カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

タテ社会の人間関係――「ウチ」と「ヨソ」

 〔日本では、社員の立場は〕ちょうど、嫁いできた日本の嫁の立場に似ている。
 農村の封鎖性ということはしばしばいわれてきたのであるが、〔略〕都市における企業体を社会集団としてみると、基本的な人間関係のあり方、集団の質が非常に〔農村に〕似ていることが指摘できるのである。
 〔略〕エモーショナルな全面的な個々人の集団参加を基盤として強調され、また強要される集団の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するものである。〔略〕こうした社会組織にあっては、〔略〕「ウチの者」「ヨソ者」の差別意識が正面に打ち出されてくる。
 「ウチ」「ヨソ」の意識が〔略〕尖鋭化してくると、まるで「ウチ」の者以外は人間でなくなってしまうと思われるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会にみられるようになる。〔略〕自分たちの世界以外の者に対しては、敵意に似た冷たささえもつのである。〔略〕
 どこの社会にも、もちろん、「私たち」という特別の親愛関係、同類意識をあらわす社会学的概念がある。しかし、それは〔略〕排他性を誇示するために使われるものではない。むしろ排他性を出すのを極力さけようとするマナーすら発達している社会も少なくない。
 〔中国人社会には〕少なくとも行動の上では、他の人々〔異民族〕との間に壁をつくらないというマナーがある。〔略〕
 日本人における「ウチ」の認識概念は、「ヨソ者」なしに「ウチの者」だけで何でもやっていける、というきわめて自己中心的な、自己完結的な見方にたっている。
 〔略〕日本社会は、全体的にみて非常に単一性が強い上に、集団が〈場〉によってできているので、枠をつねにはっきりしておかなければ――集団成員が自分たちに、つねに他とは違うんだということを強調しなければ――他との区別がなくなりやすい。そのために、〔略〕「ウチの者」「ヨソ者」意識を強めることになってしまう。〔略〕
 〔略〕インド人や中国人にとっては、実際に知らない人々の中につねに「見えないネットワーク」によって結ばれている人々がいるという大前提がある。それは、同一血縁の者か、同業者か、何らかの同一資格によって結ばれる人々である。〔略〕(45-51p)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)

オタクは、オタク趣味という「見えないネットワーク」によって結ばれているから、その意味、「孤独な日本人たち」とはちょっと違うかもね。「オタクに国境はない」と私は時々言っているけど、これは冗談ではなく、香港や韓国のオタクとは、初対面でも強い「仲間」意識を感じます。少なくとも日本のヤンキーなんかよりも遥かに心が通じ合います。何しろ同じアニソンを歌えます。
そういうネットワーク性が、新興宗教団体なんかと社会的に競合するから、〈マンガ規制したがる新興宗教団体〉vs〈マンガ規制に反対するオタク〉という、異様な対立構造が発生したりするのかな。日本の文学は伝統的に宗教の代役をしてきたしね。マンガは文学の正統な後継者だしね。
エロマンガ風情が宗教と競合なんて言うな、という反論が聞こえてきそうだが、なあに、日本神道の経典の「古事記」だって近親相姦で日本が生まれたという記述から始まっているし、「旧約聖書」はセックス&バイオレンスの書ですから、たいして違やしません。