カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか

隣にいる人との喧嘩に熱中するという悪徳

マンガ表現規制反対運動は「理論家」が不在で、「方法論」だけ隊伍をできるだけ揃えて「運動」が継続している、というちょっと変わった運動だ、と俺は思う。前線から俺はだいぶ遠く長く離れたけど、少なくとも、以前はそうだった。
で、「方法論」の一つに、「心構え」的な「方法論」の一つに、「隣にいる人との喧嘩に熱中するな」というのがあって、過去にも書いたけど、改めて書いておく。
以下は2000年頃に書いた、『「児童売春児童ポルノ法議論」や、カウンター運動に参加する人々へ、お願いしたい、心構え』

1;人は、弱いものだ。

 弱いから、「運動」に負けた後の負のイメージを、ついつい想像してしまう。
 だからこそ、勝った後のイメージを、つねに胸に抱こうとし続けることが、必要だと思う。敗北した後の話に酔っ払うのは、政治の場では、悪徳だと思う。敗北した後の感覚を語りたいのなら、それはマンガなどの中で発散するべきだと思う。

2;人は、視野が狭いものだ。

 視野が狭いので、ごくごく狭い範囲が全世界だと、ついつい錯覚しがちだ。だからこそ、意識的に広いマッピングを心に抱こうとすることが、政治の場では必要だと思う。
 たとえば、人権という視点に立ったとき世界視野からは日本の児童ポルノ法議論はどういう位置付けになるのか、といった広範囲なマッピングをつねに想起することが必要だと思う。
 敵味方の単純な二分法に耽るのは、悪徳だ。隣にいる人との喧嘩に熱中するのは、悪徳だ。すぐ隣にいる人への憎悪をもし発散したいのなら、あくまで政治問題などとは切り離して、自分一人の責任で処理するか、あるいはマンガなどの中へ押し込めるべきだと思う。

3;人は、情緒的だ。

 情緒的だから、政治問題(あるいは、正当性の問題、正誤の問題)を、個人の情緒というバイアスをかけて、ついつい人は判断しがちだ。これは、ネチケットとはどういうものであるか、とか、人として望ましいふるまいはどういうものか、とか、倫理とは何か道徳とは何か、とかが絡んできて、かなり根が深い問題だ。
 だが、少なくとも政治や学問に関連する、正当性や正誤にかかわる事柄では、情緒に帰結させる言論は、NGだと思う。2×2=4は、好き嫌いとは関係なく、2×2=4だ。
 正誤の判定は必要だ。正当性があるかどうかを判断することは必要だ。だが、正誤判定や、正当性があるかどうかの判断の際、情緒のバイアスに敗北して「『2×2=4』ではない!」と言ってしまってはならない。これは、情緒バイアスから心が自由な人が根性いれて頑張るべきで、情緒バイアスに敗北してしまう、心の不自由な人に、要求はできないことだと思う。
 政治議論では、情緒に負けて正誤判定を誤る者が、先に敗北する。

誰が「隣」なのかは各自の内的マッピングによって色々だろうけど、たとえば「ろくでなし子」さんは「隣」だと思う。
[追記2014/12/20]
野間易通も「隣」だ。ああいう痛い奴は、コミケブース一列あたり2〜5人くらいいるだろ。あれは才能はあるけど可哀そうな人なんだからあまり弄るな。
 過去の関連文章 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060407/1144387755 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20090227/1235681961

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