カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

従米売国主義な人々。日本マスコミにかけられている呪術。

「世界潮流」はどういうサイトなのかよく判らないのだけど、いい記事があったから引用します。

http://plaza.rakuten.co.jp/worlddreams2005/diary/200506150000/
June 15, 2005
警察とヤクザを基盤に発展した読売の歴史 「戦争反対(5582)」
〔略〕最近憲法改正を声高に訴える人物がやたら憲法改正で目立つようになってきたのは皆さんご承知の事と思う。だがよく観察すると憲法改正を声高に訴える人達をことさらにしかも特定のメディアがクローズアップしているからこそ目立っているのだという事に気付くことになる。
特定のメディアとはすなわち、読売新聞と系列の日本テレビ産経新聞と系列のフジテレビ、そしてテレビ朝日とTBSの一部の番組及びそれら系列新聞、毎日、朝日の一部政治部記者連中、さらに右翼系雑誌社であるが、その中でももっとも憲法改正の必要性を宣伝し、新聞社独自に憲法試案まで作り、この憲法問題に関しては客観的報道など微塵も感じられないメディアといえば「世界最大」の発行部数を自慢する読売新聞である。
ではなぜ読売新聞は憲法改正を声高に訴えているのであろうか。今日はそれを読売新聞の歴史を紐解くことにより明らかにしたい。まずは以下の文章をお読みいただきたい。

読売 梁山泊の伝統とナベツネ体制の確立
警察とヤクザを基盤に発展した読売の歴史は、中興の祖である正力松太郎が警察官僚であり、[民間にあって世論を指導する機関、御用新聞として焼き打ちを食ったりしないマスコミ、その価値を見抜いていたものこそ、後藤、正力らの内務・警察高級官僚だった]と征矢野仁が『読売新聞・日本テレビグループの研究』(汐文社刊)に書くように、読売は新聞社の姿を装う警察の情報機関であった。だから、戦後になると正力の女婿の内務官僚で、警務に詳しい小林与三次がバトンを引き継ぎ、新聞とテレビを結ぶメディア王国を築いている。そして、販売戦略で大きな功績を残した務台光雄に続き、裏の世界に詳しい渡辺恒雄が社長になり、部長以上に[忠誠契約書]を提出させた独裁制を敷き、日本最大の新聞というステータスの確立によって、新しい装いに塗り替えて再出発したのである。
 既に中曽根政権時代に非常に顕著になったが、時の政治権力に追従して世論の誘導を行い、政府の広報紙に似た機能を演じただけでなく、積極的に世論を動かすことまで試みている。しかも、最近では[改憲]試案を紙面に発表して、極右派閥の機関紙の役割を果たすほどになったように警察予備隊として始まった日陰者の自衛隊が、軍隊に脱皮して認知されるという警察官僚の夢を、読売は率先して描き上げるに至ったのである。
 その原動力はナベツネの仇名を持つ渡辺社長であり、転向左翼でハイエナの嗅覚を持つ渡辺恒雄の人生航路は、『政界影の仕掛け人』(角川文庫)に大下英治が書いたように、自己中心主義者の権力志向の歩みだった。政治部の渡辺記者は大野番として出発したが、大野伴睦児玉誉士夫に密着して子分役を務め、暴力団の東声会のクラブの運営委員に連なったり、ロッキード事件の前にワシントン特派員として、児玉の対米窓口を果たしたとも噂された。また、児玉が乗っ取った出版社の弘文堂では、若き日の中曽根と共同経営者に名を連ね、その時の株主仲間には児玉や中曽根の他に、大橋富重、萩原吉太郎永田雅一、久保満沙雄のような、戦後の疑獄史の裏面に出没した政商たちが、読売の現役記者だった渡辺と共に名を連ねている。
 こうして築いた資金と暗黒人脈を背景にして、ダーティーな疑惑もものともせずに、読売に堅固な砦を確立したナベツネは、最後には中曽根康弘の刎頸の友として策動し、中曽根に天下を取らせてヤクザ政治の実現を果たした。その辺の具体的なことは『平成幕末のダイアグノシス』の中に、『日本列島を制覇したヤクザ政治とカジノ経済の病理』や『カジノ経済と亡国現象を生んだ'日本のサンクチュアリー』として詳述したので、そちらを参照して貰うことにしたい。いずれにしても、駆け出し記者の時代から札ビラを切ったナベツネは、表と裏の世界のドンの両方に繋がった、知的フィクサーとして記者仲間では有名で、そんな人物が日本最大の新聞を支配しているのである。
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/article/taisyusi.htm
大衆紙の愚民化工作  藤原肇(国際政治コメンテーター)著 より

