カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

殖田俊吉2

軍部・革新官僚の日本共産化計画案〔『自由』1960年11月号、89p-99p〕
昭和デモクラシーの挫折(下)
殖田俊吉 元法務総裁
 私は前回申しましたように昭和十二年に「政治行政機構改造案」なるものを、はからずも所見し、それを抜萃したものを高松宮にさしあげましたが、現在、宮様が持っているかいないか聞いてもみませんが、それを持ってきた男は、これはずいぶん激しいので、実行しにくく廃案にしたのだそうですけれども、これは大体の基本方針ですから、あすこへ入ると、それを読まされたんだといっていました。だからあなたの興味のありそうなものだからお目にかけますといって持ってきたんです。これはたくさんあるのかというと、ありません。日満財政経済研究会に一部だけしか残っておりませんといっておりました。それが六部のうちの一部かもしれません。私のところへ持ってきたのは、第一号だったと思います。それはりっぱなほんとうのコミニズム計画です。しかし感心なことに共産の「共」の字も書いてないんです。
 覚えているだけ申し上げますと、一番初めは政府の組織、これは内閣制度をやめて国務院というものを作り、国務院というものは、国務総理大臣と国務大臣が四人おるわけなんです。そうしてそのほかにその下部組織として行政長官がずっとおり、大蔵大臣もおりますし、農林大臣、商工大臣、それから外務大臣、文部大臣もおる、まあもとの形ですね。その国務大臣をこしらえる。国務大臣四人のうち、二人は軍人がなることになっているんです。それから一番の特徴はそこに経済参謀本部ができることなんです。そして経済参謀本部というのが国務院の一番の中枢であるようでした。政府はそういうふうにできて、同時に政党ができるんです。それが日本国権社会党という名前です。
 国権社会党が一番大きな階層ですね。一国一党で、初め国権社会党員百万人を作る予定になっておりました。そして国権社会党の総裁が当然内閣総理大臣になる、こういう建前なんです。
 それから今度は、国権社会党の幹事長が経済参謀本部の部長になる。それで経済参謀本部で人事と予算とを握る仕組みなんです。それから今度は、同時に議会もこれと呼応して改造されるわけです。議会は衆議院はあのままなんですけれども、貴族院は多額納税議員をやめるこれはいいんですが、公、侯、伯、子、男爵はあるのです。あるんですが、勅選議員を大増員して、勅選議員が大体過半数を占めるようになる。その勅選議員の政府任命議員は大体国権社会党員を任命する。これははっきり覚えていませんが、それと同時に秀議員は比例選挙にします。そして全国を四十五の職場区分に分ける。その職場区分に分けて、その各職場から選出する、こういうことです。職葉から出るのはほとんど全部国権社会党員で、国権社会党員が国会の上下両院の絶対多数を占めるという仕組みです。天皇はあっても、天皇の命令なんかというものはないも同じでしょう。
 この改造案は昭和十一年が六ヵ年計画の初年度です。ですからおそらくあれだけのものを作るには九年か十年、もっと前から用意したものだろうと思います。それで国権社会党の案ですが、私はすっかり軍人のとりこになっている近衛さんと会うのはきらいでしたが、十八年か十九年ごろでしょう。今の吉田(茂)とか、ああいう連中が、近衛に会ってくれ、近衛が非常に反省してわれわれと一緒にやろうとしているからといいますから、それじゃしょうがないから行こうといって、小畑敏四郎君と私は近衛さんのところに出かけていった。そして半日おりまして、私は、翼賛会はあなたが作ったと思っていただろうけれども、あれはちゃんと種本があるんだ、陸軍で作ったんだというと、いやとんでもない、あれは自分と風見君とで作ったんだ、決してそうじゃない、いやあるんだ、あなた方そういうが、皆暗示を受けてやらされるか、ほんとうに命令でやらされるか何か知らぬが、あるんだ。それで私は、国権社会党の案だけを息子に書かせまして写したのを持って行って見せたんです。これをごらんなさいといったら、先生目を皿のようにして熱心に見ました。
 近衛は私は三べん内閣を組織して、いろんな人に対する実験をしてきた。全部思い当たることばかりです。わかりましたと。あの人は河上さんの弟子だけあって、判るんです。それじゃ一切心を投げ打ってあなた方に協力しますということになったのです。
