]『イスラームから見た「世界史」』、さらに続き
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20130407/1365289368の続き。
ところで、ムハンマドと聖徳太子と玄奘三蔵は、だいたい同時代人物で、7世紀というのは、釈迦と孔子とソクラテスが登場した紀元前7世紀頃と同じく、人間の英知があるハードルを越えた時期なんだろうなあ、とか思う。たしか宮崎市定によると、イスラムという宗教新潮流が東に伝播して鎌倉仏教に至り、西に伝播して宗教改革に至った、みたいなことを言っていたような。
それはそれとして、私の記述、要約というにはちと量が多すぎるので、もっと絞るよう努力する。
2-5 ウンマの発展
ムスリム共同体は防衛のために暴力を行使することをためらわなかった。共同体の仲間同士で戦うことはなく、攻撃は無慈悲な部外者に向けられた。
ウンマの一員になった者はダール・アル・イスラームに入る。これは神への服従の領域、平和の領域を意味する。これに属さない者は、「戦争の領域」ダーリ・アル・ハルブの住人とみなされた。
ジハードという言葉は、本来、「奮闘努力する」という意味だ。武装した奮闘努力を大義が要求する場合、それも是認される。
塹壕の戦いの2年後、アラビア半島全域の諸部族はムハンマドを指導者として受け入れはじめた。ムハンマドはムスリムのマッカへの巡礼を始めた。
2-6 ムハンマドの死
ヒジュラ暦7年にムスリムはカアバ神殿で礼拝し、翌年、マッカの長老たちはムハンマドに降伏した。ムハンマドは無血征服した。ムハンマドはカアバ神殿の偶像を全て破壊し、立方体の神殿を、世界で最も神聖な場所だと宣言した。
ヒジュラ暦10年(西暦632)、ムハンマドは最後の説教をした。自分は最後の神の使途で、自分の死後は啓示が人類に下されることはない、と言明した。ムハンマドは病に倒れた。妻のアイーシャ(教友アブー・バクルの娘)の膝を枕に息を引き取った。神の使途は死んだ。
3 カリフ制の誕生/カリフの時代―普遍的な統一国家の追求
3-1 伝承学者とイスラーム版『聖書物語』
ムハンマドにヒラー山の洞窟で啓示が下され、ヒジュラを経て、40年後に預言者の第4代後継者が没するまでの一連のドラマは、イスラームの宗教的寓意物語の中核をなしている。
3-2 初代カリフ―アブー・バクル
ムハンマドの死後、ウンマ共同体は指導者を必要とした。しかし、ムハンマドの後継者は神の使途ではない。ムハンマドが神の使途はもう現れないと明言したからだ。
ムハンマドの死の直後、マディーナ先住のムスリムが彼らの指導者を選ぼうと会議を開いた。マッカからの移住組とは別に指導者を選ぶことはウンマ共同体の解体を意味した。ムハンマドの教友アブー・バクル(ムハンマドの義父)は会議の場へ押しかけた。アブー・バクルは短気なウマル(後の第二代カリフ)ともう一人の教友から選んでほしいと言った。ウマルは仰天し、預言者亡き今、指導者はアブー・バクル以外にない、と居並ぶ面々に訴えた。会議出席者は全員一致でアブー・バクルをウンマの指導者に選んだ。
アブー・バクルは代理人・後継者を意味するハリーファという控えめな称号を名乗った。欧米ではハリーファkhalifaをカリフcaliphと綴る。
3-3 後継者問題とアリー
長老たちが会同していたとき、預言者の従兄弟アリーはムハンマドの遺体を清めていた。協議の件を聞いたときは全ては終わっていた。
ムハンマドの晩年、アリーは預言者の後継者は自分だと思っていた。ムハンマドを養育した伯父アブー・ターリブはアリーの父で、ムハンマドとアリーは兄弟同然だった。アリーは幼少時にムハンマドとハディージャの家庭で育った。その意味でアリーはムハンマドの息子同然だった。アリーは男性ムスリム第一号だった。クライシュ族の暗殺の身代わりのリスクを負ったのはアリーだった。クライシュ族とムスリムの戦争で前哨戦としての一騎打ちにムハンマドから指名されたのもアリーだった。
ムハンマドには息子がおらず、娘ファーティマの生んだ孫息子だけが無事に育った。ファーティマはアリーと結婚していた。アリーの息子はムハンマドの孫息子であり、アリーの子孫は預言者の子孫ということになる。アリーとファーティマはムハンマドの家族だった。
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