カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

「用言」+「です」とか

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標準語の東京語離れ http://www.nikkei.com/article/DGXBZO42351920Y2A600C1000000/ 
なんか微妙な表現が述べられているけど、これ読んで連想した。
塾講師していた頃、生徒の作文指導で「うれしかったです」「楽しかったです」という表現を使うな、と指摘していたのを思い出した。
日本語は、「用言+です」を正当な使用法と見なさない。断定の助動詞「です」は、体言に接続する。「です」は断定の助動詞「だ」の丁寧語であり、「うれしかったです」「楽しかったです」を平文に直すと「うれしかっただ」「楽しかっただ」となる。どこの田舎者だ、というかお前はマンガ世界の田舎者か、と感じるでしょう?
「うれしかったです」は「うれしゅうございました」、「楽しかったです」は「たのしゅうございました」が、正当な表現とされる。あれ、でも書いてみるとすげえ古めかしい表現だな。

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「しっかり」という言葉を辞書で引いて、関東の方言であり標準語ではない、というのが受験的正解だと知ってたまげたことがある。

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言語表現から連想して以下書くけど。
私は子供の頃、「もっと子供らしく喋れ」と父母から相当不快表明をされた。幼少期の私は文章語に近い言葉で喋っていたようだ。「しかし」という接続語を使うと我が父母はものすげえ不愉快になった。
幼少期の自分に共感しないで解釈すると、マンガのセリフで喋っているオタク少年少女みたいで気色悪かったんだろうな、という解釈はできる。
幼少期の自分に共感して解釈すると、私はムダに精神年齢が高かったので「大人の言葉」で喋っていたのが、父母には気色悪かったようだ。
だから私は「努力して」幼稚な子供らしい表現を使おう使おうとした。子供にそんな努力を強いるってどうよ、とか思う。そんな無駄な努力を強いらない親になりたいものだ。
幼少期の私の周辺の同年代は、はっきり言って3人程度を除いてパー揃いだったから、言語能力は実年齢よりはるかに低いアレだった。アレの言語とアレの思考ルーチンを習得しようと努力するのを強いるってどうよといまだに思うんだが、我が同級生は父母の同級生と違ってアレ揃いであり、碌な手本が我が周辺にないということを我が父母は生涯気づかなかったため、我が父母の内的世界に沿おうとするのに本当に、無駄な努力から無駄な努力を強いられ、それは全くもって我が人生にとってはマイナスでしかなかったが、こういうバカなことを強いらない保護者でありたいと思う。

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「意識的に」幼稚な表現を口語表現において強いられた私は、マンガを描く際も、初めの頃、キャラのセリフを意識的に幼稚で不鮮明な表現とするように、ムダに意識した。人間の口語による表現というのは、そういうのがリアルなのだとムダに考えたからだ。
北のりゆきくんという、我が生涯初めてのマンガの友人から、「君のマンガのセリフは変に幼稚だね」と指摘され、あ、幼稚な表現に変換しなくていいのか、と、初めて気づいたのが、だいたい、27歳くらいの時だった。
そのだいぶ後に、丸山真男の文章の中で、フランス映画ではセリフが物凄く無駄がなく的確だ、だからフランス人は凄い、みたいな文章を読んだが、いやいや丸山真男先生、映画のセリフだから無駄がないのであって、素のフランス人は素の日本人と同じくらい意味不明瞭で非論理的なむちゃくちゃなフランス語を喋ってますよ、きっと。時間の限られた芸術である映画の中で、セリフを限界まで無駄なく洗練させただけの話で、同じように、日本映画の名作のセリフは無駄なく洗練されてますよきっと。私は映画を全然見てないけど、マンガのネームを書く際の理屈も同じだから。マンガのネームのように無駄なく日常喋る日本人というのは、まあ、いない。日常生活にはページ制限がないから。マンガのセリフはページ制限内に限界まで情報を込めるのが望ましいから、ムダがないという点で洗練されている。少なくとも優秀な作品のそれは。
それはそれとして丸山真男批判というのは丸山真男がヨーロッパ精神を「募夏主義」的に理想化しているのが宜しくない、というのが定番だが、いやいや、地上に実在できない理念を仮定してそこを基準軸とするという作業自体が教養とか理性とかそういうものだろ、たとえば憲法とか法律はそれ自体は地上に実在していないだろ、とか思うんだが、まあそりゃまた別な話で、こういうことは俺が大学生であった時期にどっぷり考えるべきであったが、俺が大学生である時は勉強しないことにムダに全力を注いだ。今の現役の学生はそんなバカは極めて少数派だろうけど、俺の世代には多少そういうのを望ましいとする空気が残り、我が老母様の矛盾しまくる要求の一つに沿った結果ではあったり。
人間というのは、しなくていいどころかすべきでない無駄な努力をたくさんしているものだ。ムダで有害な努力を強いられている人は、早くそのことに気付いて、バカな努力を止め、おのれの欲するところをなしてほしいと、私は願う。おのれが何を欲しているのかを悟ることというのが、これまた遭難級の難事業ではあるのだけど。
一つガイドラインを述べておくと、継続して努力しても、あまり疲労しないところが汝の欲するところであり汝の才能である。努力することにため息を感じるところは、汝の生きるところに非ず。
世界はもっと身も蓋もなく語られるべきであり、汝はもっと身も蓋もない語りをすべきである。

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