カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

小熊英二『社会を変えるには』から抜粋、第一章-1

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20121023/1350993371の続き。
「はじめに」から以下抜粋。

そもそも、社会を変えるというのは、どういうことでしょうか。〔4p〕
いま日本でおきていることがどういうことなのか。社会を変えるというのはどういうことなのか。歴史的、社会構造的、あるいは思想的に考えてみようというのが、本書の全体の趣旨です。
まず第1章で、日本社会の現状をつかみます。そのなかで、二〇一一年に社会運動のテーマとして浮上した原発というものが、日本社会でどういう位置にあるかを考えます。
第2章では、社会の変化につれて、社会運動がどう変わってきたかを述べます。第3章では、それをふまえて、戦後日本の社会運動の歴史を描き、現代を位置づけます。
第4章から第6章は、そもそも民主主義とはなにか、代表を選ぶとはどういうことなのか、それがどう行き詰っているのか、を考えます。第4章では古代ギリシャ思想、第5章では近代政治哲学、第6章では現代思想の、それぉれごく一部をあつかいます。回り道のようですが、「投票をして議員を選ぶこと」だけが社会を変えることなのか、という問題を考えるうえでは、ここまでさかのぼって考えて、発想を広げる必要があります。〔略〕
第7章では、第1章から第6章までの内容をふまえて、もう一度現代日本に戻ります。社会運動をやるうえで参考になりそうな理論も、ざっと解説します。〔5-6p〕

第1章から以下抜粋。

第1章 日本社会はいまどこにいるのか

日本が「工業化社会」だった時代

日本で製造業の就業者人数が農林水産業を抜いたのは、一九六五年です。そして製造業の就業者数のピークは一九九二年、サービス業の就業者数が製造業を抜いたのは一九九四年です。〔略〕
一九六五年から一九九三年、だいたい「東京オリンピックからバブル崩壊まで」が、日本が工業中心の「ものづくりの国」だった時代といえます。〔15p〕
アメリカの全雇用者に占める製造業の割合は一九六六年がピークで、二〇一一年までに、だいたい二八パーセントから九パーセントに減っています。〔15-16p]

工業化社会とは

工業化社会の象徴は、二〇世紀はじめのフォード自動車です。ベルトコンベア式の大工場での大量生産。大量の労働者が雇用されて、高賃金を受けとる。〔16p〕
性労働者の雇用と賃金が安定すると〔略〕女性は、専業主婦になっていきます。〔16-17p〕
〔略〕マイナス面もありました。社会が画一的なことです。〔略〕
みんなが同じような自動車に乗り、同じような電化製品を買って、同じような住宅に住んでいます。
働き方も画一的でした。ピラミッド型組織の大きな会社で長期雇用。〔17p〕

ポスト工業化社会

「ポスト工業化社会」は、だいたい以下のようなものだと言われます。
〔略〕精密な設計図をメールで送れるようになると、世界中のどこでも安い工場に発注すればよくなります。〔略〕
国内に自社工場を持つにしても〔略〕現場の単純業務は短期雇用の非正規労働者に切り替わります。〔18p〕
ビジネス街で働く中核エリート社員を支えるためには、単純事務作業員や〔略〕外食産業などの店員が必要です。
これらは〔略〕「マックジョブ」とよばれる短期雇用労働者の職になります。一人の中核エリートを支えるのに、五人の周辺労働者が必要ともいわれ、これは海外に移転できません。逆に言うと、先進国の都市であっても、多数派は周辺労働者になり、格差が増大します。〔19p〕
〔若者は失業と非正規雇用が増え〕なかなか安定した収入が得られないので、親元同居が長期化して、晩婚化と少子化が進みます。〔21p〕
社会保障が整っている国、たとえば北欧諸国では収入が少なくとも親元を出ても大丈夫なので、親元同居が長期化しない傾向があります。それにたいして、社会保障が整っていないか、あってもしれが家族単位でできている国〔略〕では、親元から出て行きません。日本や南欧諸国などでは親元同居の長期化がみられます。〔21p〕

若者は幸福感が強い

ポスト工業化社会になった先進国では、どこでも若年失業率が上がります。〔23p〕
しかしどこの先進国でも、若者の幸福感は高い傾向があります。〔24p〕
〔略〕いいものが安く買える、自由がある、楽しみが多い、というのも理由になっているようです。〔24p〕
とはいうものの、こういう若者は、先行きの展望が明るくありません。ベトナム製の電気製品や、カンボジア製の服は買えても、家は買えません。工業製品は輸入できても、土地は輸入できないからです。ですから家賃も高くて、親元から出られません。〔25p〕

日本型工業化社会

一九七〇年代から八〇年代の日本は、今日の中国や東南アジアがそうであるように、先進国で衰退した製造業を肩代わりする新興国でした。〔26-27p〕
それを可能にしていたのは、冷戦という国際環境でした。中国は東側陣営で、世界市場に参入していませんでした。〔略〕また八〇年代の「新冷戦」で、ドル高円安が続いたため、日本企業は国内生産で十分に対応できました。〔27p〕
〔石油ショックの後〕人員を削減して、どうして失業が増加しなかったのか。それは女性・地方・中小企業といった日本社会の「弱い環」が負担をかぶり、それに補助や保護を加えるという、「日本型工業化社会」が成立したからだったと考えられます。
石油ショックのあとに、日本企業が優先的に削減したのは、女性社員でした。結婚退職や出産退職を奨励された女性たちは、男性労働者の妻になりました。〔略〕〔こうすれば彼女たちは〕失業者にカウントされません。〔27-28p〕
一九八〇年代半ばの時点で、未婚女性、主婦、学生、高齢者などからなる「第二労働市場」とも呼ばれる層は、全雇用者の六〇〜六五パーセントを占め、この割合は主要先進国のなかでは最高でした。いわば石油ショック後の雇用格差は、日本ではおこらなかったのではなく、周辺化され目立たなかっただけだったといえます。
〔略〕日本社会の「中核」が、こうした「周辺」を支える社会構造が作られたからです。
ここでいう「中核」は、製造業を中心とした大企業と、そこで働く男性の正社員でした。〔29p〕

機能不全になった日本型工業化社会

〔略〕バブル崩壊とともに、製造業の就業者数は減少に転じ、非正規雇用が増えていきました。
あわせて、やはり八〇年代後半に始まった日米構造協議をきっかけとして、多くの規制緩和と自由化が行なわれました。
たとえば一九七三年に制定された大店法大規模小売店舗法)のもとでは、地元の商工会の合意がないと、大型店舗が出店できないことになっていました。これが日米構造協議で批判されて、一九九一年に改正(二〇〇〇年に廃止)されます。そのあと、郊外大型店が急増して、商店街がさびれていきます。一九九一年から二〇〇九年までに小売店の数は三分の二に減りました。〔31p〕
二〇〇六年には、「格差社会」が「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップ10に選ばれています。〔32p〕
二〇〇〇年代に補助金や公共事業の削減が行われたところで、下支えを失って問題が一気に露呈し、それだけ変化が劇的に感じられたといえます。〔33p〕

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社会を変えるには (講談社現代新書)

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