カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

田舎の生活とか、政治関係とか、表現規制のこととか、狂乱している老母との生活とか

老父の永眠(2018年11月)

1

11月2日(金)、老父がお菓子を喉に詰まらせた。
老父は要介護2で、認知症が進行していて、咀嚼能力が衰えているのに、つまみ食いをしたがるという状態が続いていた。
なのでお菓子を放置しておくのは危険なのだが、後で気づいたのだが、我が老母がその日の朝購入し放置していた。それを家族不在のタイミングで老父がつまみ食いし、窒息した。
窒息して、レジのところで老父が崩れ落ちた。崩れ落ちたところを嫁が発見し、店の前にいた俺を呼んだ。
後で考えると、そのとき俺がすべき正解は、窒息物を吐き出させるために、老父の後ろから羽交い絞めして、みぞおちのところに拳を固めて強く押す、ということだった。
「どうすればいい?」と動転する嫁に、救急車を呼んでもらい、救急電話の指示に従って心臓マッサージをした。老父は一度、目を見開いた。あれが俺との別れのメッセージだったように俺は解する。
救急車が来て、老父と、付き添いで嫁が病院へ向かった。
その時点で老父は心肺停止状態だったので、警察が検分に来る、対応してほしい、と救急職員から言われた。
警察が来て検分した。防犯カメラを昨年くらいから設置してあったので、それで窒息時の状況が確認できた。
警察の検分が始まるタイミングあたりで、老母の妹の夫が車検を終えた車を届けに来た。彼は自動車修理工場を営んでいる。親戚の中では俺と最も親しい叔父さんだ。老父が倒れたことを叔父さんに伝えた。
それと前後して嫁から、「至急、父に会わせたい人、近親者を呼んでくれ」との電話があった。
警察が検分している最中、老母が「店舗」に戻って来た。状況を説明した。老母は色々変なことを言いながら、病院へ向かった。
警察の検分が終わった後、嫁が戻ってきた、のかな。このあたりよく覚えていない。
入れ替わりで、俺も病院へ向かった。
医師から説明を受けた。一旦停止していた心肺は動き出したが、窒息が15分以上続いたので、脳の機能は戻らない。次に心臓が止まった時に蘇生措置をするかどうか尋ねられた。次に心臓が止まったら蘇生措置はせず、それでおしまいにしてください、と俺は告げた。
今日明日が山だ、と医師が告げた。
老母と、老父の姉は、その日から数日、泊まり込んだ。
俺も老父の病室に一日の半分以上の時間いた。
金土日を挟んでいたので、俺の妹など親族も見舞いに来れた。

2

老父はそれから約11日間命をつなぎ、11月13日(火)の朝に亡くなった。11日間命をつないでくれたお蔭で、老母の錯乱もそれなりに収まり、老父の死を老母も受け入れることができた。
医師が死亡診断したところで、葬儀屋とお寺へ電話した。
老父は葬儀屋の会員になっていたので、その後の葬儀関連の手続きはわりとスムースだった。とはいえ、事前に映画『お葬式』を観てシミュレーションしておけばよかった、とは思った。
老父の遺体は、村中にある、俺と嫁が寝泊まりしている「離れ」へ運んだ。この「離れ」は俺が生まれた頃まで老父たちが生活していた「実家」だ。

3

この「離れ」のうち、俺と嫁が寝泊まりしている部分以外の空間は、11月3日に老母が新興宗教の仲間とバザーをするための準備室倉庫として、老父が倒れた11月2日まで使われていた。
老父が危篤になったので、バザーは中止となり、バザー用物品は老母の妹さんと老母の従姉たちが片づけ、「離れ」の清掃をしておいてくれた。
老父の遺体は、この「離れ」へ運ばれた。我が村には「仁義」という風習があり、通夜までの間、親戚や生前の知人たちが、「離れ」で遺体に線香をあげに来た。
葬儀屋さんと打ち合わせ、11月15日(木)通夜、11月16日(金)火葬、告別式、というスケジュールに決まった。
方丈さんと打ち合わせ、戒名には、「慈」という文字と、老父の曽祖父の戒名から文字をもらうよう要望した。老父の曽祖父は、すってんてんの極貧から平民レベルまで一代で財をなした働き者だ。老父はすってんてんの極貧の原因を作った先祖と同名だったが、生き様はむしろその財を成した方の曽祖父に似ている、と、生前の老父に言ったところ、ずいぶんと喜んだ記憶がある。のでその名に因むのが供養になると思った。

4

通夜葬式の際の香典帳場は、自治会の同じ組の人たちにお願いした。人が足りないので組が違うご近所さんにもお願いした。
地元の風習に関してと、我が老母のヒステリー対応には、老母の兄の長男がずいぶん力になってくれた。前述の、老母の妹夫妻が相談相手として最も力になってくれた。地元の風習については、老母の従妹の夫も力になってくれた。
老父の血筋の従兄弟は、俺以外の男は、県内では絶滅していていて、ほとんど頼れなかった。俺の祖母の実家の家はずいぶん本気で力になってくださった。
「離れ」での老父の遺体を見ているうち、老父の顔を見るのももう最後だな、と思い、久しぶりに本気モードで老父の似顔を描いてみた。親族へ見せたら受けが良かった。似顔絵は棺に納めた。

5

通夜葬式の喪主は俺なのだが、その際の口上・挨拶を、妹一号が張り切って下書きした。俺としては「できるだけミス少なく済ませる」ことを優先し、葬儀屋さんからもらった定型文に沿って口上を述べた。
妹一号は独身でもあるので妹として考えず、弟として考えるべきだ、と、俺は嫁から指摘された。そうか。たしかにそう考えるほうが適切だろう。弟として考えれば、妹一号の張り切りぶりは、ストンと腑に落ちる。

6

葬儀の翌週、富士山マラソンがあった。俺の施設は給水所なのもあって、毎年けっこうたいへんなのだが、今年は葬儀から連続している感じがあって、特にたいへんだった。

7

老父の命日から数えて四十九日は、大晦日に当たった。なのでその前の週、12月22日(土)に老父の四十九日法要を行った。12月のこの週は三連休なので、本当は24日(月)昼が一番望ましかったが、クリスマスイブに法事をするというのも変だし、その前日は天皇誕生日で連休中日なのでそれも避けたいので、22日昼に行った。
寺で法要をしたのち、墓に納骨した。我が村は30年位前まで土葬だった。現在の墓石は20年位前に父母が建てたものだ。なので、我が家の墓の納骨一号は老父だ。
この納骨堂には、この後、老母と、俺と、俺の嫁と、俺の妹一号が納まることが確定していて、俺の娘はこの墓に入るかどうか判らない、で、俺の家は基本的にはそこでお終いなんだな、とか思った。*1

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