カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

モラルの焦土

 モラルを説きたがるのは十五年戦争指導者どもの後継者たちだが、少なくともこの地上で最もモラルから遠いのは、十五年戦争指導者どもだった。彼らは終戦直後の数週間、証拠隠滅作業に没頭した。米軍は日本へすぐに上陸しない、というかたちで、それを容認・黙認・黙示的に推奨した。

国家がかりの証拠隠滅作業

 〔略〕長い戦争のあいだ、戦士たちは降伏を禁じられていた。〔略〕戦火が本土に近づくと、非戦闘員も最後の最後まで戦い、「玉砕」して死ぬのだと教え込まれた。しかし天皇の放送〔玉音放送。終戦の詔勅〕のあとで本当に砕け散る玉の道を選んだ者の数は、予想よりも少なかった。数百人――その大部分は軍人――が自殺したが、この数は、ドイツが降伏したとき自殺したナチス将校の数とほぼ同じである。ただし、日本とちがって、ドイツには国を愛するがゆえに自殺するという狂信的な考え方は存在しなかったが。

 実際、天皇による八月一五日の重大放送の直後、政府組織のレベルで起こった目立った行動は、きわめて実際的で、自己保全をねらったものであった。全国の軍将校文民官僚たちは、書類を焼き捨てたり、軍の貯蔵物資を密かに売却する仕事に没頭した。天皇の放送でアメリカの空襲は終わったけれども、東京の空はそのあと何日も煙で暗かったなどと、少々誇張を交えて言われたものであった。主人である天皇の先例にならって、戦争を率いたエリートたちは戦争中の自分たちの行為を何とか隠すために書類を燃やした。その焚き火が、焼夷弾の火の海にかわって東京の空を暗くしたというのである。

 〔略〕アメリカの空襲のやりかたに特異な傾向があったことも見て取れた。たとえば、首都のなかでも貧民層の住居や小規模な商店街や町工場は徹底的に破壊されていたのに、高級住宅街の金持ちの家は多くが焼けずに残っており、占領軍の将校たちを収容するのにおあつらえむきになっていた。〔略〕被害を受けなかったといえば、戦争末期に日本の軍部の司令部の大部分が置かれていた建物もそうであった。まるでセンスのいい皮肉のように、やがて勝者たちは、戦争の最高指導者たちを戦犯として裁く裁判所として、この建物をあてた。〔略〕アメリカの空襲は、日本に存在する富の上下関係をそのまま肯定したかのようであった。

  出典;ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて・上巻』(岩波書店、2001年)p30-p42。

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人

 敗戦後の数週間、そして数ヶ月の間に、日本の戦争犯罪や国家指導層の戦争責任に関する膨大な量の機密文書が、八月一四日の鈴木内閣の決定にしたがって、焼却された。

  出典;H・ビックス『昭和天皇・下巻』(講談社、2002年)150p。

昭和天皇 下

昭和天皇 下

 このように証拠隠蔽に膨大なエネルギーが費やされたことを無視し、「証拠がないから南京事件はなかった」といった暴論吐く連中は呪われろ。豚。
 しかも、かろうじて現存する史料は、非公開になっている。
http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050213/1108284723

皇族内閣である東久邇内閣が、政官・暴力団の構造を準備した。

 〔略〕軍隊の無秩序化と軍需物資の持ち出し、軍隊内部の無統制ぶりが目に余るにつれ、軍人に対する民間の尊敬の念は崩れ去った。軍人は、自分たちが民間の侮蔑の対象になっていることをたちまち思い知らされた〔原注1〕。〔略〕
 東久邇は、急速に広がる闇市場の急問題に解決策を示すことがまったくできなかった。実際、内閣発足時に東久邇は、右翼で闇商人の児玉誉士夫を内閣参与に任命したのである。「今度はマッカーサー元帥の指揮に従ひ、お互いに要領よくやろう」。〔1945年〕九月初旬、児玉は東京の官邸に訪ねてきた三重県津市選出の議員に向かってこう話したという〔原注2〕。児玉は「兄貴」分の笹川良一と同様、占領軍慰安施設の開設に関わった可能性がある。笹川は戦争中、国粋同盟の指導者だったが、内閣参与には登用されていない。笹川が設立に関与した大阪市南区のアメリカン倶楽部は、米軍兵士が到着した直後、同市でもっとも早く開業した慰安施設のひとつである〔原注3〕。
 意識的か否かは別として、東久邇内閣は政治家と官僚と暗黒社会の結束を戦後復興の基礎に据えたわけである。

〔原注1〕粟屋憲太郎/川島高峰玉音放送は、敵の策謀だ。」『This is 読売』(一九九四年一一月)四四ページ。
〔原注2〕同前五六ページ。
〔原注3〕同前五五−五六ページで引用された大阪府特高一課の一九四五年九月一九日付の報告書。
  出典;H・ビックス『昭和天皇・下巻』(講談社、2002年)160p-161p。