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カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか

英雄アフガーニー略伝、19世紀最大のムスリム改革者

タミル・アンサーリー『イスラームから見た「世界史」』455p〜491pから、英雄アフガーニーについて以下抜粋する。

第十三章 改革運動  西暦1737〜1918 
イスラームの改革と復興への三つのアプローチ
18〜19世紀オスマン帝国後期から、イスラム世界は西洋文明に押され、ムスリムは自己改革を迫られるようになる。
イスラムの改革運動は大きく三分類できる。
1;ムスリムがなすべきことは、西洋の影響を排して、原初の純正なイスラームを復活させることである。 → サウード-ワッハーブ同盟〔原理主義的方向〕
2;ムスリムは迷信を一掃し、科学や世俗的な活動と両立しうる倫理体系としてイスラームを見直し、信仰を西洋式に近代化すべきだ。 → 代表人物サイイド・アフマド〔世俗主義近代主義、欧化主義〕
3;ムスリムは真の宗教だが、西洋の科学技術を吸収しなければならない。ムスリム独自のやり方で近代化ができる。科学はムスリムの信条と両立する。近代化は必ずしも西洋化ではない。 → 代表人物アフガーニー〔イスラーム主義者の近代主義、「和魂洋才」的方向〕

サイイド・ジャマールッディーン・イ・アフガン(アフガーニー)

アフガーニー〔1839年-1897年〕は19世紀最大のムスリムの改革者だ。アフガニスタン人はアフガーニーをアフガニスタンのアサダーバート町出身だと主張する。イラン人はアフガーニーはイランのアサダーバート町出身だと主張する。
今日のムスリム諸国政府の多くはアフガーニーを極めて高く評価している。が、生前はいずれの政府も彼を厄介者とみなして国外に追放した。
アフガーニーは18歳前後でインドへ行った。マッカ巡礼中インドの大反乱(セポイの乱 1857-1859年)が起き、急遽インドへ戻った。イギリスによる報復行為を目撃した。植民地主義への反感を終生抱いた。

アフガニスタン

バーラクザイ朝国王の信認を得て長子ムハンマド・アーザムの家庭教師に雇われた。アーザム王子に改革主義的思想を叩き込んだ。アーザムの治世は短かった。従兄弟がイギリスの支援の下、アーザムを王座から追放した。アーザムはイランに亡命し没した。アフガーニーは小アジアへ渡った。

小アジア

コンスタンティノープル大学で講演を行なうようになった。ムスリムは近代科学を学ぶ必要があるが、同時にイスラームの価値伝統歴史を子どもたちに教えなければならない。ムスリムイスラームそのものの中にイスラーム流の近代化に不可欠な要素を一つ残らず見出すことができる。このメッセージは好評を博した。オスマン帝国政府高官になることも夢ではなくなった。
アフガーニーはウラマーイスラム法学者たち〕を科学の遅れの元凶として激しく非難した。有力な宗教指導者たちはアフガーニーを敵視し、結束して彼を国外に追放させた。1871年、アフガーニーはエジプトに移住した。

エジプト

アフガーニーはアズハル大学で学生に講義し講演した。
アフガーニーは裕福な有力者たちの腐敗を批判した。
アフガーニーは議会制民主主義を要求した。民主化は必ずしも西洋化ではないと主張した。イスラーム流民主主義の基盤は、シューラー(合議)とイジュマー(合意)というイスラーム独自の二つの概念に見出した。
最初のシューラーは、第二代カリフのウマルがおのれの後継者を選ぶために設けた少人数の委員会だった。このシューラーは彼らが推す候補者をマディーナのムスリムたちに承認してもらわなければならなかった。当時のムスリム共同体は小規模だった。シューラー民主主義はタウン・ミーティングと同様の直接民主制だった。こうしたモデルをエジプトのような巨大な国にいかに適用するかは別な問題だった。
イジュマー(合意)は、預言者ムハンマドの「わがウンマイスラム共同体)は誤りにおいて合意することなし」という言葉に求められる。ウラマー(法学者)はこれをウラマーの合意と解し、その合意へ新たな疑問を呈したり議論することは許されないと主張した。アフガーニーはその適用範囲を広げた。シューラーとイジュマーを根拠に、「イスラームにおいては、臣民の支持なくして統治者は正当性を有さず」とアフガーニーは主張した。
1879年、アフガーニーはエジプトを追放された。インドへ向かった。

インド

サイイド・アフマド(前述)の始めた欧化主義運動をアフガーニーはイギリスにへつらう腰巾着とみなし、公然と批判した。イギリスはアフガーニーを投獄し、国外追放した。パリへ向かった。