〔略〕

http://www.asyura2.com/0406/idletalk10/msg/363.html
荒稼ぎをする人達2(高木規行)
(前略)力道山は新田新作の援助を仰ぎ児玉誉士夫に見いだされ、児玉誉士夫の資金で全日本プロレスを旗揚げし、メディア戦略として児玉誉士夫は東京タイムス紙を買収し、夕刊紙「東京スポーツ」と改名し、後に広域暴力団山口組の組長になった田岡一雄や東声会会長、町井久之を共同経営者にしてプロレス専門誌にしてしまった。なぜ児玉誉士夫がプロレスに肩入れしたのか、それは戦争に負け、ガイジン占領軍に支配された記憶の鮮明な当時、ガイジンが日本人にやっつけられることで国粋主義的な雰囲気を作ろうとしていたと言われている。
そもそも児玉誉士夫は右翼の大物である事から、当時「アカの恐怖」に脅えていたアメリカが戦犯として巣鴨拘置所に拘留していたのを解放してCIAの手先として利用していた。それは右翼だけではなく、暴力団もであった。この事が後々、しっペ返しになった。プロレス人気は児玉誉士夫のお友達である日本テレビ放送網会長の正力松太郎が街頭テレビを考案し関東一円に220台も設置、まだ関東地区では12000台しかなかった頃の大博打だったが、日本中にテレビ中継されたプロレス人気は止まる所を知らぬ白熱ぶりで、おかげで日本テレビは突如、黒字優良企業に変身してしまった。
たしかにプロレス人気は高まったが、国粋主義的思想は児玉誉士夫の思惑とは裏腹に低いままどころか、国論を二分した安保闘争にエネルギーが流れてしまった。プロレスという興業を成功させた力道山は他の顔もあり、実業家としての力道山はリキアパートという高級マンションを手がけ、渋谷の道玄坂から丸山町側に入った所に日本初のボーリング場を作るなど大変な実績を残している。ただし、リキアパートの住人には在日韓国系暴力団東声会のオフィスがあるなど色々な意味で世間とは違う世界だった。
そして力道山の三つ目の顔とは、東声会の最高顧問というアンダーグランドな世界の顔役であった。結果的にそれが禍して東声会と大日本興業社との抗争に巻き込まれ、1963年12月8日、赤坂のラテンクォーターで大日本興業社の鉄砲玉に刺され一時は回復傾向にあったものの、腸閉塞を併発し、12月15日に亡くなった。享年39歳。ちょうど40年前の出来事であった(後略)

勢力に深い影響力を持つ児玉誉士夫正力松太郎が非常に親しかったことが書かれている。児玉誉士夫と言えば、戦前日本軍の軍資金としての阿片密売などに関与し戦犯として処刑されてもおかしくないものをCIAの前身である米軍諜報部に全面協力を約束し赦免された人物である。そして実は正力松太郎も米軍諜報部と密接な繋がりがあったのだ。米軍諜報部将校と正力松太郎らが親しげに交流していたのは周知の事実なのである。
米軍諜報部がバックにいたからこそ正力松太郎は戦後も大手を振るって歩いていた。ちなみにこの戦後すぐの時代、米軍諜報部は日本国民を親米的にするための諜報作戦を多数行っている。近年の米国での情報公開などにより、その作戦の一部が明らかになっており、例えばラジオ番組に米国の曲を提供し日本人に米国への親近感を抱かせるという作戦などが行われていたようだ。
ただ、さすがに日本のテレビと新聞へ米軍諜報部がいかなる工作を行ったかについては未だに詳細は明らかになっていない。
現在の日本ではラジオ番組の何十倍もの影響力がこのテレビと新聞にあることを考えると、現在においてもCIAの工作が行われていることから手口が公表できないのかもしれない。
実際、現在の憲法改正キャンペーンを強力に推し進めているのは米国政府である。〔略〕だからして必死に憲法改正キャンペーンを訴える読売の社の姿勢というのは、現在においても米国の意のままというだけのことなのかもしれない。〔略〕