カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

司馬遼への長い道とか

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創作家に復帰できるほど余命が残っていないと思うので、以下、ムチャクチャを書くが。
以前 http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20130305/1362492938 で

司馬遼太郎的作風で、オラニエ公モーリッツ(マウリッツ)、スウェーデングスタフ・アドルフマリア・テレジアとかを書けばけっこう読者を期待できると思うんだが、どんなもんだろうね。
司馬遼的作風というのは…「なんとなく知っているけどいまいち知らない」歴史人物を、「なんちゃって歴史学」的にマクロ視点、ロマン小説的にミクロ視点、を交互に読者提示して、当然主役はヒーローとして描いて、「読み終えた後、その時代について詳しくなったし、読んでいる間退屈しなかった」という感想を持たせるよう歴史的事実に様々虚構と手前勝手な情念を込める、というものである。西洋史の英雄については、躓きやすく覚えにくい人名地名について毎回司馬的薀蓄を記述すればそれっぽい感じになると思われる。

と書いたのの続きを。
マーケティング的には塩野七生だというコメがありましたが。それには同意するのではありますが。
司馬遼太郎は一人で「国民作家」になったのではなく、司馬遼太郎になり損ねた死屍累々とのレース上で司馬遼太郎が勝ち残ったのでありまして、塩野七生司馬遼太郎になり損ねた死屍累々の一人だと俺は思っているのであります。
司馬遼太郎の何が優れているのかというと一つには文体でありまして、司馬遼太郎文体に似ているのは一番に西村寿行、次いで夢枕獏だと思うのであります。
西村寿行の乾いた短文を積み重ねる文体と、司馬遼太郎の短文を積み重ねる文体はよく似ていると思うのであります。
しかしながら西村寿行を読む読者は「俺はエロを読んでいるんじゃない、寿行のハードボイルド小説を読んでいるんだ」という自意識を持つのでありまして、同様に司馬遼太郎を読む読者は「俺はエロなアレを読んでいるんじゃない、教養的な歴史小説を読んでいるんだ」という自意識を維持しようとするのでありまして、司馬遼太郎作品は西村寿行作品に通ずる下品さが埋設しているのですが、「歴史ポルノ」的な下品さと書くと言い過ぎではありますが、ちょっとそれが埋まっているのであります。だから歴史家は「司馬史観」に困り果て、新自由主義は「司馬史観」をスプリングボードとしたのであります。
司馬遼太郎は一応歴史の通説に目を通した上で、あまり歴史的事実から大外れしないという枠組みで、歴史上の人物に仮託して自分の情念と言いますか欲動と言いますか、それを語ったのであります。
西村寿行の場合は歴史は無関係で己の情念と欲動と「男根様」を語りまして、西村寿行の方が己の欲に正直であり、司馬遼太郎の方が欲を抑制しているのでありますが、どっちを選ぶかは掲載誌に「LO」を選ぶか「月刊チャンピオン」を選ぶかみたいな、あまり違わないか、というか自分の欲動をどの辺に仮託するかの筆者の気分というかバランス感覚みたいな。

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ここで話は全然変わるのでありますが、日本社会の世界史歴史小説分野で「司馬遼なり損ね死屍累々」の絶対量が足りなすぎるのだと思うのであります。
司馬遼には娯楽としての講談文化が前提としてあって、その講談文化を洗練させて、という回路があり、その果てに「国民作家」司馬遼が生まれたのでありまして、さらにその延長線上に現在『風雲児たち』という傑作が現在進行形で存在するのでありますが。
世界史と日本史は、世界史の側から見ると16世紀に軽い接触があるがそれは無視ししていい程であり、19世紀から接触が本格化するがそれまで無関係に進んでいたので相互にたいして関係性がなく、つまり日本史を19世紀まで完無視しても世界史の方はビクともしないという関係性にありまして。
ところで世界史というのは「現在の自分の社会はどういうルーツを持つのか」という選択基準で選ばれたエピソードの集成でありまして、日本の法体型や現在の日本文化のルーツの多くは、イタリアルネサンス三十年戦争以降のヨーロッパ史にかなり多くを負っているのでありますが、日本の歴史教育はあまりそういう視点を持ち合わせず、そもそも中学校くらいまでの歴史教育には世界史は全然登場しませんので、世界史の講談文化なぞ日本には全然ないのであります。
それって俺的には良くないことだと思うのであります。
俺が人生のけっこうな時間を費やした「表現の自由」関係って、つまるところドイツ三十年戦争がルーツで、それをどう血肉化させるかで「表現の自由」になぜ価値があるとされているのかの解釈が変わってくるのであります。というか価値が日本人には判らないまま終わってしまう可能性が。
余計な話ですが江戸時代に発禁がなされたのは、「多色刷りは贅沢であり、贅沢は庶民を堕落させる」という価値観に寄るのだそうでありまして、日本人的には納得がいってしまうところもあるのですが、その価値観を「異様だ」と見る視点がなければ俺らに「表現の自由」を語れる能力はないと思うのであります。

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ていうか先日ポール・アンダースンの『タイム・パトロール』を読み返してみたのですが、初読は中学生の時だったのですが、世界史を毛ほども教わっていない中学生には『タイム・パトロール』を娯楽として読むのが無理だと50歳近い年齢での再読で改めて思いまして、もっと早い段階で世界史に触れる回路がほしいなとか思いまして。

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