パリ

アフガーニーは英語、ペルシャ語アラビア語ウルドゥー語、フランス語で書いた論説を様々な雑誌へ寄稿した。彼はこれら言語をすべて流暢に操り明晰に表現できた。
当時のフランスではエルネンスト・ルナンという文献学学者・宗教史家が、ムスリムは生まれつき科学的な思考ができないと論じていた。ルナンは中国人は「手先は驚くほど器用だが名誉を重んじる心をまったく持ち合わせていない人種」であり、ユダヤ人は「不完全」であり、「黒人」は畑を耕しているときが一番幸せであり、ヨーロッパ人は生まれながらの主人と兵士であり、それぞれの人間が「そのためにつくられた」ことだけをしているなら、世界は万事うまくいくだろう、と述べていた。
アフガーニーはソルボンヌ大学でルナンと史上名高い、少なくともムスリムのあいだではよく知られた論争を行ない、イスラームキリスト教ほど「科学的」でないように見えるだけで、それはイスラームのほうがのちに創始されたがゆえに、キリスト教よりいくぶん発達が遅れているからに過ぎないと主張した。
パリ滞在中、アフガーニーはエジプト人の弟子ムハンマド・アブドゥとともに『固き絆』と題した新聞・政治評論誌の発行を開始した。一八号までで資金が尽き停刊した。が一八号までで「汎イスラーム主義」と称される信条の核心部分を確立した。彼は以下のように言明した。当時のさまざまな局地的紛争は別個の闘争ではなく、イスラームと西洋という二つの地球規模の存在が繰り広げている大きな闘争なのだ。アフガーニーは史上初めて、イスラームと西洋という二つの言葉を同格のカテゴリーとして、歴史的に対立するカテゴリーとして用いた。
この頃短期間、アメリカも訪れた。その後ロンドンへ向かった。

ロンドン

ウィンストン・チャーチルの父ランドルフチャーチルなどイギリス政界指導者たちと何度か会い、イギリスのエジプト政策について議論した。
この間ドイツも訪れ、ロシアの首都サンクト・ペテルブルグにもしばし滞在した。
『固き絆』が停刊となったため、ヨーロッパにとどまる理由がなくなり、ウズベキスタンへ移動した。

ウズベキスタン

ロシア皇帝統治下にあるムスリムクルアーンを広めるため、帝政ロシア政府当局と交渉しクルアーンを出版する許可を得た。中央アジアでは過去何十年も手に入らなかったイスラーム文献を翻訳出版して普及させる許可も取り付けた。こうした努力が実って、中央アジア全域でイスラームが復活した。
アフガーニーはこの地で久しく暖めてきた構想に肉づけをした。ムスリム諸国が自力で独立した生存権を獲得するためには――ロシアと提携しイギリスに対抗し、ドイツと提携しロシアに対抗し、英仏と提携してロシアに対抗するというように――ヨーロッパ列強間のライバル意識を利用する必要がある、というものだった。かかる構想は20世紀に国際的「非同盟運動」の中核戦略として現出した。
1884年にアフガーニーはイランに移った。

イラン

イランでは司法制度改革を目指したため、地元ウラマーイスラム法学者)と正面から対決することとなった。事態が紛糾しアフガーニーは中央アジアに逃げ帰った。
1888年、イラン王ナーセロッディーン・シャーが宰相としてイランに戻るようアフガーニーに要請した。イラン国王は臣下のウラマーとの権力闘争で進退窮まっており、アフガーニーの「近代主義」が国王の大義を救うと期待した。
アフガーニーは王の特別顧問としてイランに戻った。
それにもかかわらず、アフガーニーは国王その人と王が植民地主義列強に経済的「利権」を売り渡していることを非難するにいたった。
アフガーニーのイラン滞在中、タバコ利権を入札なしにイギリス投機家に譲渡したという利権売渡の最悪の事例が出来した。
アフガーニーはタバコのボイコットを呼びかけた。これはのちにさまざまな地域に多種多様な政治活動家、インドのガンディーなど、が採用することになる戦略の嚆矢となった。民衆はイランの通りという通りでシャーに抗議するデモ行進を繰り広げた。
アフガーニーの手紙に刺激されたシーア派最高指導者はタバコ使用の禁止教令を発した。
シャーは軍隊をアフガーニーの家に派遣し、国境まで彼を連行させた。アフガーニーは1891年イスタンブルへ向かった。

