カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

田中正明関連

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南京虐殺」ひたすら隠す 田中正明氏の松井大将日誌改ざん 戦後の資料にも"創作" 上海と南京をすりかえ
 日中戦争に全面突入したー九三七年(昭和十ニ年)に、当時の中国の首都で日本軍が起こした南京事件(いわゆる南京大虐殺)について、株式会社文藝春秋の発行する月刊誌などで「あれは事実無根だ」というキャンペーンが行われてきたが、その筆者たちのなかでも中心的役割を果たしてきた田中正明氏(74)の編書「松井石根大将の陣中日誌」に収録されている陣中日誌が、大規模に改ざんされていることがわかったうえ、さらに戦後に松井・元大将の書いた『支那事変日誌抜粋』もまたひどい改ざんやでっちあげされていることが、早大元教授・洞富雄氏(79)らの調査で明らかになった。たとえば、日付をずらして上海のことを南京のことにすりかえたり、自分の「創作」した文を勝手に加えたりして、ひたすら虐殺の事実をかくすための工作につとめている。 (本多 勝一編集委員)
歴史学者たちを中心とする「南京事件調査研究会」の代表でもある洞氏は、主として南京事件の研究をしてきたが、田中正明氏の引用する資料にかねて疑念を抱き、原文の入手につとめてきた。その結果『支那事変日誌抜粋』(注1)について原文と引用文を照合することができ、大規模な改ざん・加筆が発見された。加筆・歪曲は数十カ所におよび、そのいちいちいちを紹介しきれないので、ここでは典型的なー例を紹介する。 (この原文は、「南京事件調査研究会」のー人である一橋大学社会学部講師(現教授)吉田裕氏が外務省の外交資料館で見つけた)
まず原文に次のような一節がある(漢字だけ当用に改めた)。

「尚十一月三十日再ビ右両通信員卜会見シ上海占領後ニ於ケル我軍ノ態度方針ヲ説明シ上海付近ニ於ケル列国ノ権益ヲ保護スル為予ノ執りタル苦心ノ程ヲ開陳セルニ彼等ハ我軍ノ公平ナル態度ニ感謝ノ意ヲ表セリ
右ノ他十一月十日在上海AP、UP、…」

このなかで「両通信員」とは「ロンドン・タイムズ」と「ニューヨーク・タイムズ」の両記者をさす。右の原文が田中氏によって次のように変えられた。(赤は改ざんまたは加筆されたところ)。〔カマヤン注;ここでは【 】で括った〕

「尚【十二月二十三日】再び右両通信員を【招致して南京陥落が各国政府に与えたる影響につき意見を徴するとともに、南京】占領後に於ける我軍の態度方針を説明し、【南京】付近に於ける列国の権益を保護する為、予の執りたる苦心の程を開陳し、【パネー号事件の経緯と陳謝の意を表明す】。彼等は我軍の公平なる態度に【つきむしろ】感謝の意を表せり。右の他、【一月十日】。在上海AP、UP、…」

この改ざん・加筆によって、松井司令官が上海で示した「我ガ軍ノ公正ナル態度」は、すべて南京でのことにすりかえられてしまった。つまり、南京事件発生以前の上海での司令官の言動は、これによって南京占領以後の「我が軍の公正なる態度」となる。したがって二人の外国特派員は南京での日本軍の「公正なる態度」に感謝したことになり、このことを持って田中氏は、虐殺はなかったことの証左の一例とするのである。
あわせてパネー号事件(注2)などまで加筆しているように、田中氏は、原文にまったく存在しない文を各所で「創作」している。その最たる一例は次の一文であろう。

「終戦後暫くして、南京に於いて一般人、俘虜、婦女子などに対し、組織的な大規模の虐殺、暴行事件がありたるやに米国内で放送しありとの情報を聞き、予は驚き、旧部下をして調査せしめたるも、さような噂はまったく虚妄にして、世の在任中は固より、帰還終戦に至る迄斯くの如き報告および情報に接せず、上海における列国新聞通信員との屡次に亘る会見においても之を耳にせず、まったくふ妄なることを附言す。」
(『諸君!』1983年9月号の田中氏の一文および田中氏著『"南京虐殺"の虚構』日本教文社

