カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

マンガ規制新興宗教「念法真教」と「南京虐殺はなかった」論

マンガ規制新興宗教「念法真教」と「南京虐殺はなかった」論 - カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記/はてダ版の続き。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/7154/12-2.html
南京大虐殺の徹底検証 20世紀最大の嘘南京大虐殺の徹底検証(前編)
■ 平成12年1月23日 於・大阪国際平和センター(ピースおおさか)
■ 念法真教機関紙「鶯乃声」平成12年3月号より転載■
東中野 修道 亜細亜大学教授

「マンガ規制派」の走狗、「念法真教」系・「日本会議」系ネット右翼どもは逝ってヨシ。つーか、逝け。回線で首括って今すぐ死ね。 

http://www.asahi-net.or.jp/~pr1y-twr/kaisetu.html
http://www.asahi-net.or.jp/~pr1y-twr/kaisetu.html#%81%99%89f%89%E6%81u%83v%83%89%83C%83h%81v%8A%D6%8CW
 大阪の念法真教という宗教法人は信者に「プライド」の前売券を大量にばらまいた、という情報がある。この宗教法人は、大阪に信者数が多く、日本会議大阪の有力な構成団体である。また、超タカ派衆議院議員西村真悟自由党)の支持母体にもなっているが、念法真教に西村支持を働きかけたのは田中正明だということである。

田中正明か…
田中正明と言うと…
(以下、秦郁彦「論争史から見た南京虐殺事件」『昭和史の謎を追う 上』(文春文庫、2004年)187p-192pから)

田中正明の松井日記改ざん事件

 一九八五年十一月二十四日付の朝日新聞は、翌日付けで発行される雑誌『歴史と人物』(一九八五年冬号)に板倉由明が執筆した「松井石根大将『陣中日記』改竄の怪」の要点を報道した。
 陣中日記の原本は、南京攻略戦の最高指揮官松井大将が記したもので、自衛隊板妻駐屯地資料館に保管されていたのを田中正明が借り出し、走り書きの日記を判読して出版したばかりのところだった。
 雑誌の編集部は、専門の読解者に手助けしてもらい、同じ原本と対照したうえ、解読を板倉に依頼したものだが、南京虐殺を否定する方向で九百か所以上の削除、加筆、誤記、文章の移動などが行われているのが明らかにされた。
 板倉は同じ紙面で「誤読、脱落はありえても、もとの日記に書いていないことを付け加え、それに注釈までしているのではどうしようもない」と評し、田中は「言い逃れになるかも知れないが、体調などの悪条件が重なりミスしたもので、決して虐殺は虚構だという自分の主張に合わせて加筆や削除をしたのではない。申し訳ない」と釈明した。
 本多〔勝一〕は、さっそく翌日の紙面で「松井大将が生きていれば、さぞ改ざんを怒り嘆くだろう」と追い討ちをかけ、洞富雄も『赤旗』紙上で「このエセ研究家にあえて一撃を加えた見識に……敬意を表したい」と述べた。さすがの田中〔正明〕も再起不能におちこんだか、と噂されたが、支援者たちに励まされてか再起の日は意外に早かった。
 一年半後に、田中〔正明〕は『南京事件の総括』(謙光社)を刊行、虐殺派、中間派のライターたちを威勢よくなで切りしたあと「あとがき」で改ざん事件に言及した。
 すなわち「そのほとんどは、私の筆耕の誤記や誤植、脱落、あるいは注記すべきところをしなかった等の不注意によるものであります」と弁解しつつ「字句に多少のズレはあっても、松井大将の真意を曲げることなく、その目的は完全に果たし得た」と自賛した。その心臓ぶりには脱帽のほかないが、シロウトばかりでなく学者のなかにも彼を全面支援する人がいるから不思議だ。
 〔略〕渡部昇一上智大教授も〔田中正明を支持する〕別のひとりだが、この人は出世作の『ドイツ参謀本部』(中公新書、一九七四)で、写真ぐるみワルター・ゲルリッツのHistory of German General Staff(1953)を大幅借用したぐらいだから、盗用や改ざんには理解があるのかもしれない。〔略〕

