カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 の続き

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061127#1164573757 の続き。
昨日、内田樹『私家版・ユダヤ文化論』文春新書 の1章と2章の部分を紹介した。3章は「反ユダヤ主義の生理と病理」という題で、近代的反ユダヤ主義者、ドリュモンとモレス侯爵について語っている。そこの紹介は省略する。
以下、終章から抜粋する。

ユダヤ人問題というのは、「私の理解を絶したこと」を「私に理解できること」に落とし込まず、その異他性を保持したまま(強酸性の薬品をガラス瓶に入れてそっと運ぶように)、次の受け手に手渡すというかたちでしか扱えないものなのである。(162p)
〔略〕ユダヤ人がかかわってきた文化的領域はあまりに宏大であり、彼らがなしとげてきたイノベーションはあまりに多種多様なのである。
その「過剰さ」を説明するためには、「ユダヤ人をイノベーティヴな集団たらしめている知的伝統が存在する」という仮定はたいへん誘惑的である。〔略〕
ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」である。(177-178p)
〔略〕「イノベーション」というのはふつう集団内の少数派が受け持つ仕事である。「イノベーター」というのは、少数者ないし異端者というのとほとんど同義である。
〔略〕「民族的な規模でイノベーティヴな集団」が存立しうるとしたら、それを満たす条件は〔略〕ユダヤ人にとっての「ふつう」を非ユダヤ人が「イノベーティヴ」と見なしているということである。(178p)
彼ら〔ユダヤ人〕はあるきっかけで「民族的奇習」として、「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」を彼らにとっての「標準的な知的習慣」に登録した。
〔略〕ある種の知的拷問に耐える能力を成員条件に採択した社会集団があったとしても、私は怪しまない。(180-181p)
仮に、このような種類の知的拷問に耐える能力を集団の成員条件に採用した集団があれば、それは「たいへんイノベーティヴな集団」と呼ばれることになるだろう。仮に、この知的拷問に耐える能力を「ユダヤ的知性」と呼ぶのだとしたら、それはすでに同語反復を犯すことになるだろう。
だから、「仮に」という想定から導かれる思弁的結論は次のような驚くべきものとなる。
ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向を私たちは因習的に「知性的」と呼んでいるのである。(182p)
ホロコースト」後、多くのヨーロッパ知識人たちは、なぜ「愛の宗教」であるキリスト教が二千年にわたり教化開明し、近代的なヒューマニズムが豊かに開花したはずのヨーロッパ世界で「こんなこと」が起きてしまったのかを自問した。サルトル反ユダヤ主義論はその試みの一つである。敬虔なキリスト教徒であり、近代的なヒューマニストであることは、大量殺人者であることを少しも妨げないと言い切った点でサルトルは当時のヨーロッパ知識人の中でもっとも大胆な一人であった。〔略〕
しかし、レヴィナスサルトルの「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が作りだした社会構築的存在である」という考え方をきっぱり退けてこう書いた。
「1933年から1945年にかけて〔略〕ユダヤ人は完全に神に見捨てられるという例外的な経験を持ちました。〔略〕」(185p)
レヴィナスは「聖なる民」に過大な要求をつきつける。
「聖性とは総じて他なるものには最優先権を譲らなければならないという確信のうちに存在するものです。それは開かれた扉の前で、『お先にどうぞ』と言うことから始まって、他者のために、その身代わりとなって死ぬこと(それはきわめて困難なことですが、聖性はそれを要求しています)までをも含みます」
自らを「神に選ばれた民」であると信じ、自ら「聖なるもの」であると思いなしている信仰者集団は世界のどこにも存在する。けれども、「救い」における優先権を保証せず、むしろ他者に代わって「万人の死を死ぬ」ことを求める神を信じる集団は稀有である。
ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを「呑み込む」ために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。(187-188p)

〔略〕サルトルはこう書く。〔略〕「反ユダヤ主義者は自惚れない。彼は自分のことを中位の人間、真ん中よりちょっと下くらいの人間、ありていに言えばかなりできの悪い人間だと思っている反ユダヤ主義者が自分はユダヤ人より個人的に優れていると主張した例を私は知らない。しかし、彼はそのことをまったく恥じてはいないのである。〔略〕(193p)
反ユダヤ主義者とは自分が何者であるかをあまりに深く確信しているために、それについて考える必要のない人間のことである。〔略〕自分が「ここ」にいることの理由や意味について、彼は考える必要がない。端的に「考える」ということ自体を彼は必要としない〔略〕。
反ユダヤ主義者にとっては、知性はユダヤ的なものである。だから、彼は知性を〔略〕心静かに軽蔑することができる。それらの美質は、ユダヤ人が彼らに欠けているバランスの取れた凡庸さの代用品として用いるまがい物にすぎない。その故地、その国土に深く根づき、二千年の伝統に養われ、父祖の英知を豊かに受け継ぎ、風雪に耐えた慣習に導かれて生きる真のフランス人は知性など必要としないのである」〔略〕
人間はおのれの属性のすべてを状況に身を投じることを通じて主体的に構築しなければならない。歴史的状況との相互規定を通じて構築されたのではないような属性は存在しない。サルトル実存主義とはまさにそう教えるものだった。だとすれは、反ユダヤ主義者とは、実存主義的にゼロであることを主体的に選択した人間だということになる。(192-193p)
ユダヤ人は行動する自分を見つめ、思考する自分をみつめるように呪われているとサルトルは書く。しかし、この呪いは本来すべての人間にかけられたものではなかっただろうか。人間は端的に人間であるのではなく、他人からの承認を迂回してはじめて人間になる(「自己意識はただ承認されたものとしてのみ存在する」)と書いたのはヘーゲルではなかったか? (196P)

幼い人々は善行が報われず、罪なき人が苦しむのを見ると、「神はいない」と判断する。人間の善性の最終的な保証者は神だと思う人は、人々が善良ではないのを見るとき、神を信じることを簡単に止めてしまう。「神はなぜ手ずから悪しき者を罰されないのか」「神はなぜ手ずから苦しむ者を救われないのか」。これは幼児の問いである。全知全能の神が世界のすみずみまでを統帥し、人間は世界のありように何の責任もないことを願う幼児の問いである。(223p)
ホロコースト」の後、第二次世界大戦を生き延びたユダヤ人たちは、当然ながら深い信仰上のつまづきに遭遇した。「なぜ、私たちの神はみずから選んだ民をこれほどの苦しみのうちに見捨てたのか」という恨めしげな問いを多くのユダヤ人は自制することができなかった。(226p)
〔略〕レヴィナスユダヤ教正系の立場から、それは幼児のふるまいに等しいと諭している。
「罪なき人々の受難」という事実からただちに「神なき世界」、人間だけが「善」と「悪」との判定者であるような世界を結論するのはあまりに単純で通俗的な思考といわなければならない。おそらくそのような人々は神というものをいささか単純に考えすぎているのだ。レヴィナスはそう告げる。(227p)
神が顕現しないという当の事実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらしうるような人間を神が創造したことを証明している〔とレヴィナスは説明している〕。〔略〕
「私はこれまでずっとここにいたし、これからもここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、「私は遅れてここにやってきたので、〈この場所に受け容れられているもの〉であることをその行動を通じて証明してみせなければならない」と考える人間の、アイデンティティの成り立たせ方の違いのうちに存している。(239p)

ぽちっとな