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カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか

「政治的に雑な扱い」だから日本ではまだ「ロリコンを自称する自由」が残っているのだと思う

http://anond.hatelabo.jp/20160424055710 に関係して。

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俺はペドファイルなマンガ家として売っていたくせに表現規制反対関係でわりと政治活動市民活動の前線に近いところにけっこう長くいたので、「政治的有効性」だけしか以下ほとんど語らないけど。

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若林宣さんは、マンガ防衛同盟(90年代末に存在した表現規制反対活動中心団体)の頃から、表現規制反対関係でそれなりに政治的活動をなさっていた(やや微温的に)。若林宣さんは彼の内面にある政治的正しさに沿おうとして発言なさっている。と思うたぶん。別な言い方をすると、政治メッセージ的枠組を若林さんは無自覚に前提している。で、若林さんはたぶんロリコン属性を持っていない。

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表現規制反対関係では、ペドファイル表現規制関係の前線に立って政治戦略的に有益な場面というのは、ほとんどない。ていうか、ない。

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結論だけ言うと、ペドファイルは、政治的に雑に扱われているから日本ではどうにか糾弾対象になっていない。
この点で日本は「ガラパゴス」的である。世界標準ならとおに「自分はペドファイルだ」と発言した瞬間「人類の敵」認定だと前提していいと思う。

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俺が調べたのはずいぶん以前のことだが、90年代時点で、オランダ以外の(今ではたぶんオランダでも)先進国ではペドファイルは基本的には「人類の敵」扱いである。政治的左右を問わず。英米圏と北欧では特に。カナダ辺りは強烈に。それからもう20年が経過している。
で、俺はそういう前提をディープなロリコン、マニアックなペドファイルとして、90年代時点で知っていた。ので、そういう前提の範囲で俺は児ポ法成立過程で動いた。

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児ポ法成立過程当時90年代末は、有象無象のペドファイル集団がそれなりにぐにょぐにょ動いていた(くだを巻くとも言う)のを俺はそれなりに観察していた。が、俺の目からは政治的に有害無益な動きばかりだった。良くて無益、悪くて有害。後者が多かった。

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知らなくてもいいことだけど、60年代性文化革命の余波で欧米圏では70年代末にチャイルドポルノブームがあり、日本では80年代にロリコンブームがあり、日本でのロリコンブームは「幼女への性的眼差し」を発見してしまい、欧米チャイルドポルノ輸入がエロ産業の一角を占め、日本では思春期早期・思春期以前の女児を撮影対象としたソフトポルノが一定の規模となり、宮崎勤事件で社会にロリコンが「発見」され糾弾され途絶え、その後経済格差や国際政治的強弱関係をフリーライドする形での東南アジア幼女を撮影対象とするソフトポルノが一時生産され、ある程度の部数になっていた時期があり。で、児童ポルノ法成立により現在は社会から実在児童を使ったソフトポルノは、たぶんほぼ消えたと俺は想像するんだが、00年代以降のエロ産業については知らない。

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で、90年代後半から00年代に表現規制反対の論陣を張る際、特にAMI時代に以下のように論理展開した。
8-1;議論から三次元(実在児童を性対象とするケース)を切り離す。これにより理屈がすっきりして説得力がでる。
多数のオタクが危惧するのは、オタク的表現が全てペドファイル(人類の敵)的表現と見なされ一律に禁止されることだ。
同時代の韓国のマンガ界には、全ての「裸」表現(歴史漫画で原始人を裸体で描くことを含む)がハードコアポルノとして糾弾されていた、という前例があった。
日本の「ふつうのオタク」(あるいは「ふつうのペドファイル」)が想像するより、世界の「マンガ表現の自由」はずっと狭く標準化されている、ということをAMI時代の仲間は知っていた。
8-2;AMI時代も、「もっとロリコン趣味を肯定的に評価発信していいんじゃないか」という意見は一部ロリコン趣味者からはしばしば出た。
しかしながら、00年代には「ペドファイルは性対象の人権を考慮しない人類の敵」ということで世界的にはすでに確定していた。
俺は幼女性虐待マニアだったから知っていたけど、80年代末ぐらいから児童性虐待が英米圏で政治的課題になって、90年代にそれが世界問題になって、そこで問題になった一番のケースは米軍駐留兵士が過酷なストレスを解消するために駐留地に近い歓楽街であるタイやフィリピンの幼女を買春することでこれの産業規模が伝聞範囲だとけっこう大きくて、同時代の日本の海外出張者もこの幼女売春宿を多数利用して、でそれが国際問題化して、国際問題化するとき一番頑張った国際組織がECPATで。ECPATの日本国内関連団体が頑張って「市民活動」やロビイングして「児童ポルノ法」が90年代に日本でも浮上した。*1
8-3;他の国のケースは知らないけど、日本ではなぜかECPAT東京日本ユニセフがマンガ規制にばかり熱心で「実在児童の救済」に全く何の関心もなく、そっちに話題が向くのを全力で拒む*2というのを経験的に知った。のもあって、AMIの主張は、"本来あるべき児ポ法(やそういう何か)は「実在児童救済」が主であるべきで「表現」は規制するべきではない"、というものとなった。この主張は説得力あると思うし、どこも間違っていないと思う。

