カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

私は子供の教育に自信がない

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私は子供の教育に自信がない。
高校までの授業内容のうち、英語と理系教科の一部を除いて授業内容については教えてあげられる自信はあるんだが、娘の大学選択から先が私にはブラックボックスで全然自信がない。
一応私も大学には行った。私は典型的「怠学」をして、でも一応卒業した。当時まだ若かった老母からムダに注入された息苦しいムダな感情の煮凝りと、ムダに老母から注入された、解答自体は簡単なのだが老母を満足させることは決してありえないという意味で解答不可能な、ムダの塊のような当時の我が家の自営業をどうにかせにゃならないというムダな義務感に責め立てられて、自分の将来を自分で作ることをムダに断念して無気力症になったりなんかそんな感じで大学時代を過ごした。
我が老父は私に無茶な要求はしなかったが、我が老母は矛盾しまくる手前勝手な要求を私にし続けてかつ要求しているという自覚が毛ほどもないので、私がなぜ「怠学」に至ったか今に至るも理解しないし、もちろん死ぬまで理解しない。私は自分の「怠学」を凄く悔いている。当時「怠学」を絶対に後悔しないとムダに決心したことを強烈に覚えていることも含め、我が生涯の桎梏だ。
我が老父の二人いる弟のうち一人は大学進学していたが、その人は早くに体を壊して全然出世しなかったから、実質、私は我が親族で最初の大学進学者、みたいな感じだった。この表現は不正確で、我が老父の姉は小学校教員の嫁になり、その家の子供は3人中2人が大学進学したので、大学進学者という先例はなくはなかった。その兄弟の残り一人は大学受験に失敗して自殺した。「大学受験に価値を置いてはダメだ」というのが、その自殺に対する我が家の教訓となった。
佐藤俊樹『不平等社会日本』に、母親の学歴より2段階上の学歴を習得するのはすげえ難しい、という旨があった。母親の想像力の限界を超えるので家庭内で「もおいい、それ以上の学はムダだ」となるんだろう。我が老母は中卒であるから、私は大学が母親の許容限界だった。
我が老父は老母より常識があるのでそういう変な縛りを私にしたことはないが、老父は空気のように存在感の薄いキャラで、だから異様にキャラの濃い老母と離婚せずに連れ添えたんだろうが、それはそれとして、老母は無責任で自覚がないから縛りをした自覚ももちろんない。
幸いにして我が嫁は大卒であり、わりと名の通った大学の卒業者であり、だから我が娘、今後生まれるかもしれない第二子第三子の家庭での学へのムダな壁はないと思われる。
が、大卒→就職 という普通のラインが私にはブラックボックスであり、大学→大学院→研究者 という道への憧れ的感情は私にはあるんだが、近年さんざん聞かされているその方向の生活の困難さってどういうことだと思わざるを得ず、親としては子供にとって手枷足枷とならないようにだけ心がけるべきだろうけど、塾講師時代の経験から子どもの自発性とか選択なんてものは原則的には利口な親がいかに上手にそそのかし道を与えて、あたかも子供が自分でその道を選んだかのように思わせるかというものだとも思うので、何を憧れさせるのが妥当であるのか、今から悩むところではある。
我が老母は私から「憧れ」の感情などそういったものを涸れさせることにムダにエネルギーを注ぎ、もちろんそのことに欠片の自覚もないので、あの轍は踏まぬようにしたいところではある。

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

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ところで、ジャレド・ダイアモンドの『昨日までの世界』を読んでいるところなんだが、「伝統的社会(石器時代ごろの生活)」と西洋社会の比較をしている本なのだが、我が老父老母の生きている社会はパプアニューギニア並みの「伝統的社会」で、ウチの村の約400戸ほどのほぼすべてが顔見知りであるそこが老父老母の実感を持つ社会である。
我が自営業は観光業であり、我が店舗は村から隔絶していてそこで私は成育して、我が老父老母は私を「村」の「伝統社会」に馴染ませ教育することに無頓着で不作為でそういう意欲を全く欠き、我が同級生は村の人間の中で極めつけに「外れ」なヒャッハーさんだったりして、私はこの「伝統的社会」に全然足場や愛着を持っておらず、基本的にこの「村」の住民は全員顔なじみだから我が村の住民はほとんど全員が私を知っているのだが、私は村の住民をヒャッハーな同級生たち以外ほとんど知らない。リアルに存在するヒャッハーとは10分以上一緒にいると胃がでんぐり返る。
ヒャッハーとは→ 【ニコニコ動画】【MMD】今日を生き抜く人に贈る〜ガレキ町1.0
パプアニューギニアや南米ジャングルの伝統社会にポツンと一人だけいるようなもので、嫁を貰ってからは南米ジャングルの伝統社会の中に二人でポツンといるような感じなのだが、幸いにして最近分かったのは、この「村」の住民は、我が老母や我が同級生どもほどアレではないらしいが、私がその村の住民のうち最も濃ゆく接するのが、村の中でも格別にキャラの濃い我が老母であるのはどうにも、どうにも。
我が娘にとってこの「村」が私の感じるような煉獄とならなければよいが、それについてまったく自信がない。

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

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