カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

誤用されやすい概念;「易しい」「わかりやすい」

〔以下は2003年1月-2月に書いたもの〕
「易しい」「わかりやすい」とは何か、という事柄は、他者の思考モデルをどう想定するか、人間一般の思考モデルをどう想定するか、によって、意見が分かれるだろう。本来、社会科学、とくに教育学が最も集中的に「科学的」に検討し実験を繰返すべき事柄だろうと私は考えるが、どうなんでしょうね。研究成果はあるんだろうけど、カルトで脳味噌の腐った文教族がそれを放置していそうだ。
以下、まず、自説を述べる。
 1;誤読可能性を極力排する[1]。
 2;定義の不明瞭な語を極力排する[2]。
 3;文の中での、修飾・被修飾の論理関係が、極力明晰となるようにする。
 4;馴染みの薄い日常語から外れた概念については、使用時、適宜適切な注釈と出典を明示する[3]。たとえばwebではハイパーテキストリンクを駆使し、概念説明の労力を惜しまない。
 5;より少ない言葉の数で語れるときは、より少ない言葉の数にする。
 6;焦点が明瞭である。

[注釈]
[1] 実践においては、最大限の悪意を込めて誤読しようとしたとき、どう誤読されるか、ということを想定し、自らの文をチェックする。誤読される可能性のある文は、必ず誤読される。
[2] あるいは、中心概念となる言葉の定義をまず明示しておく。言葉は全て「抽象(シンボル)」であり、各人の内面での辞書は、各人の人生経験に従い、各様だ。個々の言葉が示すシンボル内容は、誤読可能性を極力排しておかないと、いたずらに混乱し、結果、何も語られていないのと同じになってしまう。解釈の差は読者の人生経験の差によって生まれるものであり、解釈が多様であること自体は知的活動にとって生産的だ。だが、「解釈が多様」であることと、「混乱していること」は全く別だ。発話者の責任で「混乱」させることを避け、発話者の力量で「多様な解釈」を喚起することを、「わかりやすい」と呼ぶ。
[3] 知的刺激を喚起する言説は、「わかりやすい」。「つまづく」というインテリ方言がある。誤読可能性が強い部分を差す。「つまづき」を回避させる文を、「わかりやすい」と呼ぶ。

ダメな人は、「易しい」「わかりやすい」という言葉を、「粗雑」「単純」「短絡」「幼稚」「貧語(不正確)」、あるいは「情緒的」だと思っている。これらはいずれも誤読を招く要因だ。
あるいは、「わかりやすい」を、「粗野で乱暴な二元論」だと思っている人もけっこういる。
これらは、いずれも誤読可能性を拡大させ、コミュニケーションを不毛化させる。
「易しい」「わかりやすい」を、「粗雑」「単純」「短絡」「幼稚」「貧語(不正確)」、あるいは「情緒的」だと思っている人の思考は、たいがい、粗雑で単純で短絡的で幼稚で浅薄で、しばしば激しく狭量だ。
「粗野で乱暴な二元論」は、粗雑・単純・短絡・幼稚の産物であり、情緒しか喚起せず、 内容的には貧弱で、接続する言説が不毛となりやすい。「粗野で乱暴な二元論」は、「誰が作った枠組なのか」について、思考することを困難にさせ、人を痴呆化・隷従化させる。たちが悪いことに、この摩り替えを故意にやっているヤツがけっこういる。騙されるな。

「言葉の攪乱」への対抗法

日常会話での「混乱」の元は、2つの原因のうちの、どちらかだ。
1;「対象」の明晰な限定を怠る。
2;「判断」を不明瞭にする。

会話している現在の「話題」=「対象」が何であるかを、チェックし直し明晰化する努力を怠ると、会話は混乱する。しばしば、日常会話では、ズルズルと連想的に話題が横滑りしがちなものだ。
だが、事実は何か、正当性は何か、正誤は何か、という会話をしている時は、「話題」(対象)の横滑りは、慎むべきだ。何について議論しているのか話者が忘れてしまったらその議論はムダだ。「対象」は「抽象(シンボル)」であり、ふつう、複合的で多面的だ。
人間は一度に複数のことを同時に思考することはできない。976×698を計算することはさほど難しくない、29×67と51×39をそれぞれ別個に計算することもさほど難しくない。だが29×67と51×39を一度に同時に計算するのは、特殊な訓練を積んでいない限り、ムリだ。
一つ一つ思考すること自体は、そんなに難しいことではない。一度に複数のことを同時に思考しようとしないよう、私たちは心掛けるべきだ。複雑な「対象」は、いくつの事柄が複合しているのか、適切に切り分けた上で、寄り道せず丁寧に思考するべきだ。
「あれが」「それは」などの「指示代名詞+助詞」をあまりに過度に多用すると、「対象」が何であるか不鮮明になりがちだ。適宜、誤読可能性がないかチェックして、誤読可能性があるときは、「指示代名詞」を避け、「対象」の名詞を使用するべきだ。日常会話ではしばしば「指示代名詞+助詞」をすら略しがちだ。これは混乱の元、思考のエラーの元だ。
言葉は全て「抽象(シンボル)」であり、各人の内面の辞書は各人の人生経験によって作られている。話者にとってある概念Aが別のある概念Bと無条件に繋がっているかのように感じるとき、話者はしばしば概念Aから概念Bへ「対象」をスキップさせがちだ。だが概念Aと概念Bが不可分であるかどうかは検討が必要だ。多くの場合、それは分けて考えるべき、別のものだ。複数の概念を同時に思考しようとすると、実際の実力よりずっと劣った思考しかできなくなる。
情緒は、枠組の一つだ。情緒枠組自体は別に悪くない。だが、正誤や正当性という枠組と情緒枠組は別だ。「対象(シンボル)」と情緒はしばしば結びつきがちなものだ。情緒を喚起させられると、「情緒」という複雑な概念と「対象」という複雑な概念を、同時に思考することになりがちだ。結果、実際の実力よりずっと劣った思考しかできなくなる。
日常会話では、助詞の使用法がいいかげんになりがちだ。だが、助詞は数学の四則(+−×÷)に等しい、日本語に論理性を与える重要なものだ。「対象+助詞」と「述語」の関係で日本語は構成される。
  「『対象』が何であるか」
  「『対象』を、『述語』はどう『判断』したのか(修飾・被修飾関係)」
この2つの明晰さを書いた文(会話)は、エラーを起こしやすく、誤読を喚起し、「わかりにくい」。
参照 http://jbbs.livedoor.jp/news/410/storage/1043181168.html