カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

右翼の反戦

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 1951年のサンフランシスコ講和会議、1952年の講和条約発効によって日本右翼は勢いづいた。辻政信元大佐、只野直三郎らは国会に進出した。陸海軍旧職業軍人は、偕行会、水交会を結成し、新国軍建設への布陣を整備した。
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 しかし旧右翼人の精神的基礎である天皇が動揺し、政治的経済的掩護物だった軍隊と財閥の復活が正調に戻らず、旧右翼陣営の整備は進捗しなかった。特に、農村青年の再軍備反対熱は意外に強く、旧東亜連盟の主体勢力の継承者である武田邦太郎らの協和党が再軍備反対を強く――あまりにも強く打ち出していたのは、 故石原莞爾の遺志によるというよりは、これら農村青年の覚醒ということに、より多く客観的根拠をもっているといえる。
 一時旧「勤皇まことむすび」の本間憲一郎が再軍備反対であると伝えられたのも、青年層の意識の反映であったとみられた。織田正信の救国青年連盟がはじめ再軍備反対を唱えたのも、また渡辺捷三の民族新生運動が、“アジア人はアジア人を打たず”などといったりするのも、同様の理由にもとづいたのである。
  出典;木下半治『日本右翼の研究』(現代評論社、1977年)168-169頁から構成。