カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

「惨め」という感覚

我が前半生は惨めだった。知性は生ゴミよりも有害無益なものとして扱われた。勉学とは悪しき道楽でありそもそも全く無用で有害なものだが、社会的慣習としてやむを得ずなすべきものとされていた。そこに価値はなかった。努力とは単なる徒労を意味した。希望とは紙の上にだけある空々しいものだった。思考力は思考しない努力をするために使われた。忍耐とは自殺しない思考法を編み出すことを意味した。生きていることとはムダに使い潰されることを意味した。肉親とはこの世で最も心が通わず言葉も通じない人のことを意味するというごく簡潔な事実に気づくことができず、たとえ気づいたところでそれへの対処法はそもそも存在しなかった。同級生という語は牢獄を意味した。彼らはこの世で最も得体の知れない何かであると当時から思っていたが、そのことを意識しようがしまいが、我が生涯はその因習的牢獄で潰されるべきであると規定されていた。せめてあの環境のどちらかがもう少し人間的だったら、我が人生は違うものになっていただろうか。
人生は牢獄ではないし、知性は有害無益ではないし、他人と対話は可能であると実感するには、潰された時間と同じくらいの時間が要った。たぶん私には「惨めさ」という感覚が、同年代のかなり多くの人々よりも長期に深刻に刻み込まれている。もちろん私よりも深刻に刻み込まれている人が決して少なくはないことは知っている。だからと言ってそのことが慰めになるわけでもない。あれだけ長期間、さまざまに「惨めさ」を味わされたのは、個人としては不幸だが、「惨めさ」の具体感覚を持たないまま前半生を過ごした場合よりは、なんらかの深みを得たのではないかな、とも思う。生来激しく狭量であるにもかかわらず、あの「惨めさ」を味わう原因となった要素の一つによって狭量さを人に(すぐには)察知させない鍛錬を積み、人見知りをせず愛想よく振舞うという鍛錬を積んだことは、表裏関係ではあるが、それはそれで財産だ。
…だが、あの「惨めさ」を思い起こされるのは、やはり苦痛である。しかもコンボで来るなっつーの。
そして習いたての占星術で我がホロスコープを見ると、月のところに凶角が…。これは前半生の不幸を意味するっぽい。うう ・゚・(ノД`)・゚・ 

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