カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの燻る日記

表現規制反対活動を昔していた。元エロマンガ家。元塾講師。現在は田舎で引きこもりに似た何か。

人生後半になるのに、自分は恋愛が下手だとつくづく思った

人生後半になるのに、自分は恋愛が下手だとつくづく思った。わざわざ難儀な道に踏み分けんでもいいのにわざわざ難儀な道に踏み分け、チャンスをわざわざ棒に振り、望外なリアクションが来たら仰天して不適切に振舞ってしまう。温かな気遣いの遣り取りというものへの怯えがあるのだろうか。…今週は神経性の腹痛が続いている。たぶんこんなことをずっと無意識に考え続けているからだ。好意を持つ相手に温かな気遣いを示すべきであるという根底的振る舞いが、自分の中で滑らかに動かない。悔しいなあ。情愛関連は人それぞれに偏りを持ちがちなものではある。私の場合、わざわざ難儀な相手にこういう感情を抱いてしまうのは、保護欲求と恋愛感情と欲情との間に、刷り込み的な曲がり絡まった錯誤が自分の中にあるからだ。曲がり絡まった錯誤がその状態のまま駆動しているのが、自分にとって快楽なのだ。ならばそれは自己完結的快楽であり、だから相手方からの反応に対して不適切に振舞うのだろう。しかしながらたとえ円満に駆動していなくとも円満な着地点は探るべきだし、適切に振舞うべきだ。以上、言語化してみた。実際の行動としてはどう振舞うべきなのか。温かな気遣いを示すこと、それが正解のはずだ。温かな気遣い…不得意とするところだ。自分の情緒と切り離せばたぶんそれなりにできそうに思えるのだが、自分の情緒と切り離さないとできないから私は恋愛下手なのだろう。その温かみは湿り気を帯びた温かみであればなお望ましいように思うんだが、湿り気はさらに不得意とするところだ。…いや、湿り気はこの場合不要か。他人のために涙することができたと自分では思っていても、さらに自己観察すればそれは自己撞着自己憐憫にすぎないことはたいへんに多い。自身でそれを区別するのは難しい。だから湿り気はたぶん不要だ。好意を獲得したい人へ、温かな記憶を残すべく振舞わなくてはならない。ごく当然なことなのだが、ごく当然な行動というのは困難なものだ。…なんとまあ自分は愚図なのだろうか。

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