タテ社会の人間関係
どの社会においても、個人は〈資格〉と〈場〉による社会集団、あるいは社会層に属している。〔略〕最も極端な対照を示しているのは、日本とインドの社会であろう。
すなわち、日本人の集団無意識は非常に〈場〉におかれており、インドでは反対に資格(最も象徴的にあらわれているのはカースト――基本的に職業・身分による社会集団――である)におかれている。*1(27-28p)
〔略〕〔日本社会では〕〈場〉、すなわち会社とか大学とかいう〈枠〉が、〔略〕大きな役割をもっているということであって、個人のもつ資格自体は第二の問題になってくる〔略〕。
この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを「ウチの」、相手のそれを「オタクの」などという表現を使うことにもあらわれている。(30p)
理論的に、兄弟姉妹関係の機能が強ければ強いほど、「家」(居住体としての)の社会的独立性は弱くなるのであり、実際にも、インドでは日本にみられるような「家」制度はまったく発達していないのである。*2(33p)
〈枠〉単位の社会的集団認識のあり方は、〔略〕道徳的スローガンによって強調され、そのスローガンは、伝統的な道徳的正当性と、社会集団構成における構造的妥当性によってささえられ、実行の可能性を強く内包しているのである。(35p)
資格の異なる者に同一集団成員としての認識、そしてその妥当性をもたせる方法としては、外部に対して、「われわれ」というグループ意識の強調で、それは外にある同様なグループに対する対抗意識である。そして内部的には「同じグループ成員」という〈情的な結びつき〉をもつことである。資格の差別は理性的なものであるから、それを越えるために感情的(エモーショナル)なアプローチが行なわれる。(37p)
インドの家族制度というものが、〔略〕個人の思想とか考え方についてはまったく解放的であるためか、日本人が、伝統的ないわゆる「家」制度というものを目のかたきのようにしているのに対し、インドの家族制度は、インド人にとって悪徳でもなく、仇にもなっていないのである。〔略〕
「日本人はなぜちょっとしたことをするのにも、いちいち人と相談したり、寄り合ってきめなければならないのだろう。インドでは、家族成員としては(他の集団成員としても同様であるが)必ず明確な規則(ルール)があって、自分が何かしようとするときには、その規則に照らしてみれば一目瞭然にわかることであって(何も家長やその成員と相談する必要はない)、その規則外のことは個人の自由にできることであり、どうしてもその規則にもとるような場合だけしか相談することはないのに。」(41p)
- 作者: 中根千枝
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以前、書名だけ紹介していて、どういう内容の本なのか紹介してなかったので、内容一部紹介。日本社会を日本の社会学者が解析した古典。引用した部分は、インド社会が日本社会とは最も距離が大きい、という指摘部分。へえ、と思った。なんとなくインド社会は欧米よりは日本に近いような気がしていたけど、ぜんぜんそうじゃないんだね。欧米社会と日本社会との比較論は(通俗本では)腐るほどあるけど、インド・中国・イスラムとの社会比較が通俗本では欠落しているのが常なので、さすが教養書、とか思った。
法治主義は、〈資格〉の論理から導かれるのかな、と、思った。今、ライブドアに対してフジサンケイ及びテレビ・新聞がしかけている「道徳論的中傷」は、典型的な〈場〉の論理だよね。
この本が書かれた1967年にはまだ「オタク」族は存在しないので、文中の「オタク」という語は、ふつうに使われる一般的二人称でしかない。