右はやはり『支那事変日誌抜粋』からの"引用"とあるが、原文にはまったく存在しない。
田中氏のこうしたでっち上げについて詳細に検討した洞氏は、「これは学者・研究者としてまともに取り上げるレベルの相手ではなく、論争の筆を執りながらも実にむなしい思いだ。しかしこういう人物のものを頻繁に取り上げて世に出している雑誌がある以上、影響力を無視するわけに行かず、むなしい作業でもやらざるを得なかった。松井大将が生きていればさぞ(改ざんを)怒り嘆くだろう」といっている。その詳しい内容は、近く朝日新聞社から刊行される同氏の著書『南京大虐殺の証明』(仮題)で発表される。なお、田中氏は長野県生まれ、興亜学塾に学び、近衛文麿の「大亜細亜協会」に勤務したことがある。現在、著述家。

疎漏認めざるを得ぬ。 田中正明氏の話。
私の所にあったはずの原文は、どこかへしまいこんで分からなくなった。外務省の外交資料館にあったという原文のことは全く知らなかった。私は意図的な改ざんなどしていないつもりだが、大病で入院を繰り返していたころだから、疎漏があったことは認めざるを得ない。

[朝日新聞1985年(昭和60年)3月20日]

南京虐殺わびた旧軍人雑誌「偕行」 証言連載し真実追求の良識を評価 宮崎繁樹 明治大学教授
今年は終戦四十周年にあたり、色々の思いを抱いて、過去を振り返っておられる方も多いと思う。実に二百六十万人もの死者を出し、三月十日の東京大空襲による死者十万人や原爆犠牲者を含め、一般市民だけでも六十万人の死者を数えた。全国ではおよそ一千万人が被災したともいわれる。だが、我々は、自分が被害者であったことは忘れえないが、加害者だったことを、ともすれば忘れがちなのではあるまいか。
戦時中「皇軍」とか「聖戦」という言葉が使われ、戦争が美化されていた。戦後いろいろ戦時中の事実が明らかにされても、日本人が中国大陸で行った行為について、明確な認識、反省もなしに過ごしてきた人が多いのではないか、と思う。
最近発行された「偕行」という雑誌の三月号は、その意味で衝撃的だ。この雑誌は、戦前の現役陸軍将校の親睦機関「偕行社」の機関紙で、その性格上、懐古的、保守的論調の記事が多い。だが、注目すべき記事は「証言による南京戦史」である。同誌は、昨年の春から「南京大虐殺」について、当時の関係者の証言を精力的に連載してきた。それは昭和五十七年の「教科書問題を契機とする 「南京大虐殺」はエドガー・スノーやティンパレイらにより何十万人規模で報道され、東京国際裁判でも戦争犯罪の重大な「訴因」にあげられた。しかし、教科書検定に当り、文部省は、事実が不確かであるとして執筆者に書き直しを求め、その事実が報道されるや、アジア各地から非難の声が上がった。そのことは、まだ、記憶に新しい。
「偕行」誌も、最初は「南京虐殺は事実無根だ、マスコミや教科書執筆者は、それを悪意で世に広めている、けしからん」自分の部隊に関する限り非行はなかった」という調子の記事が多かった。しかし、後半、真実告白の証言が出始めた。
そして、本号は<その総括的考察>として、南京攻略時における大量殺害の事実を認め、「この膨大な数字(一万三千人、少なくとも三千人、中には「数万を下らない」との証言もあった−宮崎注)を前にして、暗然たらざるを得ない。…弁解の言葉はない。旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相いすまぬ」と記している。
すでに、心から「相いすまぬ」と日中不戦を誓い、日中の友好のために尽力された遠藤三郎氏や「日中友好元軍人の会」に集う人たちもいた。しかし、旧軍人全体から見ればその数はわずかであり、しかも、異端視されてきた。蛮行の責めらるべきは当然であるが、とかく仲間意識で旧悪を隠蔽しかねないと見られる旧軍人の機関誌が、真実を掲載し、謝罪の意を公表した。編者の良識は、評価されるべきだと思う。
恐るべきは、平素は平凡な<市民>が兵士となり、戦争になると、この残虐行為を行いえた、という事実である。軍隊や戦争は、本質的に人の理性を麻痺させ、人間を野獣、悪魔に変える魔性を持っている。
戦時中熟読された「大義」の著者、杉本五郎は、すでにその著書の被削除部分で「今次ノ戦争ハ帝国主義争闘ニシテ亡国ノ緒戦ト人謂ハンニ誰人カ何と抗弁シ得ルモノゾ」と記し、今もかなり信者を持つ「最終戦総論」の著者、石原莞爾は戦後「日本は蹂躪されてもかまわないから、戦争放棄に徹して生きていくべきです」と語った。
あの大戦争で何物も学まず゛、自己を変えなかった旧軍人や政治家たちも多い。しかし、戦後四十年、我々は、我々の靴に踏まれた人々のことも考えてみる必要がある。
[1985年(昭和60年)3月20日 朝日新聞「論壇」]

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