カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか

「人類ダメ小説」と「自己否定論」

http://hirorin.otaden.jp/e409882.html を読んだ。
平井和正初期、「人類ダメ小説」を書いていたのは、学生運動で「自己否定」というキーワードが乱舞していた頃だ。
日本は高度経済成長期に入っていて、ついこの間までの「貧しいアジア」な環境から離脱しようとしている、「貧しいアジア」な時の記憶は残っている、戦争の記憶も自分は持っていないが社会は持っている、その中でエリートとして恵まれた環境の中で企業戦士になるレールは目の前にある、それでいいのか、このレールを否定すべきじゃないか、みたいな「気分」を指すキーワードだったんじゃないかと俺は思うんだが、何せ俺が生まれた頃の話だし、これについてちゃんとした研究はまだ存在しないように思うから間違っているかもしれんが。なんかそんな。
「自己否定」という「言霊」に当時の人は逆に振り回されてしまって、何を本当に自分が求めているのか却って見失ったように感じるが、自分の立ち位置を、自分の存在を、客観的に眺め直そうという試みだったとも思う。
当時は日本社会は消費社会的繁栄に向かって凄いドライブがかかっていた頃で、今の中国のようなもので、余計な話だが今の中国人旅行者は当時の農協旅行者を再演している。で、大学生はまだ社会少数エリートで、とはいえ一世代前よりずっと量が増えて大衆化してしまったからトップエリートになれる道は減っていて、社会は豊かになってきているから、2流以下、3流のエリートコースはありますよそれで満足しなさい、心の空虚は耐久消費財で埋めなさい的な社会環境があって。
社会繁栄を支えているのが朝鮮戦争ベトナム戦争に協力しているからだという、道徳的な裏切り感覚があって。誇るべきかもしれない社会繁栄は岸信介昭和天皇のような戦犯によって牽引されたという社会道徳的モヤモヤを抱えて。みたいな。
そういう社会環境に「否」を唱えるためには、そういう環境でエリート予備軍になっている自分をも否定しないとまずいんでは、否定しよう、自己否定。
みたいな。
自己の立ち位置を客観視し、さらにその恵まれた国家資産社会資産歴史資産を適切に利用して、もっと道義的倫理的に輝くイデアな展望を拓こうという、建設的な方法にあまり行かなかったのは、一つには日本が社会科学の成果を行政に反映させない、拒絶する、たとえば公害という社会悪が眼前にあっても「科学」は目の前にある公害被害者と加害企業を結び付けないために利用され、その因果関係を表明する科学者を排斥するみたいな政治的力がまたもや道徳的裏切り感覚を強めて。みたいな。
当時の人たちが「自己否定」という言葉に何を託したのか、は、今ならもっと冷静に語れると思うので、今からでも研究がなされてほしいと思う。
で、そういう「自己否定」をSF的に厨2的に拡大して、スーパーヒーローに語らせたのが、「人類ダメ小説」だと。
以上、http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20150119/1421675645 の続き。

感じるところのあった方は   にほんブログ村 政治ブログへ  をクリックされたし。