イスタンブル

オスマン帝国のアブデュルハミト2世〔34代スルタン〕はアフガーニーに家と固定給を与えた。
アフガーニーは教育と執筆と講演に従事した。イスラーム世界のあらゆる地域から、知識人や活動家が彼のもとを訪れた。
この偉大な改革者は彼らに対して、イデュティハードすなわち「自由な思考」こそイスラームの最も重要な原理であるが、自由な思考はクルアーンハディースムハンマドの言行録〕に基づく根本原理から出発しなくてはならないと説いた。
ムスリムはすべて男女にかかわらず聖典と啓示を独自に解釈する権利をもつが、共同体としてのムスリムは啓示に埋めこまれた諸々の根本原理を体得しなければならない。
ムスリムが犯した大きな過ちは――それがムスリムを弱体化させる原因となったのだが――西洋の教育制度や社会慣習を信奉する一方で、西洋の科学に背を向けたことだ、とアフガーニーは主張した。
ムスリムはその正反対のことを実行すべきだった。つまり、西洋の科学を信奉しつつ、西洋の教育制度と社会慣習には門を閉ざすべきだったのだ。

1896年イラン学生がイラン王ナーセロッディーン・シャーを暗殺した。イラン政府はこの事件の責任をアフガーニーに負わせ、イランに引き渡すようオスマン帝国に要請した。
オスマン帝国アブデュルハミト2世はイランの要請は拒否したがアフガーニーを自宅軟禁した。
この年、アフガーニーは顎の癌に侵された。ウィーンで治療を受ける許可を求めたが、スルタンはこの要望を却下し、侍医をつかわし治療に当たらせた。この宮廷医は癌を治療すると称してアフガーニーの下顎を取りはずしてしまった。
アフガーニーは1897年3月に亡くなり、小アジアに埋葬された。その後、彼の遺体はアフガニスタンに移送されて、改めて埋葬された。彼の墓はアフガニスタンのカーブル大学キャンパス中心部に置かれている。

アフガーニーは指導者として公式の称号や地位を得なかった。軍隊を持つこともなかった。いかなる政府においても正式な官途に就かず、政党を創設することもなかった。使用人も部下ももたず、彼から命令される立場の人は一人もいなかった。
アフガーニーはまとまった数の著作を残さなかった。
アフガーニーは純然たる論客であり、民衆扇動家であり、反逆者だった。
それでいながら、彼はイスラーム世界にとてつもなく強烈な影響を及ぼした。それは彼の「弟子たち」のなせる業だった。彼はある意味で預言者のように行動し、そのカリスマに満ちた強烈な個性が彼の赴く先々で導火線に火をつけた。

弟子のムハンマド・アブドゥはアズハル大学学長になり、エジプト屈指の宗教学者となった。彼はアフガーニーの近代主義思想を練り上げて体系化した一連の書物を著わした。
アフガーニーの弟子ザグルールはワフド党を結成した。ワフド党は民族主義政党に発展し、エジプトの完全独立を目指す広範な大衆運動を指導した。
スーダンでは宗教指導者となったアフガーニーの弟子ムハンマド・アフマドが「マフディー〔救世主〕」宣言を行い、民衆の支持を得てイギリスに激しく抵抗した。〔マフディーの反乱〕
イランではタバコボイコット運動によって一群の活動家が生まれ、20世紀の立憲運動を推進した。
アフガーニーはアフガニスタン生まれでトルコ在住の知識人、マフッムード・タルズィーにも感銘を与えた。たるズィーはアフガニスタンに帰国し、アフガーニーに倣って、王子アマーノッラーの家庭教師になった。王子はやがて近代主義を奉ずる国王となった。アフガーニーの誌から22年後、イギリスからの完全独立を達成し、アフガニスタン主権国家と宣言した。

アフガーニーの弟子にも弟子たちがいた。弟子から弟子へと伝えられるにつれて、その信条やメッセージは変化していった。ある一派は過激な政治的立場をとるようになり、別の一派は民族主義を志向した。また、ある一派は開発至上主義を奉じるようになった。
ムハンマド・アブドゥの弟子でシリア人の神学者ラシード・リダーは、イスラームを国家の基礎に据えるための理論を練り上げた。
やはりアフガーニーの知的子孫とみなせるのが、ムスリム同胞団を創設したサン・アル・バンナーだ。
アフガーニーという、情熱と機知に富んだ人物の影響は、彼が慌ただしく彷徨したイスラーム世界の隅々にいたるまで、今日もなお響き渡っているのである。

イスラームから見た「世界史」

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