮を招いた。だから維新が起きた。
たしか日本国内の生活必需品が海外にガスガス輸出されて、日本人の生活が困窮したんだったよな、と、10年ほど前にテンプラ学生していた時に知識を仕入れたような気がするが、自信がないのでネットで検索してみた。

http://bakumatu.727.net/oboe/oboe-17-kaikoku-yushutu.htm
安政6年(1859)、通商条約に基づき、横浜・長崎・箱館が開港した。〔略〕
開港後、輸出入はともに拡大し続けたが、生糸・茶・などの原料品(一次産品)を中心とする輸出超過が続いた。輸出品目は、当時の日本人の生活必需品だったが、急激な輸出需要に対して生産体制が追いつかず、国内の品薄を招き、価格は高騰した。
〔略〕特に、生糸を原料とする織職は原料価格の高騰と品不足から休業状態に陥り、生糸商に対する西陣暴動や、貿易中止の嘆願運動も起った。
このような経済混乱に対し、幕府は、貿易の制限・統制を通して国内経済保護をはかろうとした。自由貿易を原則とする通商条約違反は承知の上である。
開港から10ヶ月後の万延1年(1860)閏3月、幕府は五品江戸廻送令を公布した。生活必需品5品目(生糸・雑穀・呉服・水油・蝋)については、産直による横浜貿易を禁止して江戸の問屋への廻送を義務付け、府内の需要を満たしてから輸出に向けるという法令である。
しかし〔略〕廻送令は空文化してしまった。

http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakumatsu/bakumatsu_2.htm
1.貿易の実態
   輸出や輸入によってもたらされたもの    国内繊維関係業者が壊滅的打撃を受けた。
生糸が市場から消え国内繊維関係事業者は生産不能に陥った。 一方工業化に成功していた英国より多量の織物が輸入され、国内織物手工業者は破綻した。
〔略〕 一方武士社会では、〔略〕攘夷は彼らの生活に直接関係する大問題であり、それを政治課題とする武士運動は広範な支持と激烈な方向へと突き進んだ。
 後期封建社会の崩壊過程は、国際市場の展開により、著しくそのテンポを増大し破断界へと突き進んでゆく。〔略〕
 国内の手工業の破綻を立て直すには、資本主義諸国に対抗して、彼ら生産者保護助長の強権的政権が必要であった。この面からしても明治維新の到来は待ち望まれていた。

http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/higeki/higeki-1.htm
なぜ日本中が攘夷熱に浮かされるようになったのであろうか。〔略〕
被統治者の側は、階層的にどの位置にあるかで若干事情が異なる。〔略〕繊維関係製造業者の場合は、輸出の急増で繭玉は、国内の加工業者に回らず生産停止の状況であった。ちなみに安政5年(1856)6月、日米修好通商条約が締結され貿易がはじまったが、生糸、茶、繭玉、紙などの輸出が増大し、国内の消費物資は極度に不足し、このことにより物価の騰貴を招き庶民の生活は困窮の度合を増した。
 次に既存の繊維販売業者の場合、産業革命に成功した英国の安い綿布が大量に出廻り、国産物の競争力はまるでなくなってしまい開店休業の状態となった。少なくとも収入の路がなかった。
元治元年7月19日(1864年8月20日)未明、伏見を進発した長州兵と、守備についていた大垣藩兵が砲火をまじえ、禁門の変が勃発。京都は兵火で焼失。それでも京都市民は長州兵に同情的であった。京都は西陣の里である。貿易により商品流通は激変。生産地から横浜や神戸に流れるルートが生まれ生糸が暴騰、また品不足から廃業(従事者は失業)に追い込まれた。そのため織元は攘夷を掲げる長州を支援した。
 次に貧農と、都市最下層民の場合、国内での流通物資が輸出に回ったことにより、消費物資が一般市場に出廻らなくなり、市場原理の結果物価騰貴を招いた。物価の急激な騰貴により、下級武士や都市貧民、小作農民層の生活を脅かし、それにより下級武士では反幕機運がたかまり、尊皇攘夷運動へとつながった。また都市貧民や農民層は打ち壊しや百姓一揆に走ることになった。

http://yururi.aikotoba.jp/samurai/history/gohinkaisou.html

五品江戸廻送令

<概要>

万延元年(1860年)閏3月に、幕府が出した法令。内容は、生糸・雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服の5品に限り、いったん江戸に送って需要を満たした後、横浜に出荷するように命じているもの。
1859年に横浜・長崎・箱館の3港で貿易が始まると、多量の金が流出するとともに、生糸をはじめ製品の原材料が輸出されていった。貿易商人、在郷商人らは産地で物資を買い集め、直接横浜などの開港地に送って取引をしたため、問屋などが打撃を受けると共に国内で物資が不足し、物価の高騰がはじまった。この法令で幕府は江戸の物資不足・物価高騰を解消しようとしたのである。

<結果>

五品江戸廻送令は自由貿易を侵害するものだとして欧米列強や在郷商人の反対を受け、ほとんど効果はあがらなかった。
開港当時の1859年と比較すると、幕府が崩壊した1867年には、米の値段は約7倍、生糸は約4倍、蚕卵紙(さんらんし:蚕蛾を紙にのせて、卵を産みつけたもの)はなんと約10倍に跳ね上がっている。

金の流出と対策

開港以来、日本から多量の金が流出していた。この原因は、日本の金銀比価がほぼ金:銀=1:5であったことに対し、世界の標準が金:銀=1:15と、日本では金の価値が世界標準の3分の1だったためである。外国人は自国で銀を金と交換するよりも、日本で銀を金と交換したほうが3倍も得なので、こぞって日本で金銀交換を行ったのである。幕府はこれまでの天保小判(縦62mm)から万延小判(縦約36mm)へと改鋳して金の質を下げることで対応した。しかし、小判の質が落ちたことによって、国内の物価高騰には拍車がかかることになった。

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