偕行社戦史をめぐる騒動

 〔略〕偕行社へ、南京戦史の企画が持ちこまれたのは一九八三年秋で、田中正明が畝本正己を説いて、編集部に協力委員会を作り、畝本の名による「証言による南京戦史」シリーズが翌年四月号からスタートした。
 偕行社内には、南京事件のような政治的テーマをとりあげることに異論もあったようだが、結局は社の事業として取り組むことになり、『偕行』の八三年十月号に小林理事長の名前で「南京問題について緊急お願い」を誇示し、会員に協力を呼びかけた。
 とくに南京戦に参加経験のある会員に期待して「『12月○日○時頃、○○部隊に所属して○○付近にいたが、そのようなことは何も見なかった、聞いたこともない』ということなどを寄せて欲しい」と要望したが、傍点の部分はわざわざゴチック活字を使って強調している〔カマヤン注;傍点部分は、ここでは太字に表記した〕。シロの証言が欲しい、という期待感が丸見えといわれても、しかたあるまい。
 ところが、畝本連載が十一回つづく過程で、シロばかりでなく灰色ないしクロのデータも集まってきた。またこの連載に刺激されてか、マスコミが次々にクロの資料や証言を掘りおこす事態が出現した。なかでも八四年末、『歴史と人物』が掲載した「南京攻略戦・中島第十六師団長日記」は大きな衝撃を与える。
 中島はかねがねサディズム的性癖のある将軍、南京虐殺の中心人物と噂されていたが、初公開のこの日記には「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とか「此七八千人(原注、投降捕虜)之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ
中\/見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ニ誘キテ処理スル予定ナリ」とか「時恰モ捕虜七名アリ直ニ試斬ヲ為サシム」など、噂を裏づけるような記述が散在していた。
 一方、『偕行』編集部は、松井司令官の専属副官だった角良晴少佐(のち大佐)が六回にわたりマックロを主張する投書を送ってきたことなどで、方針転換をはかり、連載最終回の八五年三月号に編集部を代表して加登川幸太郎が執筆した総括的考察を掲載した。
 角は九十歳近い老人でもあり(まもなく死去)、不正確な記憶が混入しているとはいえ、松井大将が捕虜の釈放を望んだのに、部下の長勇参謀が「ヤッチマエ」と勝手に命令したこと、松井大将と同乗した車が江岸の道に累々と横たわる死体の上を約二キロ走ったことなどを記していた。
 全体のトーンから南京虐殺を確認した加登川は「この大量の不法処理には弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった」と書いた。
 『歴史評論』(八六年四月号)で、この経過を紹介した君島和彦らは「極めて高度な政治的判断」と皮肉ったが、宮崎繁樹明治大学教授(偕行社会員)は朝日新聞の「論壇」(八五年三月二十日付)で、旧軍人が日本軍の虐殺を認めて詫びたのは、真実追求の良識があるもの、として評価した。
 このように外部では加登川論文は好評だったが、会の内部から強烈な反発が起きた。とくに松井日記の改ざん事件を契機に遠ざけられていた田中〔正明〕が、老将軍や地方偕行会幹部に「皇軍の名誉を傷つける本を偕行社が出してよいのか」という主旨の手紙をばらまき訴えた作戦がきいて、連載を単行本化する作業は頓挫した。やっと八八年十一月の総会で了解がとれ、八九年中には刊行できる見通しがつき、二年越しのゴタゴタは収拾に向かっているようである。
 (原注)偕行社編『南京戦史』は一九八九年十一月に刊行され、資料集として評価されている。
     出典;秦郁彦「論争史から見た南京虐殺事件」『昭和史の謎を追う 上』(文春文庫、2004年)187p-192p。*1

 秦郁彦は明言していないけど、「南京虐殺はなかった派」の田中正明らは勝共連合統一協会系の、カルトなのだと言外に言っているように思う。(リアルタイムの論者の党派分析については、秦郁彦は言説が不誠実なとこがあるけど。秦郁彦自身の党派性が反映して。秦郁彦は経世派系、つまり旧田中角栄派なんだろうね。)
 追伸。九郎政宗id:clawさんへ私信、東中野修道について「まとめ」(情報整理)していただけないだろうか。(あと、トラックバックが届くように設定してもらえないだろうか。)
  関連 「桜ちゃんねら議員リスト」http://d.hatena.ne.jp/claw/00010111

*1:

昭和史の謎を追う〈上〉 (文春文庫)

昭和史の謎を追う〈上〉 (文春文庫)