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政治的状況は上記のとおりで、ここに「ペドファイルの内面救済」なんていう「文学的」問題なんて出番がない。説得相手を混乱させる以外の効果しかないので、議論から切り捨てる方が利口である。*3
ペドファイルの内面救済」は「文学的」問題だから、フィクションのほうでどうにかしてもらいたいというのが、ロビー活動など政治的アクティブに関わっていた人の本意だったし、今も本意。

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「現実とフィクションの区別」とはパラレルに、「政治と文学の区別」というのがあって。
「政治」的場面では、「児童性虐待加害者を擁護しない」という枠組みの中でしか言説は流通できない。
「文学」は「これは"政治的"なものではない」と前置しておくことによって、政治的な悪を描ける、という枠組みになっている。
ペドファイルは(聖人から凶悪連続殺人者までのグラデーションはあるが*4)、児童性虐待加害者とほぼ同義であるというのが、世界標準での政治的枠組みだ。
なのでペドファイルの内面救済は、文学「が」、あるいは文学「で」、どうにかしてもらうべき課題だ。「政治」側からは。
もちろん文学は人の内面に働きかけるものだから、それにより遠まわしに「政治」へ影響を与えることはある。表現規制者は、自覚していようがいまいが、それを恐れて表現を規制しようとしている。

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http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20160417/1460904843 でも書いたが、ペドファイルの内面救済問題って政治的にはそれ自体「趣味的な」「無視できるほど少数者で、それが原因で死ぬことはほとんどない程度の問題」だ。だから扱いは「政治的に雑」だ。
もしも存在感をゴツンと示す文学的作品でも生まれたら別な次元に移行するかもしれないけど。
ペドファイルは、その本人は「それが原因ではあまり死なない」が、性対象である児童はそれが原因でけっこう死んだり、深刻な精神外傷を負う。そこまで視野に入れた文学やフィクションは成立しても、そこまで視野に入れた政治的アクションは俺には想像できない。
だからペドファイルは「政治的に雑」なままで、だから日本ではかろうじて自称できる程度に「自由」が残っている。
それを不満に感じるなら、丸っきりロリコン趣味なんて持たない人間を、一読するなりロリコン趣味者にしてしまう程の魔力的文学作品を君が書けば*5、ひょっとしたら「政治的に雑ではない」社会が来るかもしれない。その社会が君の望む社会に似ているかどうかは判らないが。

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*1:「知っている」と書いたが、「駐留米軍兵」「米軍」という言葉は俺の読んだECPAT関係の本には実際には出てこない。だがタイやフィリピンの買春歓楽街は米軍兵を顧客として誕生し育成した、はず。

*2:思想的にはこの二団体が家父長制的性嫌悪とラディカルフェミニズム的性嫌悪の悪魔合体だから。性被害者救済に関しては視点を変えるとその後さらにちょっと複雑な過程が近年発生したけど、複雑すぎて俺はちゃんと観察できていないので言及はここまでとする。

*3:説得相手は、ロリコン趣味になんて興味関心ないし(下手に関心持ったらふつう「先進国価値観では『人類の敵』であり、それ以上の議論など不要」以外には発展しない)、マンガにも関心ないし、オタクにも関心のない、中立的な政治家だ。似ている一番イメージしやすい例は「自分の父親を説得する」ケース、「自分の母親を説得する」ケースだ。

*4:ペドファイルへ対して最大限「政治的正しさ」を配慮した表現。

*5:俺もエロマンガ家していた当時はいつかはそういう作品を描こうと心中ひそかに思っていた。政治活動している間に「社会を見る目」が激変したのでそういう欲求が内面から枯れた。