 こういう行政改革案の背後にいた一番おもな軍人のかたまりというと、統制派です。このことを伊藤正徳君に質問したんです。伊藤君は永田鉄山という偉いのがいた。永田鉄山がいたらそういうことはなかったろうというのです。それで伊藤さん、あなたの話は大へんけっこうだが、昭和の初めからずっとやっていた一つのグループがある。その人間はだんだん大尉になり、中佐になり、中将にまで行ったけれども、皆同じ人なんだ。その人は十人か十四五人しかいないんだ。それが軍務局長になったり、参謀本部の部長になったり、あるいは課長になったり、皆あっちに行ったり、こっちに来たりしていますけれども、一つの党がある。この党の親方は永田鉄山なんだ。永田鉄山の子分なんだ。子分はああいうことをしたが、親分は知らなかったんだろうか。
 このことを真崎だけは見抜いていた。荒木なんか見抜いていない。それで真崎たちが見抜いたのは、昭和六年の三月事件のときなんです。あれからかれの迫害が始まった。それで真崎は私にこういいました。自分も国家社会主義だけが国を救えると思っていた。それで弘前の師団長になって行って勉強したら、こつ然として間違いだということがわかって、その徒党からひどい目にあったんです。真崎だけが悪者で、二・二六もみんなあれがやったんだというふうに見られたようですが……。
 それから私もおかしいと思った。共産主義革命だと思ったんですけれども、というのは、大蔵省のところで銀行関係の項をみると、銀行は国営なんです。日本銀行はむろん国営にしてしまいます。それから興行銀行とかいうものを一本にした産業銀行というものを作る。これも国有国営なんです。それから貯蓄銀行、これは民有国営なんです。予算の都合があるものですから、民有国営をたくさん作るんです。のちに貯蓄銀行ができたときに統合しまして一本になった。ははあ、日本貯蓄銀行ができるのだなと思っておった。そうしたら今でも覚えておりますが、あのときの新聞では貯蓄銀行を統合することになったけれども、どういう名前にしていいかわからないから、みな日本銀行の楼上に集まって協議した結果、日本貯蓄銀行になったと載っているのです。名前は初めからあるのです。ところが非常にうまいものです。みな知らない人を集めて、それに何か暗示を与えてそういうところへ持っていく。ですから、責任者は見えないようにしてある。この案があるということはだれも知らないのですから、みんな参画していた人たちは自分たちで案を作ったように思うのです。それから普通銀行は、株式会社日本普通銀行というものを作るつもりだった。一本の銀行で全部支店にするつもりだったらしい。それでその小手初めにいろいろ銀行を統合していたわけです。そういうところの経営者はみな国権社会党が入るのです。
 それから産業国営です。産業は初め重要産業と書いてありますけれども、全部あれは国営のつもりです。その小手初めにやるのが電力国営、それで戦争指導計画書にも電力国営と出ておりますが、今の改造案にも電力国営が出ております。みな同じものです。ですからだんだんやっていきますと、改造案が一番根本の憲法であって、あとはそれの実行だということがわかった。それからこの改造案に、社会省ができる、これは厚生省ですけれども、国策要綱の中にも厚生省は社会省という名前であるのです。それでみな同じものだということがわかった。それから農林省です。これは小さなものは産業国営にすぐにはしないで、協同組合みたいな形でやらせるのもごく少数残っておりました。お米ももちろん国営です。それから酒も、しょうゆもみな国営です。それで農林省のところで一番面白いのは人民公社です。それは全国に約三万の共同共営農場というものを作る。共営農場というのは、今の村は大きすぎるから、村の「字」程度のものにして、村の人が持っている村内の耕地を全部村が買収し、村債を発行して村債で買収する。そして経営はみんな共同で経営する。そして村長と在郷軍人会長と農場長の三人で相談をして経営する。
 それで商業はなくなる。商業はなくなりますから、公営の販売機関にそれをみな持っていくのです。そしてその代金をもらいまして、その代金を共同共営農場で働いた時間によって分配するわけです。
 ところがそれは穀物だけじゃないんです。米、麦を今の形にする。林業も養蚕もこの形、それから水産、水産は海が広いですから、そこで遠洋漁業近海漁業沿岸漁業と三つに分けて、遠洋漁業は漁業会社統合なんです。それから近海漁業は、各県、庁といっておりましたけれども、庁でやる。それからごく沿岸は漁民の共同経営、そういう形です。私はこれはコルホーズだと思ったんです。コルホーズのもっと進んだもの、人民公社です。人民公社で食堂を一緒にしてどうということは書いてありませんけれども、それをやるつもりであったことは間違いないです。

〔続く〕